第16話

 自宅・・での話し合いにはアウエー感があり、優位に話が進まない気がするので、今回は趣向を変えて、葛西臨海公園で会わないかと優子に提案してみた。

 久しぶりの政雄からのコンタクトを歓迎した優子は、「分かったわ。折角のお誘いだから、お洒落して行くわ」と、見当違いな返答をしてきた。

 日を追うごとに暖かくなってきたゴールデンウィーク前の公園は、土曜日ということもあって、家族連れを中心にかなりの人出だ。

 二人は缶ビールを片手に、ディズニーリゾートを向こう岸に臨むベンチに座り、やや人工的な匂いも交じる潮風に身を任せていた。


「もう少し、気を使えなかったの?見てくれは悪くないのに、着る物がなんかイマイチなのよねー」

 政雄の普段通りの格好を、軽く非難するように優子は言った。

 ただし、その目は穏やかだ。

 今日の優子は細身のデニムに白いブラウス、水色に近いブルーのカーディガンと、通勤着とは違ったカジュアルな装いだ。

 そんな普段とは違う優子を横目で見ながら、政雄は缶ビールを一口飲んだ。

「お昼は食べたの?」

「ああ、来る途中で食べたよ。そっちは?」

「私は朝に軽く食べただけ……」

「腹空いてんのか?」

「そうでもないけど、缶ビールだけ奢ってもらってもね……」

「年金生活者にたかろうってのか?」

「でも貯金がそこそこあるのを何故か知ってる、わ・た・し」

 そう言って、優子は笑った。

 半年の間に、優子なりに気持ちの整理が出来たようだ。

 このように会話が弾むのはいつ以来だろうか……。

 服装や化粧のせいではなく、以前のような棘々しさが消えて、何故か付き合い始めの頃のように、政雄をふっくらと包み込む親しさを感じさせる。

「じゃあ、葛西駅に戻るか?それとも、どこか近くで知ってる店とかあればそっちでもいいけど」

「何よ、せっかく来たんだからもう少し居ましょう。観覧車に乗ろうなんて言わないから。でも、水族館なら付き合うわよ」

葛西ここのは水族園って言うんだよ。メシの方は大丈夫なのか?」

「その辺でサンドイッチでも奢ってくれればそれでいいわよ。その後、どこかで夕飯をご馳走してくれたら最高だけど。でも、そこまで図々しくないから安心して」

 そう言ってから、優子は缶ビールに口をつけた。

「じゃあ、水族園に行って、刺身になる前の原型でも観るとするか」

 缶ビールを飲み干し、政雄は立ち上がった。

 優子も飲みかけの缶ビールを持って、政雄に倣った。

 お互いに公園や水族園でデートをするつもりではないのは百も承知だが、本題・・に入るきっかけがつかめないでいた。

 穏やかな陽光と潮風の下、二人は葛西臨海水族園に向けてゆっくりと歩き始めた。

 

 入場券を購入し、三階の入り口から水族園に入った二人は、順路に沿って色とりどりの魚が泳いでいる水槽を眺めた。

 特に会話をすることなく、それぞれが水槽の中を泳ぐカラフルな魚を一通り観て回る。

 小一時間程観賞して、一階に降りて〈シーウィンド〉という館内のレストランに入った。

 優子は野菜カレー、政雄は缶ビールを注文し、空いている席に座った。

「結構いろいろな魚がいるのね。ペンギンも可愛かったわね」

 コップの水で口を湿してから、優子が明るく言った。

「ああ、入園料が他と比べると安い割には充実してるかもな」

「そうね、今年の二月に会社の友達と沖縄に行った時に美ら海水族館にも行ったけど、あそこと比べるのはちょっと酷かな。でも、ここも結構楽しめたわ」

「えっ!沖縄に行ったのか?」

 政雄が驚いて訊いた。

「ええ、巨人ジャイアンツファンの友達が、那覇でやってるキャンプが見たいって言うので、女……おばさん四人で行って来たわよ。どうかした?」

「いや、実は……」

「何?」

「実は、沖縄に引っ越そうかと思ってるんだ」

 缶ビールを一口飲んで、政雄は言った。

「沖縄に!」

 政雄の話に優子も驚いた。

「いや、他にも候補地はあるから沖縄に決めたわけじゃないけど……。今日はその話をしようと思ってたんだけど、そっちが沖縄に行ったなんて言うもんだから、びっくりしちゃって」

