第14話 水合わせ

 儀式は失敗した。


 幻神がずぶ濡れの明里を横抱きにして、境内に戻ったときには、村長含め宮司や長者は半狂乱になった。明里が川に落ちたのは事故ではあったが、状況はどうみても身投げと変わらなかった。


「も、申し訳ございません! 幻神さま。この小娘は、なんという‥‥」


 力尽きて気を失っている明里の青白い顔を幻神は無言で見つめている。村長は激昂した。


「巫女! 貴様、明里の監視役だろう? 説得したのではなかったのか」


 びくり、と巫女は身体を震わせた。村の年役全員が巫女に責任をなすりつけようと必死だった。


「よい。明里は無事だ」

「し、しかし‥‥おい。巫女! こちらに来い!」


 巫女を引き倒し、幻神の前に這いつくばせる。声も出せずに巫女は石畳の上に突っ伏した。その様を、幻神は興味もなさそうに眺めた。


「村を潰すのだけはどうかご勘弁を。明里の命も、この巫女の命も差し上げます。だからどうかお許しください」


 巫女はかたかたと震えながら幻神に向かって土下座した。贄の世話をしていた巫女も同罪のようなもの。歯向かうこともなく、自らの命も差し出すつもりだった。そんなことで災厄が収まるとは思えなくても。村のため、集団のためにそうするしかない。


「よいと言っている。むざむざ俺の前に血の穢れを晒す気か。それこそ災厄ものだ」


 けれど、幻神は眉を顰めた。不愉快そうに村長の申し出を拒否する。


「し、しかし‥‥」

「同じことを何度も言わすな。そんなに死にたければお前のみ土に潰れるがいい。勝手にしろ」


 幻神の瞳が金色に輝く。ジャの目を目の当たりにしてひいっと年役たちは腰を抜かした。ようやく村長が口をつぐむと、幻神は這いつくばる巫女に膝をついた。


「すまないが、明里の介抱をしてやってくれないか?水は吐かせたが、身体が冷え切ってしまった。着替えも頼みたい」

「‥‥え‥‥は、はい」


 目を丸くした巫女に、幻神は微笑んだ。作り物の笑顔でもこういうときは役に立つ。巫女の怯えは僅かばかり緩んだ。明里の身体を巫女に預けると、幻神は踵を返してその場に背を向けた。


「しばらく外す。とにかく、明里には手を出すなよ」


 そうして一陣の風とともに姿を消した。社に取り残された面々は皆顔を見合わせ、途方に暮れた。何も知らない村人の祭囃子だけがいつまでも響いていた。棚機たなばたの夜はそうして終わりを告げた。





 棚機から数日。儀式の失敗は厳重に秘匿にされていたが、ひとつ問題が起きていた。村の神木であるクスノキが真っ二つに割れていたのだ。根本から崩れ落ちている有様なのに、誰もいつ雷が落ちたのかすら分からなかった。理解できない現象は、人々を不安にさせる。


 しかも、いつまでたっても、神の恩恵らしい恩恵はやってこない。祭りで浮かれていた熱は急激に冷め、人々は現実に立ち戻る。飢饉や冬越しのための貯蔵をすべて供物に捧げてしまった村人は村長や宮司に詰め寄った。いくら説明を求められたとて、棚機の晩から幻神は姿を消し、明里は社に留め置かれたままだ。状況は年役たちにすら分からなかった。二進も三進も行かなくなった村の中、噂は噂を呼び、不安は伝染していった。


 儀式は失敗し、もうじき村は神の怒りで潰されるのではないかと。


 神木が割れたのはその前触れではないかと。


 雨が降れば水害を、晴天が続けば日照りに怯え、日常生活すらままならなくなっていた。

 

