第6話

 「で、どうすんの?」

 浩之は缶ビールをグビリと飲んで、政雄に訊いた。

「まあ、家にいるのもなんか嫌だし、どこかに部屋でも借りようかと真剣に考えている」

 政雄は冷えた焼き鳥を頬張り、モグモグしながら応えた。

「まだ、そんなこと言ってんのか。でも、それって別居じゃすまないよな……。結局は離婚か?」

「そうなるんだろうな……」

「何、他人事みたいに言ってんだよ!奥さんは承知してるのか?息子さんは?」

「息子は好きにしなよって言ってるから問題ない。敵も離婚したがってるのは事実だから、こっちもノープロブレム」

 サキイカを咥えてから、政雄はテレビのリモコンのスイッチを入れた。

「テレビなんかどうでもいいだろ!どうせ暗い気分になるニュースしかやってないし」

 壁の時計は夕方の六時を過ぎたところだ。

 政雄と浩之は炬燵に入りながら、缶ビールを飲んでいた。

「部屋と言えば、来週の火曜日に梅沢がこっちに移ってくるよ。都合のいい日にあいつの歓迎会でもやろうかと思ってんだけど、お前大丈夫だよな?」

「ああ、ヒマ過ぎて誰かに時間を量り売りしたいくらいだからな」

「全然面白くねえよ……。他に誰か呼ぶか?」

「誰かって?小中学校時代の仲間で付き合いのあるやつっているのか?」

「何人かいるけど、お前や梅沢とはあまり接点がなかったのばかりだ。みんな老けちゃってるから面白いやつもいないし……」

「中学を卒業しちゃうと、ホント交流がなくなるよな。俺も大学までこっちにいたけど、たまにバスや電車で幼馴染を見かけても、みんな面影なくなっちゃってて、なんか声を掛け難いよな」

「向こうもそう思ってるよ。俺たちみたいに、年に数回でも会ってれば別だけどな」

「じゃあ、無理して呼ばなくてもいいんじゃねーの。俺たちが余計なお節介焼かなくても梅沢だって会いたいやつがいれば、こっちに来てから連絡を取るだろうし」

「そうだな。取りあえず三人でやるか」

 浩之の言葉に頷いて、政雄は串に残っている焼き鳥を前歯に挟んで串から外し、口に入れた。

「お前さ、不動産屋に顔が利くだろ?どこか手頃な部屋を紹介してもらえないかな」

「ホントに家を出るのか?もう少し考えた方がいいと思うけどな……。まあ、一度訊いてみるよ。場所はどの辺がいいんだ?」

「ずっと東西線沿線だったから、今度はJRか都営新宿線辺りかな。梅沢と同じで別に仕事をするわけじゃないから、多少駅から離れてても構わないよ。広さはILDKもあれば充分で、家賃は一桁に抑えたい」

「何贅沢言ってんだ……。じゃあ、大島とか亀戸辺りだな」

「その辺ならお前ん家までチャリで行けるな。悪いけど頼むよ」

「梅沢に続いてお前まで戻って来るのか……」

 浩之はビールを呷ってから、小さくため息をついた。

「なんだ、嫌なのか?あっ、分かった!歯ブラシの彼女と会うのに俺たちが邪魔なんだな……。大丈夫だよ。お前の安定した性生活を乱すようなことはしないから」

「ホントにお前は俺を怒らせる天才だな!泊めてやろうかと思ってたが、やっぱり止めた!焼き鳥食ったら帰れ!」

 浩之は皿に載っている焼き鳥を、政雄の前に突き出した。

「いや、すまん。この通り!私が悪うございました」

 政雄は勢いよく炬燵から出て、土下座した。

「お前、もう還暦過ぎてる爺さんなのに、奥さんと別れて独りでやっていけるのか?」

 いい歳をして、いつまでも小学生並みの剽軽さが残る政雄を見て、浩之は不安で暗澹たる気分になった。

「俺は単身赴任のチャンピオンだぜ。家事はなんでも来いってなもんだ」

 政雄は体を起こし、得意気に胸を反らした。

「バカ!そういう意味じゃねーよ。このままじゃ孤独死は確実だぞ。俺はお前の腐乱した遺体の確認には絶対に行かないからな!出来のいい息子とお前の最期についてちゃんと話し合っておけよ」

