第7話 見知らぬ天井とウサミミメイド
茫洋とした場所であった。
燦然と輝く星々と、逆さまの月が浮かぶ夜空。見渡す限りの草原はどこまでも広がっていて、遥か彼方に地平線が見える。
その遠い遠い道程を、少年は当てもなく彷徨っていた。一歩、一歩、覚束ない足取りで前に進む。
(どこだろう、ここは)
辺りを見回して不思議に思いながらも、少年は決して足を動かすことをやめようとしない。
何故だか分からないけれど、絶対に前に進まなければならないという思いが、半ば強迫観念のように、彼の背中を押しているのだ。
どれだけ歩いただろうか。やがて少年の前方に、奇妙なものが見えてきた。広大な草原にはおよそ不釣り合いな、真っ白で大きな扉である。
(ああ、そうか。俺はここに来たかったのか)
それを見た途端、少年の心にストン、と落ちるものがあった。これこそが自分の求めていたものだと、瞬時に確信する。
それから何の躊躇もなく、扉へと手を伸ばして、
『本当に良いのか』
不意に後ろから声がした。振り向くとそこには、襤褸切れを纏った何者かが、いつの間にやら佇んでいる。
フードを目深に被っているため、顔はよく見えない。声の調子もどこか無機質な抑揚のない響きで、男なのか女なのかすら分からなかった。
『本当にその扉を開けて良いのか』
それはもう一度尋ねてきた。同時に少しずつこちらに歩み寄って、距離を詰めてくる。
『もう二度と、戻れなくなるぞ』
予言めいた言葉。
遥か遠くまで響き渡る声。
それはついに少年の目の前までやってきた。
『その覚悟がお前にあるのか』
重くのし掛かるような問い。それに対して少年は、逡巡するように顔を俯かせる。
しばらくして、震える唇をおずおずと開いた。
「俺は……」
***
はっと目が覚めた。
二度三度、目を瞬かせる。それから切臣は、ゆっくりと辺りを見渡した。
知らない部屋だ。
だがまるで最高級ホテルの客室のように、広々とした立派な部屋である。
照明は豪勢なシャンデリアだし、調度品一つ取ってみても、一般庶民の切臣でさえ察せられるほどに高級なものばかり。
またベッドも非常にふかふかで寝心地が良く、気を抜けば再び睡魔に誘われてしまいそうになる。
それをどうにか堪えて、切臣は何故自分がこんなところにいるのか考える。
ここに至るまでの筋道を遡って、順々に辿っていった。そして、
「……そうだ、思い出した!」
慌てて身を起こした。
全てを思い出したのだ。蓮華が怪物に襲われていたことも、自分がそれに割り込んで腹を刺されてしまったことも全部。
そしてその後、自分が得体の知れない奇妙な力を手にして、あの怪物を撃退したことも。
切臣は自分の身体を見下ろす。
着用しているのは家を出る時に着ていた部屋着であり、断じてあの真っ黒い軍服などではなかった。
また、胴に空けられたはずの風穴も、最初からなかったかのように消えている。
あの時に感じていた凄まじい力の漲りも、今はこれっぽっちも感じなかった。
ひょっとして夢だったのだろうか。
切臣は一瞬そう考えるが、即座に否定する。
夢というにはあまりにリアル過ぎる記憶だし、何より自室ではなくこのような場所で目が覚める意味も分からない。
「それより、蓮華はどうなったんだ?」
今更ながらそこに思い至って、一人ごちる切臣。
自分の記憶が正しければ、蓮華は特に目立った外傷などは負っていなかった。
怪物を倒した以上は無事だとは思いたいが、まだ安心はできない。
探しに行こうと立ち上がった、まさにその瞬間。
「失礼致しま……チッ、目を覚ましやがりましたか」
小学生くらいの背格好をしたウサミミメイドが、ノックもせずにいきなり部屋に入ってきた。
それから自分の顔を見るなり、露骨に嫌そうな顔をして舌打ちをしたのだ。
「へあ?」
あまりにエキセントリックな闖入者に、切臣は思わず間抜けな声を上げる。
狼狽するこちらを余所に、謎のウサミミメイドはツカツカと歩み寄ってきて、無遠慮な視線を送ってきた。
「どうやら身体に異常はないようですね。実に残ね……喜ばしいことです」
