第11話 神立

 ──棚機たなばた


 古くから続くこの國の年中行事。

 はるか昔、水浴びをしていた水神に、ひとりの娘が衣を手渡した。娘は神に見初められ、娘の村は豊穣が約束された。その伝説をなぞり、今でも夏から秋の境の時期に豊穣を祈って、村から選ばれた娘が衣を奉納する。


 海の向こうの大陸では、星祭と絡んで、天の川に隔てられた恋人が逢瀬を許される日。大陸の文化が入ってくる都ではこちらの意味合いのほうが主流になりつつある。どちらにしても、婚姻と豊穣に関わり深い節句。これほど神々の伴侶の儀式にふさわしい日もあるまい。


 明里は早朝から巫女に連れられて、川でみそぎを行なった。髪洗いのために白衣を身にまとい、水辺で髪を透かす。棚機は禊の祭事でもある。心身の穢れを落とすため、巫女は入念に明里の身を清める。されるがまま、明里はごうごうと勢いよく流れる川の水を見ていた。氾濫するほどではないが、先日の嵐で水嵩は高かった。村一番の河川。人々の生活用水でもあり、作物や稲作にも欠かせない川。


 ──そして、千冬を飲み込んだ川。災厄と恩恵。まるでその象徴。欠かせない存在であると同時に恐ろしい性質を併せ持つ。水も神様も、確かによく似ていた。

 


 禊のあと、社の鳥居に足を踏み入れる前に巫女に呼び止められた。


「明里、麻袋をこちらに。神域に死者の持ち物は入れられません」

「‥‥」


 明里は黙って懐を抑えた。社に血や死を暗示させるものを入れてはいけないのはこの國の常識だ。幻神が死の不浄を嫌っている以前に、喪に服している者、月の障りがある娘なども境内には立ち入れない。死者に対する弔いは寺の役目であり、社は祝い事しか執り行わない。まして、今日は祭り、ハレの日である。それでも明里は躊躇した。千冬の遺灰を手放すのがこわい。自分を保てなくなりそうで心もとない。自分の心臓のように握りしめる明里を見て、巫女は静かに諭した。


「私が責任を持ってお預かりいたします。境内には入れられませんが、必ずお返しいたします。なので、今はこらえてください」


 儀式が終われば明里の身はどうなるか分からない。それでも、真摯に千冬の遺灰を大切にすると誓う巫女に明里はほんの少し心を許した。村長や長者に取り上げられるよりはマシであろう。名残惜しく、麻袋を手放す。自分の魂もふと、手放したような気持ちになった。



 社務所の広間で明里は花嫁装束を着せられる。白無垢の打掛には縁起の良い鶴や松の刺繍。おおよそ、ただの村娘が着る花嫁装束ではない。この日のために村長や長者が奔走した様子が目に浮かぶようだった。惚れ惚れとするような打掛けすら、明里の肩には重くのしかかる。紅を引き、おしろいをつけると肌まで縛られたような心地がした。髪は緩やかに後ろに流し、元結もとゆいで止める。手伝いの村娘はしきりに褒め称えてくれたが、美しく装飾されていけばいくほど、明里の心は硬直していった。


 準備が整うと巫女に手を引かれて、拝殿に明里は踏み入れた。村の社はそこまでの広さはななく、出入りできる村人は限られている。長者は稲穂を、機織りは絹を、漁師は魚を。神楽殿では巫女が舞踊を捧げる。それすべて、当然のように本殿に鎮座している幻神のため。


 本殿は御神体を祀る場所であるため、神職ですら容易に足は踏み入れない。けれど幻神は悠々と腰を下ろしていた。後から来た明里には一瞥もくれずに、代わる代わる捧げられる供物を受け取っては、時折口に運ぶ。いつもの露草色の水干姿ではなく、月白色つきしろいろ浄衣じょうえを身にまとった幻神は確かに厳かに見えた。両の耳にはこれもまた献上品か、魔除けの翡翠ひすいの耳飾りが揺れている。 


 村祭りには、旅の行商人が招かれるものだが、今回は違った。この村だけの恩恵。この村だけの祝福。村の入り口を閉じ、橋を閉じ、誰も敷地には踏み入れられない。神の加護を享受するのはこの土地に住まう者のみと、誇示するように厳重に仕切られていた。