「なんで沖縄に?一体、どうしちゃったの?」

「いや、このまま何もしないで東京にいても仕方がないし、身体の動く間に暖かいところで生活してみたいなと思ってさ。それにお前も知ってる長谷川が結婚して、那覇に移住する予定なんだ」

「で、あなたもくっついて行くわけ?長谷川さんって独身主義じゃなかったの?前聞いた時は、そんなこと言ってたわよね」

 浩之は二人の結婚式で、政雄の友人としてスピーチをしている。

 また、政広が生まれた時には過分な出産祝いを頂戴し、政雄の親の葬儀にも参列しているので、優子も浩之の人となりは承知していた。

「別に新婚の長谷川にくっついていくわけじゃないよ。ただ、長谷川から結婚して沖縄で生活するって聞いた時、俺も何か環境を変えなきゃ駄目なような気がしてさ……」

 政雄は浩之から結婚と沖縄への転居の話を聞いた時の様子を、優子に語り始めた。

「ちょっ、ちょっと待って、私もビールを飲んでいい?」

 スプーンを置いて、優子は缶ビールを買うために席を立った。

 政雄は缶ビールを持って席に着いた優子に浩之の話を続け、それから自分自身が東京を離れ、沖縄を含めた地方都市に行きたくなった経緯を話した。

「あなた、今日予定ないんでしょ?こうなったらもう少し詳しく話を聞きたいわ。場所を変えてじっくりと聞かせてちょうだい」

 優子は勢いよく立ち上がり、つられて政雄も空になった缶を持ったまま立ち上がった。

 

 優子が奢ってくれたタクシーの車中では、お互いに無言のままだった。

 東西線の葛西駅で降りた二人は、既に営業をしている駅近くの雑居ビルの二階の居酒屋に入った。

 まだ四時前の店は空いていて、酔客のざわめきがなく静かだ。

 政雄は相変わらずの生ビール、優子はハイボール、それと簡単なつまみを注文した。

「ちょっといいかな?」

 政雄がタバコを喫うジェスチャーをすると、優子は仕方ないといった表情で渋々頷いた。

 勢いで店に入ったが、考えてみれば最後に二人で居酒屋に入ったのは政広が生まれる前だ。

 こうして四半世紀以上を経て、家の外で優子と面と向かっていると、政雄は面映ゆい気分になった。

 お互いの飲み物が届いたところで無言で乾杯の仕草をして、二人はそれぞれのアルコールを口に放り込んだ。

「それで、いつこっちを出るの?」

 ハイボールのジョッキをやや乱暴にテーブルに置いた優子が、政雄を直視した。

「まだ具体的には決めてないよ。取りあえず来週那覇に行って、不動産屋巡りをする予定だけど、沖縄以外にも行ってみようかと思ってる」

「だけど、なんで沖縄なの?あなたマリンスポーツとかしないでしょ?」

「別にマリンスポーツをしなくたって構わないだろ。俺の知ってる沖縄生まれの人は、海で泳いだことがないって言ってたぞ。海はバーベキューとか釣りをするところで、泳ぐところじゃないって」

「だったらなんで?東京を離れるんなら北海道だっていいし、長野や那須とかの高原、京都や金沢、仙台だっていいじゃない」

「なんで、冬が寒そうなところばかり言うんだ。歳を取ってからは寒いところは大変だぞ。慣れていない雪下ろしや雪道の運転は危険だし、暖房費や着るものに金はかかる。それに比べると暖かいところは楽だよ。着る物だってTシャツに短パンで済むからな」

 政雄はタバコの煙が優子にかからないように、横を向いてゆっくりと吐きだした。

「例えばの話よ。別にアフリカだろうが、北極だろうが、あなたが良ければ、どこでも好きなところに行けばいいとは思うけど……」

「だろ?別にお前と一緒に行くわけじゃないんだし」

「離婚はどうするの?」

 優子は唐突に核心をついて、ハイボールをゴクリと飲んだ。

「承諾してくれるなら有難いけど……」

「何よ、どうしても離婚したかったんじゃなかったの?そのどうでもいいような言い方は狡いわよ」

 待ち合わせてから数時間で元の優子に戻ってしまったかのように、優子は少しきつい口調で言った。

「狡いって……散々待ったけど、そっちの態度が決まらないようだから、それはそれで仕方ないのかもな、と最近思えてきたんだ。もちろん、承諾してくれれば、それにこしたことはないけど」

