第12話 水の底

 神立かんだちは鳴り響き続けた。


 光る雷鳴に一瞬映る幻神の影はもはや隠すこともなく、とぐろを巻く大蛇を映す。神の怒りに触れた明里は怯えきり、逃げることもできずに震えるしかない。蛇に睨まれた蛙そのもの。そんな明里に幻神は笑った。あの千冬の優しい笑顔で。


「なにを怯えることがある。お前はこの男の笑顔が好きなんだろう?」


 言われて気がつく。いつも幻神が笑顔を貼り付けていた理由。喜怒哀楽の機微は少ないのに律儀に笑顔だけは取り繕っていた理由。明里の思い出の中の千冬がいつも笑っていたからだ。


 けれど、今はその笑顔が恐ろしい。金色の眼だけは笑っていない。明らかな怒気で明里を釘付けにしている。明里の命も村の運命も、今やこの神様の手のひらの上。鎌首をもたげた蛇が獲物の動きを伺うように瞬きすらせず凝視している。


「俺を千冬として見られないのはよく分かった。だが、それだと俺も困るんだ。村を潰すのは造作もないが、次の贄の儀式まで待つのは少々骨が折れる」


 それに、と幻神は笑って続けた。


「俺は死の不浄が大嫌いだと言っただろう?」


 それは、村人の命を尊んでいるからとか高尚な理由ではなく、単に自分の嫌いなモノが目に入ることすらおぞましいという、単純な感情だった。


「少々手荒だが、ここにあの穢らわしい遺灰はない。なら、幻術も効くだろう」


 身動きできない明里に幻神は体重をかけた。頬を撫で、髪に口づけ、そのまま、品定めするように顔を近づける。


 ──喰われる。


 明里は一瞬本気でそう思った。比喩でもなんでもなく、大きな口を開けた蛇が、自身を丸呑みにしようとしているように錯覚した。事実、幻神は明里の震える唇を食んだ。下唇を咥え、ついばむように何度も噛んだ。喰いちぎられる、と肩を震わせた明里の肩を抑えつける。しかし、痛みはいっこうに訪れることはなく、やわやわとした甘咬みだけが、飽きることなく続く。朧気な焦点を向けると金色の眼とかち合う。


 目が合うといつものように、幻神は嬉しそうに目を細めた。


「もし、あの遺灰を俺の神域に入れていたら、それこそ山崩れのひとつやふたつでは収まらなかったぞ」


 目を見開いた明里を見て、満足げに幻神は笑った。明里はようやく気づく。幻神が明里に手だししなかった理由。贄ならずともよいと、災厄でも恩恵でもどちらを与えてもよいという表向きの理由以前に、もっと単純な理由。千冬の遺灰に──死の穢れに触れたくなかったからだ。


「‥‥っ」


 するりと幻神の手先が元結を解く。明里は別の意味で身を固くした。甘咬みを繰り返していた唇から長い舌が入り込んできたからだ。引き絞る唇をこじ開けて口内を侵食する。舌先さえ動かせない明里を一方的に嬲る。蛇が獲物を飲むように唾液ごとまるごと持っていこうとする。明里には拒否の声すら上げられない。されるがまま、舌の根本まで侵入を許す。恐ろしい言葉とは裏腹に優しく、柔らかいところを蹂躙される。怖気が止まらないのに、背筋がぞわぞわと粟立った。その相反する感情で明里の気持ちはぐちゃぐちゃになる。


 ここまで千冬との違いをまざまざ突きつけられてもなお、身体だけが正直に、千冬の面影に反応している。心と身体が離反して、苦悶から涙が一筋こぼれ落ちた。つ、と唇を離した幻神はあふれた唾液をなめ取り、不思議そうにした。


「なにを泣く。この男とは祝言前にこうしていたじゃないか」


 ぎくりと明里は強張る。この神様はいったいどこまで見えていて、どこまで暴く気でいるのか。


「本当に強情な贄だな。仕方がない」


 幻神は衣をはためかせ、何事か呟いた。古の言葉。神代の言語。明里には一文字も理解することはできなかった。手のひらを明里の目元に押し付けて、その視界を奪う。頭の中が靄がかかったように不透明になる。


「俺は幻惑を司る神。夢を見せることもできる」


 幻神がフッと息を吹くと橙台の火が一斉に落ちる。しん、と静寂が落ちて闇に投げ出されたような心地になる。気がつけば、雷鳴は止んでいた。否、最初から落雷などなかったのか。暗やみの中、人ならざるモノの声が響く。


「千冬が川に流された。それを夢だと思わすこともできる」 


 甘い香が立ち込めて、嗅覚が奪われる。視覚は暗闇に、聴覚はその声に。触覚は膜が張ったようになんの手触りもしない。残った味覚は“千冬”の唇に再び支配された。


「さっさと俺の水底に沈め。あかり」


 どぶん、とまるで本当に水の中に落とされたような感覚。ぬるま湯に浸かっているようで不思議と心地はよかった。夢うつつを揺蕩いながら、意識が微睡む。耳元で水の音がする。川の流れる音。せせらぎの音。夜の林が揺れる音。春の風。月夜の晩。頭にいつかの光景が泡のように浮かんでは消えた。