 祭事は一日がかりで行われ、滞りなく、最後の儀式に向かう。途中、明里の唯一の親族である従姉妹も招かれたが、二言三言交わしただけですぐに帰った。千冬のことを知っている従姉妹も幻神を前にしては何も言えないのだろう。誰も彼もが、明里を取り残していく。賑やかになっていく祭囃子とは対照的に明里は静かに沈んでいった。夏の長い日も徐々に翳り、篝火かがりびが灯された。




「さあ、明里。離れの建屋に幻神さまに捧げる衣がある。とってきてくれるか」


 説明じみた口調で、村長が告げた。最後に娘が衣を捧げれば、棚機の祭事は終了である。それすなわち、明里が輿入れするということ。村の安寧が約束されるということ。村長は顔を上気させて浮かれている。無言で明里は頷いて、離れに移動する。付き添いはなく、明里はひとりきりだ。離れに人影はなかったが、燭台が設置されていて室内を照らしていた。外からは酒盛りの笑い声が聞こえてくる。けれど、ここだけは薄暗く、静かだった。浮ついた空気は薄まり、しん、と冷えている。明里は気が張りっぱなしだった肩を少しだけ緩ませた。


 床の間に入ると檜膳に白絹が置かれていた。これを幻神に手渡せば儀式は、終わり。明里は幻神の伴侶になる。神の國に行くことになる。神の國とはなんなのかは知る由もない。ただ、人の枠を外れるのは確かだった。幼い頃聞いたわらべ歌では、めでたしめでたしとだけ歌われている。その先は語る必要もないとばかりに。その衣を手に取らず、明里はじっとしていた。


(戻らないと‥‥)


 明里は目元を袖で拭って、衣に手をかけようとする。ふいに、燭台の火が不自然な揺れ方をしたのが目に入った。


「──よかった。さすがに社に穢れは持って来なかったか」


 はっ、と振り向くと、幻神が柱に寄りかかりながら、こちらを眺めていた。


「巫女は忠告を聞いたようだな。お前に肩入れしていたから、どうなるかと思ったが」 


 明里は立ち上がろうとしたが、何故か足は動かなかった。


「ああ、戻る必要はないぞ。俺をここに寄こしたのは村長だからな」


 にっこりと幻神は笑う。


 風もないのに、燭台の灯りが揺れた。幻神の影が土壁に映る。その影はまるで大蛇のように長く伸びていく。真黒い影とは対照的な真白い浄衣が、何をも寄せ付けない清浄さを放つ。その明暗に明里は気圧されていた。


「な、なぜ。私は逃げたりしませんよ」

「そんなこと村の者が信じるわけないだろう。利権を独占したい長者がお前が逃げぬうちに、と村長を唆した。宮司も無論、承知している。だから、誰も来ないぞ」


 はめられたというのに、明里は今は村の者のことより、目の前の幻神に釘付けになっていた。普段と同じ調子だというのに、笑う幻神に怖気が立つ。


「俺としても棚機の祭事にわざわざ倣う必要もないのだが、まあ‥‥ヒトはこういう区切りが大事だからな」


 幻神のことを、軽んじていたわけでも、敬っていなかったわけでもない。ただ、千冬と同じその顔と声のせいで油断していたのは確かだった。いつも飄々とした笑顔を貼り付けていたから、最初に感じた恐怖が薄れだしていたことに今更気づく。


「どちらにせよ、逃げる気がないのなら、なんの不都合もないだろう?」


 幻神が一歩踏み出した。明里はびくり、と身体を震わす。覚悟していなかったわけでも、逃げる気があったわけでもないのは本当だ。でも、今、明里の前に立つ幻神の出で立ちが、まるで違う。いつもの暗い水底のような瞳ではなく、黄金に光る眼がじっと明里を見つめている。まるで大蛇に睨みつけられているような圧迫感。


 幻神はふいに指先を向けた。


「あっ‥‥」


 くいっと人差し指を下げるだけで、明里は床に磔にされた。打掛が広がり、髪の毛が乱れる。明里は指先ひとつ動かすどころか、瞬きすらできず、金縛りにあう。


 仰向けに転がる明里に、ゆっくりとした動作で幻神は近づいた。一歩一歩戸板が軋むたびに、明里は冷や汗が止まらなかった。笑みは浮かべているものの、ひたすら無機質な瞳が明里を見下ろしていた。 