「そんな必要はない!足腰が立たなくなったら介護施設に入るから大丈夫だ。お前も一緒にどうだ?」

「絶対に嫌だね!ヨイヨイになってまで、お前と付き合ってられるかってーの!」

 浩之は不味そうにビールを飲んで、手を伸ばして焼き鳥に齧りついた。

「お前は歯ブラシの彼女が看取ってくれるからいいよなー」

「歯ブラシの彼女って言うのは止めろ!」

「だったら、名前は?歳は?どこに住んでる?綺麗か?結婚すんのか?……」

「うるせー!お前は芸能リポーターか!」

「まあ、そうカッカするなって。単なる僻みなんだからさ……で、どんなひとなんだよ?」

「ホントに追い出すからな」

「わ、分かった。もう言いません」

 政雄は首を竦めたが、直ぐに缶ビールとタバコを持って、庭に面したサッシを開けて逃げ出した。


 政雄と浩之、浩之の元同僚の竹内まさる、そして主役の梅沢は、梅沢の引っ越しの翌日に、都営新宿線西大島駅近くの居酒屋で落ち合うことになった。

 政雄は、竹内とは浩之を交えて数回飲んだことがある。

 浩之と竹内は同期入社で年齢は一緒だが、竹内は定年まで勤め、政雄と同じく昨年の秋に退職をしている。

 住まいは錦糸町に近い住吉のマンションで、奥さんと、成人して仕事はしているが、まだ結婚をしていない息子、娘の四人暮らしだ。

 政雄は竹内にはあまり好意を抱けない、というよりは苦手、はっきり言えば嫌いなタイプだ。

 竹内は皮肉屋の側面が強く、人の意見に駄目出しをするのがスマートだと勘違いしているとしか思えない言動が多い。

 また、何故か常に上から目線で話す。

 以前、浩之と三人で飲んでいる時に会社員時代の話になったことがあった。

 政雄と浩之は自らの失敗談や、上司や先輩、部下や後輩がやらかした顛末を面白おかしく話していたが、「俺は能無しがする間抜けな失敗はしたことがない」と、竹内は真顔で言った。

「竹内さんは切れ者って感じがしますもんね」

 政雄は皮肉たっぷりに言ったが、竹内には通じなかった。

「当然でしょう。昇進も同期ではトップクラスでしたしね。な?」

 竹内は胸を張って言い切り、浩之に同意を求めた。

「まあな……でもあの時課長に昇進した同期はかなりいたけどな。俺でさえ課長になったもん」

 浩之は揶揄するように言った。

「あれ、お前もそうだっけ……。でも昇進出来なかったやつの方が多かったからな」

「でも、その前年度に狩野が課長になってたと思うけど」

「ああ、あいつな。あれは狩野がアメリカの支社に五年ほど赴任している中で、向こうでGMになったから、一種の調整みたいなもんだったろ?」

「そうだったかな?でも今は常務だろ?」

「ああ、四年前に常務になったな……」

「って事は、出世頭は狩野だな。俺とお前は部長止まりだったから」

 浩之は優しい表情を崩さずに、ズバッと言った。

「綿貫さんは退職時の役職は?」

 竹内は話題を変えるように政雄に話を振った。

「俺?俺はずーっとヒラですよ。間違って入社試験に受かったので、入社してから苦労しましたよ」

 政雄はウーロンハイを飲みながら、イカげそを口に放り込んだ。

「そうなんですか?結構苦労したんですね」

 竹内は真顔で返し、蔑むような視線と共に赤ワインを口に含んだ。

「何、真に受けてんだよ。こいつはこう見えて結構やり手だから、最後は子会社だけど、そこの取締役だったよ。会社は慰留したけど本人がのんびりしたいなんて贅沢言って辞めちゃったけど」

 浩之は政雄の肩を軽く叩いて、竹内に笑いかけた。

「そうなんだ、ふーん……。でも会社の規模が違うからな」

 竹内は口惜しそうに言って、チーズを齧った。

「それこそ何言ってんだって話だ。今じゃ業績では俺たちのいた会社とは雲泥の差だぜ。株価だって比較にならない」

 このように浩之と政雄は竹内の鼻っ柱を折るようなことを言うので、竹内としてはあまり楽しくはないはずだと政雄は思うのだが、何故か浩之の誘いは断らずに参加してくる。

「ああいう性格だから友達が少ないんだよ。会社を辞めてからヒマで、時々向こうから連絡が来るんだけど、無下に断れないだろ?それに家もそれ程離れていないから、一応俺の方も声を掛けたりするんだよ。だからお前も付き合ってやってくれよ」