 椅子の背もたれに寄りかかるようにして、政雄は上目遣いに優子を見た。

「今は……まだ分からない。悪いのは私だし、当然あなたが私を許せないって気持ちも理解はしているんだけど。でも、政広も福岡に行ったきりになっちゃってるし、その上あなたまで沖縄なんて遠くに行かれちゃうと、この先どうしたらいいのか……」

 優子は悄然と項垂れて、最後の方は囁くように話した。

「まだ沖縄に決めたわけじゃないって。それに俺がこっちにいたって、何も変わらないだろ?お前には仕事だってあるし、友達だっているじゃないか」

 政雄は慰めるように言って、優子の肩の辺りに視線を外した。

「仕事ねー……最近段々しんどくなってきてるの。役職定年までまだ三年もあるかと思うと、気持ちが折れそうになるわ」

「まあ、管理職の中で現場に近い課長が一番しんどいかもな。もちろん、今時は部長や役員だって楽じゃないけど」

 六年前に課長に昇進している優子を、政雄は慰めるように言った。

「昔と違ってどの役職も大変よ。私が入社した当時は部長なんてふんぞり返っていて、いつ仕事をしてるのかしらって思ってたけど……今はそんなことしてたら、あっという間に席が無くなっちゃう感じですものね」

「確かに……」

「そういう意味では、お互いに仕事だけは真面目にしてたわね、仕事だけは!」

 優子が仕事の部分を強調して政雄に強い視線を向けた。

「お、俺は仕事も、だ。まあ、確かに家のことは何もしてこなかった……よな。すまん」

 政雄は両膝に手をついて頭を下げた。

「ふーん、今更責めたりはしないけど」

 お前の不倫はどうなんだよ、と言いそうになったが、政雄はタバコを灰皿に押し付けて消した。

「とにかく、離婚の件は好きに判断したらいいさ。ここまで来たら急ぐ話でもないから。そっちは現役だから、手続きがいろいろとあって大変だろうし、タイミングがいい時で構わない。だけど、俺がポックリ逝っちゃったらごめんな。その時は一応法的には夫婦だろうから、連絡はお前に行くからな」

「その時は保険金や貯金をそっくり頂くから、別に苦じゃないわよ」

 保険金と聞いて、亡くなった高畑が、離婚した時に生命保険の受取人を変更したことを思い出した。

 今は優子が受取人になっているが、そろそろ政広に変更した方がいいのかもしれない。

 だが、今それを優子に提案するなんてことは間違ってもしてはいけない、と政雄は思った。

「貯金は分からないぞ。これから住むところで散財するかもしれないからな」

 内心を悟られないようにおどけて言って、政雄はジョッキを飲み干した。

「散財するって、何に使うの?女?車?そういうのにはお金をかけないでしょ?せいぜい、飲み代が増えるくらいで」

「確かに、無駄遣いをしないってことはいいことなんだろうけど、物欲がないことが果たしていいことなのかは考えちゃうよな。結局、夢中になれることがないってことだから、つまんない老後だよな」

 追加の生ビールを注文して、政雄はため息をついた。

「ホントに女はいないの?単身赴任中は適当に遊んでたんだろうけど……。どうも怪しいのよねー。突然地方に引っ越すなんて」

「そんなのいるわけねーだろ。何言ってんだ……」

 お前と違って、と言いそうになったが、辛うじて口を滑らさずに済んだ。

「そんなにムキにならなくたっていいじゃない。なんで東京にいるのが嫌になったのかってことが訊きたいの」

「堂々巡りだなー。だから、これだって理由なんてないって言ってるだろ。あと何年生きるのか分からんけど、一度環境を変えてみないことには、どんどん怠惰になるというか、駄目な爺さんにしかならないような気になっただけだって」

「でも、沖縄だったらいいわよね。私も沖縄に行こうかな。この間は寒い時期だったけど、それでも東京に比べれば暖かいし、スギ花粉は飛んでないし。何よりあのゆったりとした雰囲気と綺麗な海には憧れちゃうわ」

「それは観光客だからだよ。生活するとなるとそんな悠長なこと言っていられないぞ。友達や知人がいない中でコミュニティを広げていかないとならないんだから。もし俺が沖縄に行ったとしても長谷川はいるし、福岡支店時代の知り合いもいてゼロからじゃないから、今のところは候補の一つにしてるけど」

