第7話

 優子とは極力顔を合わせたくはなかったが、毎日浩之の家に居候をするわけにもいかず、政雄は週の半分は自宅に戻っていた。

 だが、優子は負い目を感じているのか、更に政雄と顔を合わせないように細心の注意を払っているらしく、限られた空間の中でお互いが相手の気配を感じながらも、遭遇するような場面はほとんどなかった。

 平日の優子の帰宅は日付が変わってからが常態化し、金曜と土曜の夜は外泊が当たり前になっていたので、二人の間で会話は皆無になっていた。

 優子が出勤した後に、政雄は自宅での日課としてトイレやキッチン、風呂場などの水回りと自室の掃除をする。

 それが終わると買い物がてらに図書館などで時間を潰す。

 帰宅後、手間のかからない冷凍食品中心の夕食を済ませ、早めに入浴してからベッドに入っていぎたなく眠りほうけた。

 仕事はしていないが、就職して初めて独り暮らしをしたころのような新鮮な気分に

なることもある。 

 しかし、何もしないで怠惰に過ごす生活は、何故だか分からないが焦燥感にかられ、息苦しくなる。

 そうなると、あまり頻繁ではいけないとは思うものの、浩之の都合を確認してから、北砂の浩之邸に泊りがけで出かけてしまう。

 

 桜前線があっさりと関東を通過し、急ぎ足で北上している四月中旬に、浩之からキャンセルの出た賃貸物件が、江東区大島にあるとの連絡が来た。

 政雄はその日に浩之と連れ立って不動産屋に行き、部屋を内見して気に入ったので、その場で契約を申し込もうとした。

 しかし、不動産屋からは、大家さんの方針で、基本的に無職の場合は血縁関係の保証人が必要だと言われた。

 政雄は一瞬、政広の顔を思い浮かべたが、息子に面倒をかけるのは避けたいと思い、保証会社とかを通じて契約をできないかと訊いた。

 だが、不動産屋の担当者はそれは出来ないと言ったが、「長谷川さんが保証人なら大家さんも納得しますよ」と助言をしてくれた。

 友人に保証人を頼むのは心苦しかったが、横にいた浩之に保証人になって貰うことにして、どうにか契約をすることが出来た。

 還暦過ぎで無職、同居人もいない者は社会的な信用度は低く、サラリーマン時代との違いに、政雄は項垂れるしかなかった。

 

 さすがに優子に何も言わずに出ていくのも大人げないと思い、政雄は日曜日の深夜に帰宅した優子に、家を出ていくことを告げた。

「なんで?私が出て行こうと考えていたのに……」

 少しアルコールの匂いがする優子が、政雄の顔を見ないようにして言った。

「ふーん、お前も出て行きたいのか。それもいいんじゃない。この家は政広に譲ってもいいし、政広がいらないって言うんなら売っても構わないよ。でも、二束三文だろうけどな」

「で、どうするの?」

「どうするって?」

 優子の言いたいことは分かっているが、政雄は平板な口調で問い返した。

「もう帰って来ないってことでしょ?」

「今、言ったろ。政広に譲るか、売るかって」

「で、どうするの?」

 優子は床に視線を落したまま、同じ言葉を繰り返した。

「お前はどうするんだ……。いや、どうしたいんだ?」

「あんたってホントにずるい!自分の気持ちを言わずに、嫌なことは全部私に言わせる!」

 優子は視線を上げて、政雄を睨みつけた。

「はあ?何言ってんだ。嫌なことってなんだ?嫌なことをしたのは誰なんだよ!誰のせいで俺が家を出ることになったのか、分かってんのか!」

 今日は冷静に家を出ることだけを話そうと政雄は考えていたが、優子のあまりにも他責な態度に頭の芯が熱くなり、声が大きくなった。

「何よ!全部私のせい?冗談じゃないわよ!あんたこそ今迄好き勝手にやってきて、今度も面倒なことから逃げ出すの!」

「面倒なことってなんだ?逃げ出すってなんだ?お前、自分のしでかしたことを分かってて言ってんのか!」

「私が何をしたのかって?どうしてそうなったのか分かってんの!肝心なことから逃げるあんたには分からないでしょうけどね!あんたはいつもそう。嫌なこと、面倒なことには全部背を向けるのよ。自分ではそんなつもりじゃないと思い込んでいるようだけど、あんたは卑怯なのよ!」