「だからって、俺にどうにかしろと言われてもなー」


 清治は社の鎮守の杜を探し回る。村長や宮司は村人を収めるのに手一杯で、巫女は明里につきっきりだ。幻神とある程度親交があり、話ができるのは清治しかいなかった。


「村長のじじい。単になにかあったときの責任を押し付けたいだけだろうが」


 ぶつぶつ独り言を言いながら、険しい杜を歩く。人が立ち入ることを想定していない禁足地は歩くことすら一苦労だ。それでも宮司からある程度の場所の目星は聞いていた。


 巨大な杉の木。

 数百年前からある磐座。 

 そして、こんこんと湧き水の出づる清流。


「いたいた。やーっと見つけた」


 清流の近く、霊石に寄りかかって眼を閉じていた幻神はゆっくりと瞼を開いた。 


「清治か」


 人というより蛇が頭を起こしたような不思議な動作だった。視線を傾けるだけで動こうとしない。草むらをかき分け、清治は近づいた。


「ほら、飯。カミサマ、社の神撰所にも行ってないんだろう? 腹が減ったかと思って」

「‥‥」


 逃げられないように餌で釣る。不敬にもほどがあるがそんな心地だった。幻神は何も言わない。普段は好奇心旺盛でむしろ多弁なほうなのに、今は毒気が抜けたように静かだった。できるだけ普段通りに清治は会話を続けた。


「こんなところに湧き水が出てるんだな。飲んでもいいか?」

「別に俺のものではない。好きにしたらいい」


 では遠慮なく、と清治は手で掬って喉を潤した。ひんやりと冷たく、井戸水とは違う清涼な喉越しが身体に染み渡った。ふー、と息を吐く。野鳥の声。木々のざわめき。涼しい風が心地良い。


「いい所だが、なんでこんなにいるんだ? 皆探していたぞ」

「少々力を使いすぎてな。身体を癒やしていたところだ。写し身の、まして人の身で幻術を使うのはいささか疲れるんだ」


 幻術を使った経緯については触れないで置く。それはあまり首を突っ込んでいいことではないのは、宮司の対応を見れば明らかだった。けれど、覇気がないのはそのためか。普段の幻神は生前の千冬よりも生気にあふれていたというのに、今は輪郭すら朧気に見える。水に溶けて消えてしまいそうだった。


 風呂敷から社から預かった神酒を差し出す。幻神は受け取りはしたが、口に運ぶことはなかった。容態はもしや、深刻なのだろうか。


「その様子じゃ災厄なんて起こせなさそうだな。大丈夫か?」

「なんのことだ」


 清治は幻神の横に腰を下ろして、ため息をついた。少なくとも会話はできるようで内心ほっとする。


「村は今カミサマが怒っているって怯えきっているんだよ。昨日なんかただの夕立に悲鳴上げて逃げ回ってるんだぜ。可笑しいよな」

「‥‥俺は何もしていない」


 だよな、と清治は笑う。努めて自然に、刺激しないように。


「なら、やっぱりあのクスノキが割れたのも偶然だよな。ほら前に一緒に雨宿りしただろう?」


 祈るような気持ちで問いかける。ただの偶然。たまたま、雷があの場所に落ちただけだ。それなら胸を張って清治は村人に宣言できる。何も心配事はないと。その願い虚しく、幻神はあっさりと白状した。


「ああ、それは俺だ。面倒だから幻術で見えないよう施していたが、術が破られたからな。露呈したんだろう」

「‥‥」


 神様が村の神木を破壊する意味。どう考えてもただごとではない。清治はもう一度ため息をついた。詳しいことは聞いていないが、厄介なことを押し付けられたのは間違いなかった。


「‥‥明里と、なにかあったか?」 


 あえて出さなかった名前を口にして、本題に切り込む。あの夜、輿入れするはずの贄が今も社にいる理由。できれば逆鱗には触れたくなかったが仕方がない。眉一つ動かさず、これにもあっさり幻神は答えた。