 浩之の言葉に納得する部分はあるが、浩之の奢りでなければ絶対に一緒に飲みたくないタイプであることには変わりはない。

 そこに、今度は傲岸不遜な態度が見え隠れする梅沢が加わる。

 人間関係に頭を悩ましていたサラリーマン時代と変わらない環境が出来つつあるようで、政雄は気が重かった。

 

 政雄と浩之が店に入ると、既に竹内は席に座ってスマホを見ていた。痩せて貧相な顔なので、政雄は密かにねずみ男と呼んでいる。

「早かったな」

 浩之が声をかけた。

「散歩がてら歩いて来たんだが、結構早く着いちゃったようだ。……綿貫さん、久しぶりですね」

 スマホの画面に老眼鏡から視線を落したまま、竹内は横柄な態度で応えた。

「……」

 政雄は無言で竹内の斜め前の席に座り、断りもせずにタバコに火をつけた。

 嫌煙家の竹内は一瞬政雄に視線を向けたが、直ぐに無関心を装うようにスマホを操作した。

「主役はまだ来てないけど、先にビールでも頼むか。竹内もビールでいいよな?」

 場の雰囲気が険悪になりそうな気配を感じて、浩之がとりなすように政雄と竹内に訊いた。

「ああ、そうしよう。梅沢は遅れるのか?」

 政雄がタバコの煙を鼻から出しながら応えると、竹内も頷いた。

「まだ約束の時間まで十分近くあるから、そのうち来るだろう」

 浩之は政雄に応えながら、厨房に向かって大きな声で生ビールを頼んだ。

 小太りの女将さんが、おしぼりと小鉢の付け出しを四人分持ってきた。平日の夕方五時半前なので、客は政雄たちだけだ。

 女将さんが重そうに生ビールのジョッキを運んだ来た時に、引き戸を開けて梅沢が入って来た。

「おう、もう来てたのか?」

 マフラーを外しながら席に近づいて来た梅沢は、初対面の竹内に軽く頭を下げた。

「今さっき来たところだ。あっ、こっちは電話で話してた竹内といって、俺がいた会社の元同僚だ。住吉に住んでるんで、今日はお前に紹介しようと思って呼んだんだ。……おかあさん、生を一つ追加!」

 浩之が、竹内を梅沢に紹介した。

「梅沢です。よろしく」

 梅沢は竹内に挨拶をして、政雄の隣に座った。

「竹内です。こちらこそよろしく」

「全員同い年で仕事もせずヒマだろうから、知り合いは多い方がいいだろう?」

 浩之は参加メンバーの顔を見回しながら笑顔を向けた。

「そうだな。今更会社の連中と会っても、過去の自慢話か愚痴しかないからな。それだったら、今まで交流のなかった人と話をした方が楽しいよ」

 梅沢が浩之に頷いた。

 女将さんが梅沢の生ビールを運んで来たので、それぞれがジョッキを手にした。

 政雄と竹内はお前が乾杯の音頭をとれというように、浩之に視線を送った。

「では、新たに砂町の住民になった梅沢に歓迎の意を表すると共に、爺さんたちの健康を祝して乾杯!」

「乾杯!」 

 浩之の掛け声に合わせて、全員でジョッキをぶつけ合った。

「部屋の方は片付いたのか?」

 ジョッキの三分の一ほどを一気に空け、政雄は梅沢に訊いた。

「まだ散らかってるけど、スーツやコート、それに通勤で使ってた革靴とかカバン、仕事関連の本などを思い切って処分してすっきりしたので、取りあえずってとこかな」

「仕事で使ってた物を捨てるとスッキリしますよね」

 小鉢のおひたしをつまみながら、竹内も会話に加わった。

「そうですね。あんなに量があるとは思わなかったですよ。それに掛かった費用を考えると、サラリーマンの必要経費をもっと簡単に控除して欲しいですよね」

 梅沢は初対面の竹内には丁寧に応えた。

「じゃあ、ホントにもう仕事はしないんだ」

 浩之が手にしていたメニューを閉じて梅沢に視線を向け、それから女将さんを呼んだ。

「ああ、もうこりごりだよ。四十年間、嫌というほど働いたからもう勘弁してくれって感じだ。去年年金事務所から書類が届いていた厚生年金の老齢なんちゃらってのも支給されるみたいだから、落ち着いたら手続きに行く予定だよ」