「──なあ、明里。祝言を来月に控えて、こうして影で会っていたよな?」


 声色が、変わった。無機質な音のような発声ではなく。寸分違わぬ千冬の話し方。吐息の漏れ方。抑揚の付け方。明里の脳は一瞬でその声に思考を奪われた。明里の肩を強く抑えてつけていたはずの手は今は優しく、労るように抱き寄せる。


「ずいぶん辛抱させたが、やっと日取りが決まった。ようやく祝言をあげられるな」


 記憶が呼び起こされる。懐かしい睦言。二人だけの秘密。幸せだったときの記憶。人の目を盗み、明るい月夜の晩に二人で逢瀬を重ねていた。あの夜。


「花嫁衣装はおまえの亡き母のものを借りよう。きっと喜ぶ」


 そうだっだ。こんな高価な白無垢を着るなんてやはりなにかの間違いだった。質素でも母が父に嫁いだときの打掛がいい。死装束のような白ではなく、鮮やかな紅梅色。千冬はいつも明里の気持ちを汲んでくれる。優しい千冬。


 愛おしげに頭を撫でられると、明里の脳は麻痺した。鳥肌がたつ。頭の警告音が遠ざかる。理性が崩壊する。五感すべてが奪われて、思考できない。


「俺の母も亡くなった。でも明里、俺にはお前がいる」


 祝言を目前に千冬の母も病に倒れた。早くに両親を亡くした明里にとっては、もうひとりの実母に等しい存在。本当に悲しかったけれど、千冬と励ましあったいつかの日々。唯一の肉親を亡くして悲しみにくれているはずなのに、千冬は明里の気持ちを優先させてばかりいた。


「これからふたりで、頑張っていこう」


 涙が出た。嬉し涙だった。聞きたかった言葉。触れられたかった指先。いつの間にか自由になっていた腕を千冬の背に回す。答えるように、千冬の腕が明里を優しく抱きしめる。明里は目を閉じて、その大好きな胸に顔を埋めた。心臓の鼓動が聞こえる。血潮が通った体温がある。この温かい身体が冷たくなったなんて信じられない。信じたくない。そんな現実ならいらない。


 ──もういいか。誰も彼も明里を置いて行くのなら、誰が明里を咎めることができよう。幻に縋ったとてなにも悪くはないはずだ。


 はじめて、明里は千冬の幻に微笑んだ。千冬は目を細めて、優しく唇を合わせた。

 

「明里、俺はお前をあいしている」


──ちがう。


 それはまるで泡が弾けたようだった。水の中をたゆたっていた意識が浮上する。急激な覚醒。甘い香りが消える。暗闇に目が慣れる。草木のざわめきが聞こえる。頭が正気を取り戻す。目の前にいるのは千冬ではなく、千冬のマガイモノ。ここは一年前の人目を忍んだ林の中でなく、社の境内の離れ。春の月夜の晩ではなく真夏の棚機の夜。夢から覚めたように、すべての感覚を取り戻す。ほとんど反射で、重ねられた唇を噛んだ。瞬間、ぶつり、とお互いの唇が切れる。驚いたように幻神は身を起こした。


 唇から滴り落ちる血。──血の穢れ。


 死と同様清浄なものが嫌うもの。金縛りも幻惑もすべてが解かれる。身体が動く。それはいっときのことであったが、明里が正気に戻るには充分な時間だった。


 どんっと明里は幻神を突き飛ばした。そのまま、幻神の腕から抜け出すと振り向かず、建屋から転がり出る。あの神立もやはり幻術だったのか、外はなにごともなく、祭囃子の音が鳴り響き、虫の音すら鳴いていた。夜の中、明里はがむしゃらに足を動かした。後を追われる気配はない。けれど鎮守の森の中を走る。なにかから逃げるように走る。


(ちがう、ちがう、ちがう──)


 呪文のように繰り返す。白無垢はすぐに土が跳ね、泥だらけになり、草木の枝先が明里の手足や頬をひっかいた。それでも逃げた。神様から、村から、自分の幻想からひたすら逃げた。


(千冬は、ちがう)


 どこまで走ったか。息が切れて酸欠になり、足を滑らした。先日の嵐で緩んだ地面が突然崩れた。


「‥‥っ!」


 場所が把握できていなかったせいか。そこは崖だった。滑り落ちていく先には川。何度か身体を打ち付けて、声も出せずにどぼん、と川に落ちた。幻術の水の中とは違い、息が苦しく、体温がすぐに奪われる。帯や打掛けが重しになって這い上がることができない。もがき苦しみながら、明里は涙を流した。──見たくなかったのは、目をそらしていたのは、千冬の幻ではなく、千冬の姿をした神様でもなくて、自分が望む千冬の妄想。自分自身の醜悪さ。


──だって、千冬は明里のことを愛してなどいなかったのだから。

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