「神様が、力づくですか」

「俺も本意ではないんだがな」


 長い指が明里の顔を捉えた。間近に近づいた瞳に飲まれそうになる。


「お前の態度は気に食わない」


 目を閉じることすら封じられた明里はその異形の目を見てしまった。感情の色が読み取れないのに、刺すような怒りだけが伝わってくる。なにもできない明里をいたぶるように、長い指先が唇を撫ぜた。


「さっさと俺を千冬に重ねたらいいだろう。お前はまるで、必死に水面から空気を求めて顔を出す金魚のようだ。もがくから苦しくなる。力を抜けば楽になるというのに」


 歌うように、幻神は笑う。言葉ひとつ発されるたびに明里の身体の硬直は増した。


「何故いつも目をそらす。この姿を望んだのは他でもないお前だ。“生きている千冬”が欲しかったのだろう? ちゃんと与えたじゃないか」


 唇から首筋、そして鎖骨を撫でていた指が胸元で止まる。そこは、千冬の麻袋をいつもしまい込んでいた場所。


「死者の灰に縋って何になる? 死んだ者は何もなし得ない。あの遺灰はお前を救わない。救うのはそれこそ、俺の──神の領分だ」


 触れるか触れないかの指先すら感電したように、痺れる。散々死の不浄は禁忌だと教えられて育ったのに、何故この神様を前にして、千冬の遺灰を身につけていたのか。せめて、誰も見えない戸棚に隠しておくべきだった。今更後悔しても遅い。


「俺は土地に根付くもの。お前を含めたこの土地のもの、すべてに恩寵を与える。だが」


 笑みが消える。冷ややかな視線は真夏だというのに室内の温度まで凍てつかせた。


「──そこに亡者はいらない」


 畑田を耕すのも子を生み育てるのも、信仰を芽吹かせるのも、すべて生者の役割。死者は遺体で土壌を汚すばかりか、時には疫病を蔓延させ、大切な生者を危険に晒す。だから、この國の神は死の不浄を嫌った。死を暗示させるもの、血を連想させるものを神域に入れることさえ禁じた。そんな清浄を好む神に対してのこれ以上ない侮辱を明里はしでかした。


 だというのに、明里はまた間違える。千冬恋しさのあまりに、また見失う。


「あなたに嫁ぐのはもう了解しています。贄にでも伴侶にでもなります。でも、千冬として見ることだけはできません。千冬はわたしの──」


 突然、声が出なくなった。ぎちぎちと、蛇に喉を締められているような息苦しさ。幻神の瞳はジャの目のように瞳孔が開く。恐ろしさのあまり明里は震え上がった。その目を見て思い出す。幼い頃、社の宮司から聞いたことがある。水神の化身は蛇であると。脱皮を繰り返す蛇は不死の象徴。不死より死が恋しいと、よりにもよって明里は宣言してしまった。


「お前、俺より穢らわしい亡骸が恋しいと抜かしたのか」


 ぴしゃんっと雷が落ちた。雨音はしない。晴れているはずなのに何重にも落雷が響く。先日の嵐なぞ、比べ物にならない異様さ。災厄とはこういうことを言うのだ。どうして今の今まで、このヒトを、カミサマを前にして平然と会話できていたのか信じられない。


「それ以上口を開いたら、村ごと潰すぞ」


 閉じられない目が、異形を捉え続ける。今まで目をそらし続けていた分、目の当たりにされる。髪の毛一筋違わぬ千冬の身体が、異形に乗っ取られている様を。


「千冬として俺を見ないなら、俺がこの姿を写し身にした意味はなくなる。贄の儀式は、お前が俺を千冬だと受け入れて成立するものだ」


 明里は絶望した。それは、なんて無謀なことか。雷は激しさを増し、地響きが建物を震わせた。それなのに外からは誰の悲鳴も聞こえては来ない。目の前の光景が幻なのか夢なのか明里には分からなかった。ただ、ひとつ分かることは。


「だから、お前はずっと俺を愚弄し続けていたんだよ」 


 ──本当に、致命的に、神様を怒らせたということだけだ。

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