 優子の顔色は蒼白になり、口元は怒りで痙攣しているように小刻みに震えている。

「俺が卑怯だって?他の男と十年近く付き合ってても素知らぬ顔でいたお前はどうなんだよ!」

「……何それ?十年って何よ!」

「憶えていないって言うのか?政広が高校の頃、電車で男といるところを見られただろ!それからお前らは気が付いていないだろけど、有楽町でも仲良く腕を組んで歩いているのを目撃されてんだぞ!息子にそんな姿を見られて恥ずかしくないのか!」

 政雄は言うつもりはなかったが、優子の剣幕に抗しきれずに、つい政広から聞いたことを口に出してしまった。

 優子は一瞬息を止めたが、数秒後に嗚咽を漏らし始め、よろけるように自分の部屋に入っていった。

 政雄は優子を追うことはせずに自分の部屋に戻ったが、正直なところ、この成り行きに対処する術を持っていなかったので、卑怯と言われたばかりだったが、少し安堵した。

 

 翌朝、優子が無言で出勤した後、政雄は行徳駅近くにある市役所の支所で、周りの目を気にしながら離婚届を貰ってきた。

 家に戻り、自室で必要事項を記入し始めたが、同居の期間とかうろ覚えで分からない箇所がある。

 結婚した日も覚えていない自分に愕然として必死に記憶をたどるが、新婚旅行の時は夏だったか……ハワイだから夏は当たり前だな、と自嘲する始末だ。

 そういった意味でも自分は駄目な亭主で、優子が愛想をつかすのも無理はないと理解出来る部分もあった。

 悪戦苦闘しながら、自分が書けるところは全て記入した。

 証人はこれから浩之に会って、記入と捺印をお願いすることになっている。

 預貯金やマンションを含めた財産分与なども決めなければならない。

 面倒な作業だと嘆息したが、優子から面倒を避ける卑怯者と罵倒されたことを思い出し、こういうことなんだなと、妙に納得してしまった。


 間近に迫ったゴールデンウィークのニュースに世の中が浮かれ出した頃、政雄は浩之の尽力で契約したマンションに引っ越しをした。

 自宅からの荷物は、衣類の他にパソコンとCDや本、それとこまごまとした物だけだ。

 段ボールや紙袋に詰めた荷物は、浩之が手配してくれたワンボックスカーに余裕で収まり、拍子抜けするくらい簡単に済んだ。

 浩之に借りた車を指定された駐車場に戻し、新しい部屋には奮発してタクシーで戻った。

 事前に注文した家電製品が届く前に購入済みのカーテンを掛け、リビングにラグマットを敷いてから、組み立て式のチェストや収納ラック、簡素なベッドを悪戦苦闘しながらセットした。

 単身赴任以来の一人暮らしとなる部屋は、都営地下鉄大島駅から徒歩十分弱の、築十五年の七階建ての賃貸マンションだ。

 五階の一LDKのベランダからは、密集した住宅街と高い橋脚の上にある高速道路が見える。

 近くには下町情緒漂う銭湯もある商店街があり、スーパーやコンビニも徒歩圏内にあって、不便さは感じない。

 近くの蕎麦屋で腹ごしらえをしてから部屋に戻ると、タイミング良く家電製品が届いた。

 テレビ、冷蔵庫、洗濯機や電子レンジなどの家電製品を指定した場所に設置して貰い、ベランダで一服してから、日用品を中心に必要な物の調達に出かけた。

 夕方には浩之が訪ねてくる予定なので、ビールをはじめとした酒類と乾き物、シャンプーや石鹸、テイッシュペーパー、トイレットペーパーなどを、近くのスーパーや商店街を三往復して購入した。

