第8話

 梅雨が一服したように爽快に晴れ渡っていた空に、夜の帳が下り始めた頃、政雄は鍵を使ってオートロックを解錠して自宅・・に向かうため、エレベータに乗り込んだ。

 約二か月ぶりだが、脇の下に嫌な汗をかいているのが自分でも分かる。

 大島の独り暮らしの部屋を出る時、手ぶらで行った方がいいのか、それとも優子が好きなスイーツでも買って持っていった方がいいのか散々悩んだ。

 だが、優子が今日の政雄の帰宅に、どのような意図を持っているのかの判断がつかないままだったので、最終的には手ぶらでの帰宅というか訪問・・にした。

 エレベータを降りて玄関の前に立ったが、持っている自分の鍵を使うべきか、インターホンを押した方がいいのかで悩んだ。

 いつものことながら、己の決断力のなさには自分でも呆れてしまう。

 インターホンと手に持った鍵を見比べたが、オートロックを解錠しているのに、今更玄関脇のインターホンを鳴らす意味がないと思い、勢い良くキーを鍵穴に挿し込んだ。

 玄関に入ると、食欲をそそる料理の匂いが鼻腔をくすぐった。

 スニーカーを脱いでいると、リビングとの境の扉が開き、優子が顔をのぞかせた。

「おかえりなさい」

 久しぶりに会った妻の優しい言葉に政雄は戸惑い、「ああ、うん……」と応えて、並べてあった自分用のスリッパを履いてリビングに入った。

 テーブルの上には、既にサラダと政雄が好んで食べるナッツ類、ビール用のグラスが載っていた。

「今ビール出すから、立ってないで座ってよ」

 優子の声と、ガスレンジに点火する音がキッチンから聞こえてくる。

 冷蔵庫を開閉する音の後、軽く化粧をした優子が缶ビールを持ってきた。

 テーブルの上で缶ビールのプルタブを引き、政雄のグラスに琥珀色の液体を注ぎ、慣れた手つきで自分のグラスにも注いだ。

 優子は無言で政雄に向けてグラスを掲げ、美味そうに琥珀色の液体を喉に送り込んだ。

 政雄もつられて良く冷えたビールを一気に空ける。

 優子が空になった政雄のグラスに注ごうと缶ビールに手を伸ばすのを制して、ゆっくりとした動作で、自分でグラスに注いだ。

「サラダでもつまんでて。今、ステーキを焼いてるから」

 グラスに残ったビールを飲み干して、優子はキッチンに向かった。

 予想していない展開に、政雄は居心地の悪さを覚えたが、小皿に盛られたナッツを口に放り込んで、グラスに口をつけた。

 テレビをつけていないので、キッチンで肉を焼く音と換気扇のがなる音だけが、政雄にとっては居心地の悪い空間を支配している。

 何をして良いのか分からない手持無沙汰から逃れるために、ベランダでタバコを喫いたくなったが、敵前逃亡みたいな感じになるかと思い我慢した。


「お待たせ。ウエルダンに焼いたつもりだけど、どうかな……」

 政雄の好みの焼き方で焼いたというステーキが目の前に置かれた。

 付け合わせの野菜の色が新鮮だ。

 自分一人で料理する時は付け合わせなんて一切なく、食卓の上は茶系の色に染まっている場合がほとんどである。

 やはり、女性の作る料理は見た目のバランスがいいと感心してしまった。

「少し太った?」

 キッチンから持って来た赤ワインをワイングラスに注ぎながら、優子は政雄を観察するように見た。

「いや、体重なんか測ってないから分からないけど……」

 優子の真意を量りかねて、政雄の口調は重くなる。

「そう、食事はちゃんとしてるの?外食が多いんじゃない?」

「そんなことはないよ……ところで、今日は?」

 優子の自然な話し方に警戒心を募らせ、政雄は椅子の背もたれに寄りかかり、距離を置くように訊いた。

「何よ、そんな風に警戒しないでよ。しばらく顔を見てないから安否確認のついでにあなたと飲みたかっただけよ」

 優子から発せられる、安否確認だの、飲みたいだのと言った予想外の言葉に、政雄はますます警戒した。

「別に安否確認なんて必要ないだろ。それに俺と飲んだって面白くもないだろうし……」

 この場の雰囲気に呑まれかけている自分に気付きながら、政雄はどのタイミングで離婚届の件を切り出すかを思案した。

「たまにはいいじゃない。あなた、掃除洗濯は得意だけど、料理はワンパターンでしょ?」

「そんなことないけど……」

 政雄は口ごもるように言って、ビールを飲んだ。

 その時、インターホンの呼出音が静かな部屋に鳴り響いた。

 優子はギクッとしたように一瞬肩をすぼめ、席を立ってモニターを確認したが、直ぐにテーブルに戻って来た。

「誰?何かの勧誘か?」

 政雄はまだ料理には手をつけず、アーモンドを口に放り込んだ。

 すると、またインターホンが鳴った。

 優子は再び立ち上がってモニターに近付き、何やら操作をして戻ってきたが、表情が強張っている。

「邪魔だから……。呼び出し音を消したわ」

「いたずらか?」

「そんなようなもん……かな」

 歯切れ悪く応え、優子は赤ワインを一口飲んだ。

「最近、そんなのが多いのか?」

「ううん……それより、冷めないうちに食べてよ」

「ああ、じゃあ、いただくよ」

 政雄は既に一口大にカットされているステーキを、箸でつまんで口に入れた。

 肉を咀嚼しながら、箸が自分用のだということに気付いた。 

 優子はサラダを皿に取り分け、一皿を政雄の方に置いてから、自分の皿に取り分けたサラダを頬張った。