「ああ、特別支給……何だっけ、そうだ特別支給老齢厚生年金とかいう長ったらしいやつな。俺は今月から支給されるから一息つけるよ」

 政雄は嫌そうに顔を顰める竹内を無視してタバコの煙を吐く。

 それを見た梅沢もタバコに火をつけた。

「四人共無職のぷー太郎か……。綿貫は毎日どうやって時間を潰してるんだ?家には奥さんもいるだろうし、煙たがられてるんじゃない?」

「うん、まあな……長谷川はマンションのオーナーだし、親父さんの会社の非常勤もやってるから世間的にはぷー太郎じゃないだろ。俺たちは新聞やテレビに出るようなことをしでかしたら、梅沢良彦、無職六十二歳ってなるけどな」

 政雄は妻の話題になりそうなのを巧みに逸らした。

「何で犯罪を犯したやつみたいに俺を例えるんだよ。何か良からぬことをしそうなのは、お前が一番じゃないのか」

「確かにそれは言えてる」

 浩之が梅沢に追従すると、横で竹内が手を叩いて笑った。

 

 女将さんが準備した水炊きをつつきながら、それぞれ境遇の違う還暦過ぎの男たちの宴は話があっちこっちに飛ぶが、終始和やかに進んだ。

 酔いが深まるにつれて、どういうわけか梅沢と竹内の会話が弾む。

 政雄は酔い始めた梅沢の傲岸不遜な態度にイライラしていたが、何故か竹内はそんな梅沢の上から目線の言葉に共感している。

 特に政雄が最近印象に残った話として、カレー女の目撃談をしたところ、電車内のマナーの話に関する話がどんどん膨らみ、もてない男たちの僻みなのか、途中から女性に対する日頃の不満が噴出した。

「そんな女もいるんだな。俺は混んでる電車の中で化粧している女とかは良く見たが」

 梅沢が驚きながら言うと、竹内も続いた。

「オッサンの加齢臭をどうのこうの言うけど、中年女の香水の臭いもまいるよね。特に梅雨時で車内が蒸し風呂状態の時は吐きそうになる」

「俺が見たのは、昼間空いてる車内で子供が吊革に摑まって遊んでてさ、若い母親がそれを放っておいてスマホに夢中になってんだ。またその子供ガキが躾がなってないというか傍若無人で、しまいには椅子に土足のまま吊革から飛び降りてんだよ。堪りかねたのか七十過ぎののおじいさんが母親に注意したら、その母親はどうしたと思う?」

 浩之もこの場の雰囲気を壊さないようにと思ったのか、珍しく憤慨したように早口でまくしたてた。

「その爺さんの注意をシカトしたんじゃないのか」

 竹内が鶏肉を頬張りながら浩之に応えた。

「それならまだましだよ。何とそのおじいさんに逆ギレして、食って掛かったんだよ」

「なんて?」

 政雄もタバコの煙を吐き出しながら、身を乗り出すように訊いた。

「子供が元気よく遊んでいるのに、なんで文句を言うんだって、おじいさんを睨むんだ」

「なんだそれ!」

 聞き役の三人が同時に反応した。

「大人がそんな風に小さなことに目くじら立てるから、少子化が進むんだっていうような屁理屈を言って、自分を正当化するんだな。子供は社会の宝だから、大人は温かい目で子供を見守るのが当然で、その母親に対しても子育ての大変さを労わるように接しなさいよって、スマホに視線を戻しながら言いやがったんだ。私は少子化を防ぐ一翼を担っているって感じでさ」

「それを自分で言っちゃうんだ。何て自分勝手なんだ、その女」

 梅沢が憤慨した。

「その続きがあるんだ」

 酒の勢いか、浩之もヒートアップしていた。

「なんだ?まだムカつくようなことがあったのか?」

 竹内が話の続きを促した。

「言われたおじいさん、結構上品でインテリっぽい雰囲気なんだけど……そのおじいさんが、スマホばかり見ている母親に、携帯ばかりを見てないで、公共の場では小さな子供さんにもっと注意を払ったらどうですかってなことを、穏やかに言ったんだ。でも、その母親がまた逆ギレして、自分は子育てだけじゃなく仕事もしていて忙しんだ、だいたい電車でスマホを見ていて何が悪い、仕事や幼稚園の連絡がひっきりなしに来るから仕方ないだろ、って言って……。それから子供ガキの頭をひっぱたいて、変なおじいさんが文句を言うから座ってなって座席に無理やり座らせたんだ。そしたらその子供ガキが泣き出したけど、無視してスマホをいじりだしてさ……。結局おじいさんも匙を投げたのか、次の駅で電車を降りたよ」