 徒歩による嵩張る買い物だったので、さすがに政雄は疲れを感じ、明日は自転車を買いに行こうと強く思った。

 

 こまごまとした作業をしているうちに陽が沈み、辺りが暗くなり始めた頃インターホンが鳴った。

 モニター画面に浩之の眼鏡をかけた顔がはっきりと映し出されたので、解錠してからテーブルの上を片付けた。

 暫くして玄関のインターホンが鳴ったので、政雄は玄関の扉を開けた。

「少しは片付いたのか?」

「一応、寝られる状態にはなったよ。これ車の鍵だ、助かったよ」

「荷物は一回で運べたのか?」

「夜逃げみたいなものだからな」

「荷物を置いても結構広く感じるな。お前一人で使うのはもったいないから、みんなのたまり場にするか」

 持ってきた食料品や酒の瓶を、テーブル代わりの布団がかかっていない炬燵の上に置きながら、浩之は還暦過ぎの男が独りで住む部屋を珍しそうに眺めた。

「冗談じゃない!こう見えても俺は綺麗好きなんだ。だから部屋が臭くなる野郎はお断りだ。特に加齢臭だけじゃなく、毒気を放つ爺さんは入室禁止だ」

「俺の家にはずかずかと上がって傍若無人に振る舞うやつが何言ってんだか。爺さんと言えば、梅沢を誘ったんだけど前から予定が入ってるんで、今日は来れないってさ」

「あいつが一番毒気混じりの悪臭を放つから、入室は絶対に厳禁だ!」

 通電したばかりの冷蔵庫から少し温い缶ビールを取り出し、政雄は炬燵の天板に置きながら言った。

「まあ、そう言うなって。でも、物が少ないっていうのはいいよな。俺んところは物が多過ぎて、なんか落ち着かないっていうか、生活感丸出しなんだよな」

「確かにお前ん家は物が多いよな。まあ、生まれ育った実家だから、亡くなった親の物もあったりするから仕方ないんだろうけど」

「そうなんだよ、捨てようとは思うんだけど、いざ捨てるとなると躊躇しちゃうんだよな」

 浩之は缶ビールを飲んで、持参した焼き鳥を頬張った。

「でも、そろそろ整理した方がいいぞ。いつ、ポックリと逝くか分からない歳になったんだからな。断捨離みたいな流行はやりの押し付け感たっぷりの陳腐な言葉は好きじゃないけど、もうそんなに先は長くないんだから、要らない物は処分したら?」

「先ずは、お前みたいな野郎との腐れ縁を切るかな……。冗談はともかく、お前こそこの先どうすんだよ。離婚届けは送ったのか?」

「そんな面倒くさいことを引っ越し早々に言うな!明日にでも送ってやる!」

「面倒って言い方はねーだろ。一応証人なんだからな。なんか、最近お前の保証人みたいのになる回数が増えて、この先不安だよ……。奥さんがハンコついてソッコーで送り返して来たら、その先はどうすんだ?」

 浩之は焼き鳥の串の先を政雄に向けた。

「これからは、そんな予測不可能な先のことを、あれこれ考えて悩むのは無駄だから知らん。大事なのはどんな状況や環境下でも順応というか対応出来る適応力なんだよ」

「なんだそれ?」

「不確かな予知能力より、着実な適応力が必要だってことだ」

「不確かって、お前たち夫婦の離婚もってことかよ?」

「まあ、それはほとんど決定事項だけどな。でもな、その後が大事なんだよ。こうして独り暮らしを始めたのも適応力を試す一環だからな」

 飲み干した缶ビールをを握り潰し、政雄は胸を張った。

「バーカ。なにを偉そうに言ってんだ!離婚となればいろいろとやらなきゃいけないことがあるだろ?自宅はどうすんだ?息子には言ったのか?この先、ずーっと独居老人のままか?病気になったらどうすんだ?何が適応力だ、アホ!」

