第6話 覚醒
何が、起こったのか。
理解できない。理解したくない。だがそんな感情とは裏腹に、蓮華の脳は両目から取り込んだ情報を、自動的に処理してしまう。
死霊竜の尾に胴を深々と貫かれた黒野切臣が、力なく垂れ下がっている。ピクリとも動かないその姿を、はっきりと認識してしまった。
「…………………………………あ」
遅れて、うつ伏せに倒れる彼から、赤い液体がじわじわと地面に広がっていく。
「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
蓮華は狂ったように絶叫すると、ほとんど這いずるみたいにして切臣へと駆け寄った。
血で服が汚れることも構わず、その身体を抱き起こす。
どうしてこんなところにいるのかという疑問が、心の片隅に過るが、そんなことは今はどうだっていい。
とにかく今は彼の傷を塞ぎ、命を繋ぎ止めるのが先決だ。
「と、とき……時に、聖母の慈悲は敬虔なる仔羊を試す!」
蓮華は少年の傷口に手を翳して、どもって突っかえながらも呪文を詠み上げる。これは治癒魔術の詠唱だ。
混乱の最中にありながらも、彼女の魔力制御は驚くほど正確であった。即座に治癒魔術が発動する。
暖かな光の玉が蓮華の手のひらに浮かび上がり、切臣の胴に空いた大穴に光の粒が降り注いだ。しかし━━
「ど、どうして!? 何で治癒が効かないの!?」
治癒魔術は果たして、少年の傷を癒すこともなく、たちまち発動時間を終えて虚しく消滅した。
蓮華は半狂乱になりながら、何度も何度も同じように術式を起動する。
だが結果は変わらない。相変わらず血は止めどなく流れ、体温も下がり続けている。呼吸も弱々しくなり、顔色も段々と青ざめていっていた。
それでも蓮華は治癒をかけることをやめない。文字通り死力を尽くして、自らの魔力が枯渇することも厭わず、魔術を行使し続ける。
こんな結末は断じて認めないという、恐るべき執念だけが今の彼女を突き動かしていた。
だが。しかし。現実とはかくも無情である。
少年の呼吸が途絶え、心音が限りなく弱まる。もはや停止するのも時間の問題だろう。
それを受けて、蓮華は唐突に思い出した。治癒魔術とはあくまで傷を癒す術式なのであって、死者を蘇らせる力など持たないということを。
つまりそれは。蓮華が治癒をかける前から既に、切臣の運命は決まっていたのだということ。『死』という運命が。
蓮華の身体から全ての力が抜ける。
その際、懐から何かが零れ出たが、それさえも気にかける余裕はなかった。
そんな彼女の様子を見計らったかのように、ゆらりと忍び寄る影が一つ。
蓮華もそれに気づいたのか、緩慢な動作で顔を上げた。混濁した瞳が、自分を映しているのがはっきりと見て取れる。
そして、鋼鉄のように硬く鋭い爪が、高く高く振り上げられた。
***
世界から音が消えた。世界から色が消えた。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い熱い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い死ぬ
正気を失うような痛みが、笑ってしまいそうな熱さが、全身を引き裂くように駆け巡る。
黒野切臣はその凄まじい感覚の濁流に飲み込まれ、もはや呼吸すら儘ならない状況にあった。
途切れそうになる思考をどうにか繋ぎ止めるために、切臣は瞳を動かす。
すると竜宮寺蓮華が自分の身体を抱え上げて、茫然としているのが見えた。そのすぐ後ろには、例の怪物が忍び寄っている。
逃げろ、と切臣は蓮華に叫ぼうとする。だが声が出てこない。そもそも呼吸さえも満足にできないほどの大傷を負っているのだ、当然とも言えよう。
やがて掠れる視界に、怪物が蓮華に向けて腕を振り上げているのが映った。
(駄目だ……蓮華……俺のことなんて放っといて、早く逃げろ……!)