「あら、私にだって知り合いはいるわよ」

 優子が意味深な笑みと共に言った。

「え、沖縄に知り合いとかいたっけ?」

 政雄が初耳だというように、怪訝な表情で訊いた。

「いるわよ。それも深い仲だった人が……」

「なんだ!沖縄にいるのか!」

 と言って、政雄は慌てて下を向いた。

とは何よ、とは……。あなたってホントそういうところは無神経なんだから。それにかなりの鈍感よね」

「なんだよ鈍感って……。ひょっとして俺のこと?沖縄の知り合いって」

 政雄は自分の顔を指差して確認した。

「まだ、その人は沖縄にはいないけどね」

 優子は悪戯っぽく笑った。

 毒気が抜けた無邪気な表情が何故か眩しく、政雄はタバコを手に取って勢いよく火をつけて咽た。

「今日のお前、なんか変だな」

 政雄は、咽て咳き込む喉にビールを流し込んだ。

「変って何よ?」

「いや、なんか変……としか言いようがないんだけど。なんかさっぱりしたって言うか……変わったよな」

 咳き込んで嗄れた声で政雄は言った。

「そう?吹っ切れた感じがするってこと?」

 優子は、咽て上手く話せない政雄を見て笑った。

 政雄は言葉で応えず、深く頷いた。

「症状が軽くなってきたってこともあるし……。実は更年期障害で少し情緒不安定な状態が続いてたのよ」

「更年期障害?病気だったのか?で、今は大丈夫なのか?」

 政雄は優子の突然の告白のような話に驚いたが、いつか浩之がそんなようなことを話していたのを思い出した。

「ううん、そんなにひどくはないわよ……でもあなたは気が付かなかったでしょ?」

「……ああ、確かに気が付かなかったよ。申し訳ない」

 政雄は素直に頭を下げた。

「そんな風に言わないでよ。別に重症じゃなかったし……処方してもらっている薬の効果もあって、日常生活に支障が出る程ではなかったから、あなたや政広にはあえて話をしなかったのよ」

「いや、それでも……こういうところがいけないんだろうな。夫婦なのに、お互いに相手の領域に踏み込まないようにしていたら、いつの間にか相手のことが分からなくなってしまって……」

「それは私も同じよ」

 優子は目を伏せながら言い、ハイボールを口に含んだ。

「症状が軽くなったって、もう大丈夫なのか?」

「うん。私の場合は初めはホットフラッシュだったんだけど、しばらくしたらイライラすることが多くなって……。そのイライラが収まると少しハイになるんだけど、そのハイな状態が続くと何だかエネルギーを使い果たすみたいになっちゃって。そのハイな状態が終わると気分が落ち込んで、またイライラが始まるのよ」

「そのサイクルが続くのか?」

 政雄は心配顔で訊いた。

「そう」

「いつから?」

「そうねー、五・六年くらい前くらいかな。管理職になってストレスも増えたし、それに年齢に伴う変化も相まって、なのかもね」

 優子は淡々とした口調で言った。

「そうか、女性は大変だよな。で、かなり快復しているのか?」

「ええ、薬も減らしても症状は出なくなったし、お医者さんも大分良くなったって言ってくれてる」

「そうか、それは良かった」

 政雄は心底安堵したように言った。

「病気の話しはここまで。で、私はずっと考えてて最近気が付いたことがあるの」

「何?」

「今まではあなたに期待し過ぎてたのよね」

「期待って?」

 話が急に変わって戸惑いながらも、政雄は話の続きを促した。

「例えば付き合い始めの頃は、今度いつ会ってくれるんだろうかとか、観たい映画に誘ってくれないかなとか期待するでしょ?結婚したらずっと優しくして欲しかったし、政広が生まれたら、もう少し大きい家を買えるくらい仕事を頑張って欲しいとか、家事も少しは手伝ってくれるかなとか期待するじゃない」

 優子の独白に、政雄は黙って耳を傾けた。

 優子は一息つくようにハイボールに口をつけてから続ける。

「でも、ある時期からことごとく期待を裏切られたような気持ちになったのよ。まあ、仕事の方は順調で経済的にはそれ程不満はなかったわよ。欲を言ったらキリがないし」

「いつ頃から?」

 相田と付き合い始めた頃だろうなと想像しながら、政雄は訊いた。

「さあ、はっきりとはしないけど……付き合ってる時期にもそういう気持ちになったことはあるわよ。でも、そういうもんでしょ?あなただって私に対する期待はあったろうし、それに応えていない私に対する不満もあったでしょ?」