「……え、今残念って言おうとした?」
「おやおやお客様、お耳の調子はまだ万全とは言えないご様子。今しばらくお休みになられてはいかがでしょうか。永遠に」
「死ねってか!? それ死ねってことか!?」
開幕から暴言を吐きまくるウサミミメイドに、ようやく理解が追いついたのか、切臣は大声で叫び倒す。
だが一方の彼女は特に悪びれもせず、やれやれと頭を振りながら、
「か弱い乙女をこのような至近距離で怒鳴り付けるなど、愚の骨頂も骨頂だとご存知ありませんでしたか? お客様。全く、そんなだから童貞なんですよ」
「うっせえ! 童貞は関係ねえだろ童貞は! つーか、お前一体誰なんだよ! いきなり出てきて好き放題言いやがって!」
「ああ。そういえば、自己紹介が遅れました」
するとウサミミメイドは姿勢を正して、改めてこちらを見据えながら口を開いた。
「初めましてお客様、木津うづきと申します。逆から読んでも木津うづきです。竜宮寺一門に仕える木津家出身で、今は修行のため本邸にて使用人の真似事をさせて頂いております。気安くラブリーバニーうづきちゃんとお呼びください。私も憎しみと殺意を込めて貴方のことは山猿さんと呼ばせて頂きますので」
恭しく(?)一礼をして、ウサミミメイド改め木津うづきは自己紹介の言葉を述べた。
色々と突っ込みどころはあるが、ここは敢えてスルーしておくことにして、切臣もそれに返事をする。
「お、おう。俺は黒野切臣だ。普通に黒野って呼んでくれ」
「おっと、私の渾身のボケをまさかの完全スルーですか。まあ所詮、脳筋の類人猿には理解できない高度なジョークですから無理もありませんね」
「何で俺、初対面の女の子にこんな全力で罵倒されてんの?」
納得がいかないという風に、切臣は苦言を呈する。
(……って、待てよ。竜宮寺一門? 本邸? それってつまり……)
しかしながら、うづきの言ったことをもう一度思い返して、見る見るうちに表情が強張っていく。自然、目の前で直立する彼女の方へと視線が向いた。
だがうづきはそんな切臣の視線をどう受け取ったのか、両手で自らの身体を掻き抱きながら
「何ですかこちらをじっと見つめて。よもや私に欲情なさいましたか。誠に残念ですが、私は貴方に小爪の甘皮ほども性的魅力を感じておりませんので、お気持ちにお応えすることはできません。ご了承ください」
「安心しろ、俺もお前みたいなちんちくりんには欠片も興味ねえよ小娘。そうじゃなくてだな、一つ訊きたいことがあるんだが」
「?」
「ここはひょっとして……竜宮寺の屋敷なのか?」
真剣な表情で切臣は問う。
それから、室内をぐるりと見渡した。
蓮華との付き合いはそれこそ人生の大半と言えるほど長いものの、彼女が竜宮寺に引き取られて以降、この屋敷に招かれたことは一度もない。
されど、竜宮寺の屋敷そのものは、どのような外観であるのかは知っていた。
確かにあれほど豪奢な佇まいの建物ならば、内装もこれくらいにはなるだろう。
妙な方向で納得しつつ、切臣は今一度うづきへと向き直る。
うづきはそんな切臣に対して、出来の悪い教え子を見るような目を向けた。
「ようやくお気づきになられましたか。見た目に違わず愚鈍でいらっしゃいますね。━━お察しの通り、当館は竜宮寺一門の宗家であられる、竜宮寺厳志郎様のご邸宅でございます。貴方は例の騒動の後、大旦那様によってこの屋敷まで運び込まれました」
「じゃ……じゃあ、蓮華は? あいつは無事なのか!?」
「はい。お嬢様も特に目立った外傷はなく、大旦那様とご一緒に戻られました。現在は自室にてお休みになられています」
「そう、か。良かった……」
切臣は心の底から安堵して、大きく息を吐く。とにもかくにも、一番の懸念事項が杞憂に終わってくれたのは嬉しいことだ。
胸を撫で下ろす切臣を、うづきは無表情のまましばらく見つめる。しかしすぐに興味が失せたように踵を返すと、淡々とした口調で告げた。
「ところで。申し訳ありませんが大旦那様がお呼びですので、ご同行願えますでしょうか」