 暫くは、食器類が立てる音だけの中、二人は淡々と食事を続けた。

 ビールをグラスに注ごうとした政雄が、何気なく視線をモニターの方に向けると、モニターが無音のまま明るくなった。

「また、エントランスで誰かが呼出しボタンを押してるみたいだぞ」

 ビールを注いだグラスを口に運ぶ前に、政雄は目の前で俯いた格好で食事をしている優子に声をかけた。

 一呼吸おいて顔を上げた優子の表情は、何かに怯えて歪んでいるように見えた。

「あなた、お願いがあるの!」

 優子が思いつめたような口調で政雄に訴えかけた。

「な、なんだよ急に……」

 警戒心を露わにして、政雄は椅子の背もたれに上半身を密着させた。

「今、エントランスの前にいる人に、もう来ないように言ってくれない。……お願いよ!」

「えっ!何?どういうこと?知ってる人?誰?なんで俺に頼むんだ?」

 唐突な優子の言葉に、政雄の頭の中はクエスチョンマークの洪水になった。

「理由は後で話すわ。とにかくエントランスに行って、これ以上押しかけてきたら警察に連絡するって警告して!」

「えっ!警察?警告って……何それ?」

 クエスチョンマークは途切れることなく、更に津波のように政雄の頭の中に容赦なく襲いかかった。

「お願い!もう我慢できない!早く下に行って、あいつにもう来るなって言って来て!」

 優子の顔が引き攣れてきている。

「ちょ、ちょっと待てよ!あいつって誰?知ってる人なんだな。ヤバいやつなのか?」

 政雄は優子の切迫した表情に押されるように、身を引きながら訊いた。

「別にヤバくないわよ。ただ、しつこいだけ……」 

 優子の視線が泳ぐのを見て、政雄はエントランスで呼出しボタンを押している人物の見当がついた。

「名前は?」

「名前なんかどうでもいいじゃない!」

「どうでも良くないよ。エントランスにいるのが、お前が言ってるしつこいやつなのかどうかを確認しないとまずいだろ。それにお前はヤバくないって言うけど、何か武器とか持ってる可能性もあるから、どんなやつなのかを知っておかないと俺は行けないよ」

「なにビビってんのよ!そんな大それたこと出来るやつじゃないってば。あんた怖いの?」

 優子の言葉が乱暴になっている。

 精神状態が不安定な証拠だ。

「そりゃビビるだろ。会ったこともなく、どんな人間かも分からないのに、やれ警察だとか、警告みたいな刺激的なセリフを聞かされてるんだぞ。怖くないんならお前が直接言えばいいだろ」

「なんで私が行かなきゃいけないのよ!こういうことは亭主がやるもんでしょ!」

 優子の理不尽極まりない言葉に、政雄は驚きを通り越して恐怖を感じた。

 どうしてこのように自分勝手に振る舞えるのか、政雄の理解の範疇を超えている。

 この目の前の怪物モンスターより、エントランスの前で呼出しボタンを押しているあいつ・・・の方がましなように思えてきた。

「……アイダよ」

 躊躇している政雄に、投げつけるように優子は言った。

「え?」

「だから、名前はアイダっていうの。だから早く行って、もう来ないように言って来て!それから連絡もするなって!」

 吐きだすように言って、頽れるように優子は椅子に座り込んだ。

 これ以上ここで優子と言い争っても仕方ない。

 このまま一緒に食事をする気力も失せた政雄は、優子に声を掛けずに玄関に向かった。

 一階から昇ってきたエレベータに乗り込み、階数表示をぼんやりと眺めながら、ステーキを残してしまったことと、離婚届のことが頭に浮かんだ。

 

 軽い振動で停止したエレベータを降りてエントランスに向かうと、ガラス製の自動ドアの向こうに中肉中背の男が一人いて、こちらを凝視していた。

 エレベータから降りてくるかを期待している眼差しだ。

 優子と一緒にいるところを見かけた時は高級そうなコートを着ていたが、今日はオフホワイトのポロシャツにコットンパンツといった軽装で、衝撃的な目撃だった前回とは、印象が違って見えた。

 サラリーマンはスーツを着ている時はシャキッとした印象になるが、私服になると草臥くたびれた印象になる人が多い。

 特に家庭を持っている四十代以上のサラリーマンはその傾向が顕著で、政雄はその代表格の一人だ。

 もちろんファッションに気を遣う人もいるが、政雄のような男はそこまで気が回らない、というより何を着たらいいのかが分からない。

 お洒落に私服を着こなす男たちに嫉妬や羨望の念を抱きながら、自分はお洒落より大事なことがあるんだとうそぶくが、もちろんそんなものはなかった。

 最後は清潔で周りを不快にさせない服装を心掛けているから、これでいいのだと自分を慰めている。

 今、自動ドアの向こうにいる男も同類のように感じて、政雄は少し緊張がほぐれた。

「アイダ……さん?」

 開いたドアからエントランスに出た政雄は、緊張を悟られないように小さく深呼吸をしてから男に声をかけた。

「……?」

 男はギクッとしたように身を固くして、伏し目がちに政雄に視線を向けてきた。

「アイダさんですよね?優子の……亭主です」

 怯えた様子の男を見て、政雄は少し余裕が出てきた。

「あ、は、はい……相田です。……ご、ご主人……様……ですか」

 相田武志はドラマに出てくる、実直な執事のように直立不動の姿勢で政雄に頭を下げた。


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