「……」

 政雄は首をかしげて、否定も肯定もしなかった。

「別に責めてないわよ。何よ急に黙っちゃって」

「いや、突然、期待とかなんとかって言い出すからさ」

「吹っ切れたようだって言うから、私なりに考えていたことを話しているだけよ。嫌なら止める?」

「いや、久しぶりに腹を割って話してるなと思ってさ……」

 話の続きを促すように、政雄は手のひらを上に向けて、どうぞというようなポーズをした。

「どこまで話したっけ?……つまり言いたいことは、今まであなたや周りの人に期待はしても、自分が期待をされてることを強く意識してこなかったのよね。もちろん仕事は別よ。会社や上司からの期待は説明を受けて理解してるし、期待に応えるように頑張ってきたつもり。部下や後輩にも、何を期待しているかはちゃんと説明をしてきたと自分では思ってる。でもプライベートだとちょっと違うのよね、友人関係でも夫婦でも。特に付き合いが長くなると、お互いに期待していることを言わなくなって、暗黙の了解みたいになるでしょ?でも結局は自分は自分だし、相手は相手だし……。ホントに期待していることは、お互いに言わなくちゃ分からないわよね。また言っても理解されない場合もあるだろうけど。でも、期待される方は迷惑だったり、期待されることがプレッシャーになっちゃうことって沢山あるのよね」

「お代わり、頼むか?」

 饒舌な優子に驚きながら、政雄は間を取るように訊いた。

「あなたは?」

 頷きながら優子は政雄のジョッキに視線を向けた。

「うん。時間もあるしな」

 政雄はそう言ってから店員を呼んで、ハイボールと自分用にウーロンハイを注文した。

「今日は言いたいことを全部言えそう」

 政雄を見て、優子は微笑んだ。

「なんだよ、言いたいことって?文句ならあまり聞きたくないな」

 政雄は渋面を作った。

「それを言い出したら何年かかるか分からないわよ。でも、今日、私が話したいのは、そういうことじゃないの。私はあなたに何を期待して、逆にあなたは私に何を期待していたのかなって……」

 店員が置いたハイボールを飲むために、優子は話を一旦止めた。

 政雄は酔い始めた頭をフル回転させて考えたが、これだというものが思い浮かばない。

「俺は別に……。お前は仕事や政広の世話で大変だったろうし。特にこうして欲しいっていう具体的なものはなかったと思うよ」

「ホントに?いくら単身赴任で離れていたからって、何かはあるでしょ?それとも妻として、あるいは女として期待する対象じゃなくなったってこと?」

 優子はいつの間にか、うっすらと眼に涙を溜めていた。

「そ、そんなつもりで言ったんじゃないよ。だから言っただろ。政広の教育や会社の仕事、それに俺の親の世話なんかもちゃんとしてくれていたから、それ以上何をお前に要求できるんだって話だよ」

 政雄は狼狽えながら言って、優子を見た。

「別に怒ってるんじゃないから大丈夫よ」

 優子はバッグからハンドタオルを出して、目元に当てた。

「でね、あなたが家を出て、独りになってからいろいろ考えたの。結局私もあなたに期待していることがはっきりしないのよ。もちろん家のローンや政広の教育なんかはあったけど……。夫婦というか、夫であるあなたに期待していたことがはっきりとは思い出せないのよ。逆を言えば、私はあなたに何をしてあげたかって考えると、それも曖昧なの。さっきあなたが言った、政広やあなたの両親のお世話以外に、妻として何かをしてあげたかって言われると……」

「そんなもんだろ、夫婦って。新婚時代ならいざ知らず」

 ふと、幸せ一杯といった表情でにやけてる浩之の顔が自然と頭に浮かんだ。

 お前も数年経てばこうなるんだぞ……。

「そうかもしれないけどね……。でも、気が付いたことがあるって言ったでしょ」

「うん」

「今は期待はしてないけど、楽しみだって思い始めたの」

「楽しみって……何それ?」

 政雄は優子の言葉の真意を量りかねた。

「これからは、私からあなたには期待はしないし、私も期待されなくていいんだなって。でも、今はなんとなく楽しみなのよ」

「だから、その楽しみって、なんなんだよ?」

「上手く言えないけど、半年以上会わないでいたけど、不思議に悲観的じゃなかったの。こんなこと言うと、反省してないって怒られちゃうけど……。それは何故かって考えたら、あなたと縁があるうちは楽しみがあるのかなって思えてきたの」