 珍しく興奮気味に話して喉が渇いたのか、浩之は温くなったビールを呷るように飲んだ。

「だいたいがだな、最近の女共は図に乗ってるんだよ!やたらと権利意識ばかり強くてさ。女性専用車がいい例だ。あれは基本的にはシルバーシートと一緒で、強制力はないんだ。それを女どもは錦の御旗のようにギャーギャー言いやがって……。男は全員痴漢をする可能性があるから隔離するのは当然だと言いやがる。そんなことテレビとかで言ってるのは大抵〇〇だぜ。誰がてめーみたいな女に手を出すかってーの」

「そうなんですよ!梅沢さんとは気が合うというか、意見が似ていますねー」

 竹内は、梅沢の毒のある意見に相槌を打った。

「だったら男性専用車両も設けろってーの!○○が車内で変な顔して化粧してるだろ?しかも立ったまんましている強者がいるからな。電車が揺れてこっちのスーツに化粧が付いたらどうしてくれるんだよ」

 梅沢は口汚く罵った。

「そう、いますよねーそういう女」

 竹内も憤懣やるかたないといった口調で梅沢に同調した。

「まあ、女だけが悪いんじゃないけどな。野郎にも酷いのが山ほどいるだろ?酔っぱらって席に寝そべっているのや、所かまわず吐くやつ。気弱そうな人が近くにいたら、因縁つけて脅すやつ。死ぬ程口臭が臭いのや、安っぽい整髪料や生乾きの雑巾みたいな体臭のやつ…」

「それは違うんだよ!男にも迷惑なのは沢山いるけど、それを世間に向かって声高々に正当化はしないだろ?女は自分たちの迷惑行為を反省することなく、全て男女差別だの、男が悪いから仕方ないんだって、正当化するのが腹立たしいってことを俺は言ってんだよ!」

 浩之の話を遮って、梅沢は怒鳴るように言った。

「いや、俺は別に女性を擁護したくて言ったんじゃないよ。迷惑行為をするのに男も女もないって言いたかっただけだ」

 浩之は梅沢の興奮を冷ますように言った。

「まあ、梅沢の言いたいことの一部は俺も理解できるよ。俺が目撃したカレー女とおばあさんは女同士のバトルだから、理がどちらにあるかなんて関係なく、お互いに絶対に引かないぞっていう凄みがあったからな。あれが浩之が目撃したように最初に男が注意をしたら、カレー女はもっと屁理屈を並べてただろうし……。そういう意味では、梅沢が言う女たちの自分たちは常に正しい、もっと世の男どもは私たちの権利を認められなければならないって態度には辟易することはあるよ」

 政雄もこの場を鎮めるために、梅沢の意見に一定の理解を示した。

「綿貫もたまにはいいこと言うじゃん」

 梅沢は飲みかけていたジョッキを、政雄に向けて掲げた。

「男であれ、女であれ、また年齢に関係なく、自分の権利や正当性をなんのてらいもなく主張するのが多すぎると思わないか?特に最近は年寄りがクレーマ化しちゃってるよな」

 政雄は矛先を女性から高齢者に変えた。

「いるよなー。電車でも席を譲るのが当たり前って態度だもんな。昔は席を譲ると、譲られた方はちゃんとお礼を言ってたけどな」

 浩之も相槌を打つように言った。

「スーパーとかコンビニのレジとかでも、変な爺さんとかがいるぜ。商品の扱いが雑だとか、客に対する感謝の気持ちが感じられないなんていちゃもんつけて……。後ろにレジ待ちの人が大勢いるのに、そんなのお構いなしで、お前はプロじゃない、仕事とはどういうもんなのか考えたことがあるのかとか言ってさ。バイトのレジ係がすみませんって謝っているのに、謝って済む話じゃないって、超上から目線でさ。ワンカップの酒と半額のシールを貼ってる安い弁当しか買ってないのに」

 竹内も続いた。

「俺はお前に教えてあげてるんだ。有難く思えって態度だよな。お前みたいにうらぶれてる爺さんから教わっても碌なもんじゃないって言いたいのをバイトの子は我慢して聞いてるよな」