切臣はせめて、蓮華に対して強く念じる。無駄なことだというのは分かっている。
だけどそれでも、あのような薄汚い怪物に彼女が手をかけられるのだけは、何としても阻止したかった。
(どうする……どうしたら……)
切臣は酸素が足りず、霞がかっていく頭脳を必死に回転させて、案を講じる。
と、その時だった。自らのすぐ目の前に転がっている、奇妙なものの存在に気づいたのは。
それは親指ほどのサイズをした、何かの欠片のようなものだった。視界から色が消えて尚、赤黒い輝きを発しているのが分かる。
それが何なのかは、果たして切臣には分からない。魔術師でも何でもない一般人である彼には、それがどれほどの価値があるものなのかなど理解できようはずもない。
だが、それでも目を離せなかった。
それが持つ圧倒的な存在感や、禍々しくも力強い気配に、少年は釘付けになっていた。
同時に思う。
これだ。恐らくはこれこそが唯一、この絶望的な状況を打破できる鍵なのだと。
必死に身を捩り、手を伸ばそうとする。力が入らない。あまりに多くの血を流しすぎて、肉体がもはや機能していないのだ。
目と鼻の先。たったそれだけの距離が、無限のように遠い。
されども彼は足掻き続ける。たった一人の大切な少女を守るために。
(上等だ。身体が動かねえってんなら……)
少年は獰猛に笑うと、獣の如く大口を開ける。それから首だけを懸命に動かす。腕が駄目なら口だ。
そうして思いっきりそれへとかぶりついた。
切臣の歯が捕らえる。するとそれは飴細工みたいに、実に呆気なく噛み砕かれた。
予想外の事態に少年は目を見開く。粉々に砕けたそれが口の中いっぱいに広がり、喉の奥まで流れ込んできたのは直後のことだった。
ドクン、と。
一瞬だけ、胸の奥底で何かが大きく脈動する。それから、
━━明確な異常が起きた。
***
刹那、脈動があった。
今にも息絶えそうな切臣の身体が、一際大きく痙攣を起こした。続いて、爆発的な魔力の風が彼を中心に吹きすさぶ。
息苦しいほどに濃密で、逆巻く炎の如く荒れ狂う、凶悪な闇の波動。
渦を巻く黒いそれを警戒してか、
「なっ……!」
その煽りを間近に受けた蓮華が、驚愕に目を剥いた。
一体何事が起きたのか。思わず後退りながら、ただ茫然とその異様を眺める。
黒い奔流の中は何も見えず、何が起きているのかまるで判然としない。その中心にいるであろう切臣がどうなっているのかも、全く見えなかった。
かちかちという音が聴こえる。それが自分の歯が鳴っている音だと気付くのに、蓮華は少しの時間を要した。
自らの両肩を掻き抱く。寒気が止まらない。逃げ出したくて仕方ない。切臣がいるであろう場所に今在るモノが、恐くて怖くてたまらない。
やがて闇が晴れる。そこにいたのは━━
「……嘘」
そこにいたのは、確かに切臣だった。しかし、装いがまるで違う。
軍帽にジャケット、ロングブーツ、カラスの両翼を思わせる飾り気のない
さながら闇そのものから編み上げたような、真っ黒で古めかしい軍服姿である。
しかし、それよりも何よりもまず、瞠目すべき事柄があった。底の見えない圧倒的な『負』の魔力が、彼を中心に噴き出しているのだ。
黒野切臣は確かに並外れた剣道の達人ではあるものの、あくまでごく普通の家庭に生まれ育った一般人であり、魔力など持たない単なる表社会の人間に過ぎない。
それは蓮華が一番よく分かっている。だというのにこれは、一体どういうわけなのだろう。
「ギィア……マ……」
と、そこで、上空の
蓮華はそちらに目を向ける。同時にあることに気づいた。滞空する死霊竜の巨体が、ここからでも分かるほどに震えているのだ。
カタカタ、カタカタ、と。
(まさか……怯えてるの……?)
その様子を見て、蓮華は直感する。
恐らくは自分も同じような精神状態だからだろうか。
「マ……マケンシィイイイイイイイイイイイイイイイイ――――!!」
狂乱めいた絶叫を上げて、死霊竜が再び切臣へと殺到する。
またしても尾での攻撃だが、ただし今度は薙ぎ払い。烈風を伴う一撃は、先ほどとは比べ物にならないほどの威力を込められているのが一目で分かった。
あれの直撃を受ければ最後、人間ならば簡単に挽き肉へと変えられてしまうことだろう。人間ならば。
「…………」
一方の切臣は押し黙ったまま、ゆっくりとした動作で左足を半歩後ろに下げる。
ばさりと
深紅の裏地が靡く先にあったのは、黒塗りの鞘に納められた一振りの太刀。
切臣は刀の柄をしっかり掴むと、尾が迫るに合わせて、抜き打ちの一刀を放つ。
それは奇しくも先刻の焼き直しのような情景だった。
轟音が炸裂する。大気が鳴動する。
果たして今度力負けしたのは、
弾かれ、空中でもがく。放たれし剛剣に耐えることのできなかった尾の断片が、音を立てて撒き散らされる。
片や振り抜いた切臣の太刀。
夜のような黒と血のような赤を併せ持つ刀身は、あれほどの痛撃を正面より斬り弾いたにも関わらず、刃毀れ一つしていない。
(力が漲る)
濁流のような昂りに飲まれ、判然としない思考回路のまま、切臣はただそれだけを思う。
何かの一線を越えた。
自分を雁字搦めにしていた枷が粉々に砕け散った。
そんな確かな実感が、自らの心に宿る。
まるで荒涼たる砂漠の果てにオアシスを発見したような、爆発的な悦びが全身を満たしていくのが分かる。
(もう、遮るものなんてどこにもない)
空を仰ぐ。今しがた自分を殺した(?)