 浩之も空になったビールの缶を、力一杯握り潰した。

 政雄は形勢不利と見て、新しい缶ビールを取りにキッチンに避難しようと立ち上がった。

 その背に、浩之から「逃げたついでに、買ってきた惣菜を皿に移し替えて持ってこい!真新しいレンジで温めるのを忘れるなよ!」と、怒ったような声が飛んできた。


 家まであと少しのところで、梅雨空の厚い雲から憂鬱な雨が落ちてきた。

 雨粒が自転車の籠の中にあるエコバッグを叩く音が、政雄の気持ちを急かせる。

 引っ越して二か月近く経つが、優子からは送った離婚届の件を含めて何も言って来ない。

 政広からは、この件はどちらの味方もしないのでご自由に、と冷たいメッセージが来たきりだ。

 屋根の付いた駐輪場に自転車を置き、エコバッグを持って、マンションの玄関に入る。

 郵便受けに入っているチラシ類を備え付けのごみ箱に放り込み、オートロックを解いてエレベータを使って部屋に戻った。

 雨の被害は軽微だったのでそのままキッチンに行き、買ってきた食料品などを冷蔵庫や棚に仕舞った。

 雨空で部屋が薄暗く気分が滅入りそうになるので、照明と、観たくはないがテレビを点けた。

 少し蒸し暑さを感じたので、サッシを開けて外の空気を入れたが、陰々滅々とした雨音が気になり、直ぐに閉め直した。

 今夜も当然のように用事がないので、浩之の家に行こうかと考えたが、最近は梅沢が頻繁に出入りしていることを思い出し、連絡しようとしたスマホをテーブルに戻した。

 仕方なく家で飲むことにし、買ってきたカット野菜と豚肉で野菜炒めを作り、これもカットされた野菜サラダを肴に缶ビールを飲み始めた。

 

 テレビ画面には世の中で起こっている様々な事象が流れているが、自分とは無縁の世界の出来事にしか政雄は感じられない。

 浩之が言ってたように、こんな自分がこの先独りで生活を続けていくことが出来るのか不安になる。

 二本目の缶ビールを取りに立ち上がった時に、ラインの着信音が鳴った。

 プレビュー画面を見ると、優子からだ。

 一瞬スマホに手を伸ばしかけたが、政雄は意地を張るようにキッチンに向かった。

 キッチンから戻り、缶ビールを一口飲んでからゆっくりとした動作で優子からのラインを見た。

 離婚届に署名、捺印したという連絡かと思っていたが、文面は予想外のものだった。

 政雄の健康を気遣う文章から始まり、独り暮らしの不便さを尋ねていた。

 そして最後には、今週末に会えないかといったコメントで終わっている。

 今は不仲になったとはいえ、長年夫婦関係にあったので、文面からでも優子の機嫌や気分がなんとなく分かる。

 今回の文面からは怒りや苛立ちは感じられない。

 二か月以上音信不通だったのに、上機嫌にも感じられる突然のコンタクトの意味が分からず、政雄は頭が混乱してきた。

 野菜炒めを咀嚼しながら、返信の文面を考えるが、どのように返すのが賢明なのか判断がつかない。

 仕方がないので、ありきたりに体調面での不安がないことと、独り暮らしにも慣れてきて、それなりに楽しんでいると返信をした。

 送ったコメントが直ぐに既読になっていく。

 政雄は、最後に今週末は特に予定はないが、用件を教えてくれと返した。

 優子から直ぐに返信が来た。

 特に用事はないが、会って話をしたいので、久しぶりに家に帰って来ないかという内容だ。

 おまけに、ビールのジョッキが乾杯しているスタンプも送られてきて、思わず飲んだビールに咽そうになり、鼻の奥がツーンとした。

 政雄は警戒心を緩めることなく、事務的に返信を続けたが、優子のコメントは終始穏やかで、悪酔いしそうになった。

 ラインでのやり取りを終えた時には、ビールがすっかり温くなっていた。

 優子の提案を聞き入れ、土曜日の夕方に家に行くことにしたが、外で降り続く雨のように、政雄の気分は重く湿っていた。



※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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