 この話題の急先鋒の梅沢が慨嘆するように首を振った。

「そういう爺さんは自分の不甲斐なさは承知してるんだよ。だから、客と店員というポジションの違いが明確な場合に、普段虐げられている反動が出るんだな」

 竹内もしたり顔になった。

「何に虐げられてるって?」

 浩之が口を挟んだ。

「何って……つまり、何ていうか、不遇だった昔、辛かった過去と、先に明るい見通しのない自分の境遇を誰かに当たり散らしたいだけなんだよ」

 竹内があまり説得力のないことを小声で呟いた。

「別にみすぼらしい爺さんだけじゃないぜ、弱い立場の人に偉そうに言うのは。むしろ、仕事でそれなりのポジションにいた爺さん程、華やかりし頃と同じ態度で偉そうに振る舞うんじゃないのか」

 政雄は竹内の意見に異を唱えた。

 浩之も同感というように頷いている。

 浩之の頭の中でも、今、目の前で詰まっていない右の鼻の穴からタバコの煙を吐きだしている梅沢が、偉そうに店員や駅員に怒鳴っている姿が鮮やかに浮かんでいるはずだ。

「とにかく、自己中心的ジコチューなのが増殖してるのは間違いないよな。

 自分の権利や正当性ばかり主張して、相手のことを全く顧みない風潮は息が詰まる。世の中には理不尽なことは多いけど、自分が相手に理不尽なことをするのは当然の権利だが、逆に自分がされると怒りを爆発させることの矛盾に、何故気付かないんだろう……」

 浩之が大きく嘆息した。

「結局、個人の自由や権利を主張するというアクセルは踏むけど、社会や他人に対する配慮とか遠慮、自分の欲望を抑制するというブレーキの踏み方が分からないんだよな。自分の自由と権利を主張するんなら、周りや相手の自由と権利も認めなきゃいけないけど、そういった配慮や協調性がないから非常識になっちゃうんだ」

 政雄が分別臭く言った。

「そうかもな。特に俺たちの少し上の世代は学生運動なんか経験したから、自分が攻撃されたり、抑圧されてると思うと過剰に反応するからな……。会社に入ったばかりの頃は、そんな上司や先輩が多かったよ。な、長谷川?」

 竹内が同意を求めるように、浩之に視線を送った。

「確かにいたな。今だったらパワハラで即処分されるのが……。こっちの意見は聞きもせず、俺の言う通りにしろだったもんな。そのくせ、自分は上司や先輩に屁理屈こねたり、食って掛かったりしてさ」

「そんなのどこの会社にもいたさ……。今だっているぜ」

 浩之の言葉に梅沢が同意したが、政雄はお前が言うな、と腹の中で梅沢を毒づいた。

 自分でも分からないが、どうしても梅沢の言うことには反駁したくなる。

 仲の良かった旧友と半世紀近い時間を経て再会したのに、梅沢の言動に一々気持ちに引っかかりが生じて、素直に受け入れることが出来ない自分に戸惑ってしまう。

 酒が進み、梅沢の現況が披瀝されぬまま話題は会社時代の愚痴になり、梅沢の歓迎会はお開きになった。

 何故だか分からないが、初対面で意気投合した梅沢と竹内は、錦糸町で飲み直すと言ってタクシーに乗り込んだ。

 政雄と浩之は酔い覚ましに歩いて帰ろうと、二人が乗ったタクシーを見送ってから、浩之邸に向けてよたよたと歩を進めた。

 

 酔いで火照った政雄の顔面を鷲掴みするような寒風の中、酒席での会話がよみがえる。

 飲んでいる時には不条理な連中のことを、非難したり貶したりして盛り上がってはいた。

 だが、カレー女の狼藉を目撃した時には、関わり合いになりたくないと、目を伏せていた自分はどうなんだと思わずにはいられない。

 その場では傍観者を決め込んでるくせに、その顛末を威勢良く友人に話す自らの小物っぷりに、自己嫌悪が募る。

 そんな、ただ臆病なだけの自分の正義感や正当性も、他人から見れば負け犬の遠吠えにしか見えないだろう。

 前を歩く浩之の背中をぼんやりと眺めながら、政雄は先程まで熱い口調で非常識な事例を罵っていた己が恥ずかしく、耳朶が熱くなった。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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