「盛大に振られた」


 ぶふ、と清治は咳き込んだ。


「‥‥なんで、それはまた。明里は儀式の受け入れを了解してたんだろ? なにしたんだ」

「押し倒したら泣かれた」

「‥‥」


 どうにも、いろいろと端折られている気がしたが、それだけ聞けば充分な気もした。


「困ったことに、それなら俺は村を潰さねばならない。けれど、どうしてもその気にならなくて考えあぐねていたところだ」

「いや、頼むからそのまま思いとどまっていてくれ」


 清治は頭を抱えた。俺一人でどうにかできる相談じゃないぞ、と心の中で悪態をつく。


「なあ、清治」


 ぽつりと、幻神は問いかけた。


「お前から見て、千冬はどんな男だった? いくら明里の中の千冬を模しても、まったく違うと言われるんだ」


 その声は本当に途方に暮れたような、どうしたらいいか分からないという戸惑いが滲んでいた。──千冬。結局はそれなのだ。


「‥‥明里はなんか言ってたか?」

「千冬は愛しているだなんて言わないと、ひどく拒絶する。祝言を挙げる予定だったのだろう。何故?」


 あんまりにも無垢で、あんまりにも普通の疑問に清治は言葉に詰まる。


 明里も千冬の本心に気づいていたのは意外だったが、さして驚きではなかった。正直に言って明里の恋は傍から見ても重かった。明里ほどの情熱を千冬は返せていなかった。幻神が理想の千冬を演じたなら、それはズレも出るだろう。明里自身が耐えられなくなるほどに。


 清治は三度目の長いため息をつく。こればっかりは、神様に伝えないと永遠にすれ違いを起こしたままだ。それに、千冬が明里を拒めなかった理由は清治を含め、村人全員の咎でもある。


 清治はありのまま伝えた。千冬の母を村が面倒を見ていたことを。その代わりに、千冬が明里と祝言を挙げることになっていたことを。それを村中が無言の圧力で強要していたことを。


「それはいったい何が問題なんだ」


 案の定、神様は訳が分からないという顔をした。


「母親のかわりに明里の面倒を見ていたなら正当な約定だ。それで村の中での立場が約束されているなら、この男は不幸でも損でもない」

「でも、明里は気に病んでいるだろ。それに、千冬もこう言っちゃなんだが‥‥息苦しそうだった」

「‥‥くるしい? なにが?」


 ますます訳が分からないという顔をして、幻神は首を傾げた。


 確かに千冬は自身の立場を嘆いていたことはなかった。けれど、傍から見ていて息苦しそうだとは思った。母親を見捨てられないのは当たり前の感情だったし、明里の立場も同情されるべきものだった。明里の千冬に対する依存も理解できる。だからこそ、否定できず、拒否もできない千冬を哀れに思った。


「千冬自身の意志なんて、どこにもないじゃないか。千冬が自分から明里と夫婦になりたいと望んだのならともかく、母親のため、村のために、全部勝手に決められていたよ。いつも他人の望みを優先させて、見ていてしんどそうだった。あれじゃお人形だ」


 突然、幻神が肩を揺らして笑い出した。くつくつと本当におかしそうにわらった。今笑うところあったか?と意味が分からず、清治は怪訝な顔をした。ほんの少しだけ、本能的に距離を取る。


「‥‥なんだよ?」

「──いや、いい。なんでもない」

 すっと笑みを収めた幻神は、清治から視線をそらし、水面に映る自身の顔を見た。


「ヒトとは集団で生きるもの。個の前に群れを守るのは正しい。本人より先に村が滅べばそれこそ破滅だろう。ヒトが生きるには地盤あってこそだ」

「‥‥それで潰される本人は溜まったもんじゃなかったと思うぞ」 


 今となっては、あの洪水のときに一番危ない橋桁の補強を買って出たのすら本人の意思か分からない。誰もがあのときの川の勢いに躊躇していた。清治すらも、変わってやるとは言えなかった。千冬は自然と周りの空気を読んでしまう。そういう人間だった。


「俺にはずいぶん懸命な男に聞こえるよ」


 清治はかちんとくる。千冬と仲が良かったせいでどうしても千冬の肩を持ってしまう。でも、だからと言って清治だって、千冬に依存する明里を止めたりしなかった。千冬の母を養うための米は、清治の食い扶持からも抜かれていた。


「‥‥あんまり、明里の前でそういうこと言うなよ。折り合いをつけられるかは、それこそ個人の問題だ」

「分かっている。明里がどれだけこの男を想っているかは身に沁みて理解できた。道理も知らずに、愚かな娘だ」


 ずいぶん投げやりな言い方だった。それまでは散々合理的で無感情な言葉を吐いていたのに──初めて、人間のように拗ねて見えて。ははん、と清治は含み笑いをした。


「なんだカミサマ。女に振られたのは初めてか」

「失礼な。男にも振られたことはない」

「あっそ」


 訳の分からない言い訳に清治は肩をすくめた。

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