「どう言うこと?」

 もどかしそうに話す優子を見て、政雄は首をひねった。

「なんて言えばいいのか……。期待って、相手との契約みたいな感じがするのよね」

「契約?」

「そう、付き合っている時と結婚ではお互いの期待値も上がるでしょ?それって、変な言い方だけど、契約内容が複雑になるってこともあるけど、お互いに相手に対する投資の度合いが高くなるからだと思うの」

「確かに結婚はお互いに犠牲にするものが多いよな……」

 政雄の呟くような言葉に優子は頷いてから続けた。

「楽しみの方は期待とは違って、自分で勝手に思うことだから、相手を束縛しない感じがするのよね。もちろん、期待の方も期待値が高まれば、相手の事情を考えずに自分勝手に思い込んじゃうけどね。私はそうだったんだと最近気が付いた」

「うーん、なんとなく分かるような気がするけど、でも、いまいちぴんと来ないな。例えが変だけど、楽しみは宝くじで、期待の方は競馬とかパチンコみたいなギャンブルかな」

「……?」

 政雄の言っている意味が分からず、優子は説明を求めるように政雄を見た。

「いや、なんか違うかもしれないけど、宝くじは当選番号の発表まで、当たったらどうしようかと、いろいろと想像を逞しくしてる間は楽しいだろ?でも、結局は外れるんだけど怒ったりはしないよな。でも競馬とかパチンコなんかのギャンブルは、外れると怒る人っているだろ?こう、外れ馬券を破ってばら撒いたり、パチンコだったら台を叩いたりしてさ。それって、もしかしたらって思う宝くじと、ある程度当たりを期待して投資するギャンブルの違いみたいなもんじゃないかな。まあ、当たった時の金額の違いが大きいっていうのもあるんだろうけど」

 政雄は、馬券をちぎって空に向けて放り投げる格好をしながら言った。

「今のあなたは宝くじってこと?どうなんだろ、私には分からないわ」

「まあ、俺の当選金は千円程度だけどな。ちょっと例えがまずかったかな」

 優子が、「それって分かる!」というように同意してくれることを期待していた政雄は少し落胆し、そうか、これが優子の言う期待なのかと、変な風に納得した。

「そんなにしょげないでよ。私がおかしなこと言ったのがいけなかったのね」

 優子が温かみのある口調で、政雄を慰めた。

「別にしょげてなんかいないよ」

 ウーロンハイの残りを飲み干し、政雄はお代わりを注文するために店員を手招きした。

「何が言いたかったのか分からなくなっちゃったけど、要するに、離婚することになって、あなたと戸籍上の繋がりがなくなっても、何故か縁は続くような気がしたのね。理由はないんだけど」

「よく分かんねーな。離婚したって政広の親であることには変わりはないし、三十年近い結婚生活を消せるわけじゃないから、縁は続くんだろ。良縁か悪縁かは別にして……多分後者だけどな」

 政広は優子の顔を見ないように、枝豆に視線を向けた。

「いいのよ、理解してもらわなくても。ホントのところは私もよく分かってないんだから。ただ、以前のようにあなたを責めたりしても仕方ないし、自分を正当化するのもおかしいなって思えてきただけだから。でも、そう思い込むようにしていると楽な気分になれることもあるの」

「お前がそう思うんならいいんじゃないの。だけど考え方なんてころころ変わるからな。だから、離婚に関してはお前の中で踏ん切りがついたらで構わないよ。別に離婚しなきゃ困るようなことは、今のところないしな」

「うん、そう言ってくれると助かる。あなたはあなたで、沖縄かどこかに行ったりして楽しめばいいんじゃない」

「別に楽しむために行くんじゃなけどな」

「そうかもしれないけど、環境が変われば……ね?」

 優子は疑わしそうに、意味深な視線で政雄を見た。

「なんだよ、その目は……変なこと想像すんなよ。こんな爺さんが今更色気を出したって気持ち悪いだけだろ」

 少しむきになって言ってから、政雄は運ばれたばかりのウーロンハイを飲んだ。

「別にそっちの話だなんて、私は言ってないわよ。ははーん、長谷川さんに刺激を受けて、あわ良くばって思ってるんじゃない?」

「バ、バカなこと言うなって。大体、こんな爺さんと付き合ってくれる女なんて、この世にいねーだろ!」

「そう?世の中には変わった趣味の女性ひとだっているわよ。……私はその一人かも」

 艶然と笑う優子に、政雄は一瞬ドキッとした。

「ふざけんな!」

 政雄は慌てて怒った表情を作ったが、自分が顔を赧らめてるのを自覚し、「トイレ」と言って、席を立った。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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