さっきはあんなに大きく恐ろしく見えたのに、今はもう、どうとも思わない。
この力を試す上での、単なる実験台にしか見えなかった。
切臣は獰猛に笑う。
上空の獲物目掛けて、地上の
びゅうと旋風を巻き起こし、地面を踏み砕きながら、天翔ける竜よりも更に高みへと一息で到達する。
そうして、刀を振り翳す。相手もまた体勢を立て直し、切臣を見定めた。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
空中で彼の動きが制限されている隙に、不意を突く形で仕留めてしまおうという判断なのだろうか。
だとすればアンデッドの中では、かなり頭が回る個体と見て良いだろう。━━だが、詰めが甘かった。
切臣はあろうことか大気を蹴って、一気に
完全に常軌を逸したその動きに、腐れた竜の動作が一瞬遅れる。
交差の瞬間。悪魔めいたおぞましい凶刃が、赤黒い残光を描いて一閃、振り下ろされた。
胴を真っ二つに切り裂かれた竜の屍が落ちるのと、黒い軍服の剣士が
澱んだ血と腐った肉が、刺激臭を漂わせる。回避すべく身を捩ることも、断末魔を上げることすらも叶わぬままに、
その一部始終を、蓮華は地面にへたり込んで、黙って見守っていた。
魔力を持たない一般人だった少年が、死に瀕したことで突如強大な力に目覚め、自分を殺そうとした怪物を打ち倒す。
まるで少年漫画にでも載っていそうな、あまりにも荒唐無稽で現実離れした光景。されど蓮華の明晰な頭脳は、その理解できない状況に圧倒されつつも、ある情報を抜け目なく拾っていた。
「あの
ああなった切臣に最初に攻撃をした時、そう叫んでいたことを、確かに耳にしていたのだ。
同時。蓮華は今さらながら何かに気づいたように、慌てて懐を探った。
無い。ここに仕舞っておいたはずの魔剣の欠片が、綺麗さっぱりなくなっている。
蓮華はもう一度切臣に視線を戻す。
この尋常ならざる魔力に、人間を遥かに超越した身体能力。そして、腐蝕しているとはいえ、硬い鱗に被われた竜の肉体を、易々と斬り裂いた恐るべき切れ味の刀。
魔剣の欠片が忽然と消えたことも踏まえ、事象を繋ぎ合わせると、蓮華の中にある仮説が浮上する。
「切臣、もしかしてあんた……」
蓮華は恐る恐るといった風に、切臣へと語りかける。
切臣はその場に立ち尽くしたまま、微動だにしない。その背後では、
「魔剣の欠片を、食べちゃったの?」
呻くように言う蓮華。
信じられない、間違いであってほしいという気持ちが胸に去来する。
だって、もし彼が本当に魔剣の欠片を食べたというのなら。
そのせいであの恐ろしいほどの力が発現したというのなら。それが指し示す答えは一つ。
黒野切臣という少年は、もはや人間ではなくなってしまったということに他ならないのだから。
(私のせいだ……私の……)
蓮華の視界がぐにゃりと歪む。
熱いものが頬を伝い、地面に小さな染みを作る。同じくして━━
ザリッ、という地面を踏みしめる音が後ろで聴こえた。
蓮華は肩を揺らして振り向く。
「ほう。到着早々妙な気配がするので来てみれば、随分おかしなことになっているな」
目に飛び込んできたのは、よく見知った顔の男だった。
短く刈り込んだロマンスグレーに、夜だろうが関係なくかけた黒々としたサングラス。
ストライプ柄のスーツに包まれた肉体は、六十代後半に差し掛かっているとは思えないほど筋骨隆々で、どこか裏稼業の人間のような雰囲気を醸し出している。
「お、爺……ちゃん……」
「久しぶりだな蓮華。ところでこれは、一体どういう状況だ?」
魔術学校の学園長にして、この国に現在八人しかいない魔術師たちの最上位・
竜宮寺家の現当主たる蓮華の義理の祖父が、ニヤリとした不敵な笑みを浮かべて、そこに立っていた。
************************
やっと主人公覚醒しましたね。
続きは明日20時頃に投稿します。
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