「え? 大旦那様っていうと、蓮華の義理の爺さん?」
「はい。貴方の身に生じた事柄について、いくつか伝えたい話があるので、目を覚ましたら連れてくるようにと仰せつかっております。もし嫌だと仰るのであれば無理やり引き摺っていくつもりですが」
「拒否権ないんかい」
うづきの言葉を聞いて、切臣の脳内で中学校での一幕が再生される。
確かに、蓮華の安否がしっかりと確認された以上、次に気にするべきはそこだろう。あの得体の知れない昂りは果たして何だったのか、自分の身に何が生じたのか、次はそれを明らかにしなければならない。
だが、魔術に関してはド素人の自分がいくら考えたところで、下手の考え休むに似たりというやつにしかならない。
そこを行くと、専門家が直々に話を聞かせてくれるという今の状況は、まさに渡りに船である。
「分かった。案内してくれ」
だからこそ切臣は、うづきの言葉に一も二もなく頷いたのだった。
***
部屋を出た先の廊下も、やはり負けず劣らずの豪華な造りであった。
鮮やかな深紅のカーペットが遥か向こうまで真っ直ぐに敷かれ、白い壁に打ち付けられた銀の燭台が行く先を妖しく照らし込んでいる。
また絵画や彫刻のようないかにも高級そうな美術品が、通路の至るところに飾られており、時折すれ違う使用人らしき者たちも、どこか気品のようなものが漂っているように思える。
そのような様相に圧倒されているのか、切臣はあちこちを落ち着きなくキョロキョロと見渡していた。
「どうかなさいましたか?」
先を歩くうづきが不審の念も露に、ジトッとした目を向けて尋ねてくる。
「あ、いや……改めて見ると、やっぱすげえ豪邸だなあって思ってさ」
「何を当たり前のことを。竜宮寺一門は千年続く魔術師の名門なのですよ。魔導管理協会はもちろんのこと、政界や財界にも広く顔が利きます。むしろ、その宗家の住まいとしては慎ましいくらいです」
「慎ましい……これで……」
切臣は思わず絶句した。
将来自分が就職して、生涯働き続けた賃金を全て注ぎ込んだとしても、到底建てられそうもないこの大きな屋敷を慎ましいと言い切ってしまえる、スケールの違いに対して。
理由が理由のためあまり意識したことはなかったが、今の竜宮寺蓮華という少女は超が二つ三つ付くほどのお嬢様なのだということを、ひしひしと実感する。
ひょっとしなくとも自分と彼女は、もはや一緒につるんでいること自体が途轍もなく不釣り合いなのではないかと、つい考えてしまうほどに。━━と、その時である。
「到着致しました。大旦那様━━竜宮寺厳志郎様の書斎でございます」
くるりとこちらを向いてうづきは言った。
切臣は思考を止めて、はっと我に返る。それから、案内された場所に目を向けた。
そこは広い廊下の突き当たりに位置する、金色のノブが付いたマホガニーの両開き扉だった。
うづきはそちらに向き直ると、軽くノックをする。程なくして応答が返ってくる。
「誰だ」
「失礼致します大旦那様、うづきでございます。お客様をお連れしましたが、入室してもよろしいでしょうか」
「ああ、うづきか。構わないとも。入ってくれ」
聴き心地の良いバリトンボイスが耳朶に響く。
うづきは改まって返事をすると、ゆっくりとノブに手をかけて回した。
切臣はごくりと喉を鳴らす。初めて対面する蓮華の義父。
それが果たしてどのような人物なのか気にかかり、同時に凄まじく緊張してしまう。
通された室内は、全体的にダークな色彩に設えられていた。
壁一面に敷き詰められた本棚に、床に敷かれた暗色の絨毯。薄暗い照明が施されている。奥の窓際には黒塗りのアンティーク調デスクが備えられていて、大柄な人影が一つ、そこに座っていた。
「確か、黒野切臣くんだったかな」
人影から声が飛んでくる。同時、薄明かりの中に段々とその姿がはっきりと見えるようになってきた。
短く刈り込んだロマンスグレーにストライプ柄のスーツを着こなし、室内だというのに黒々としたサングラスをかけた、一歩間違えればその筋の者に見えかねない、六十代後半程度の男性である。
その顔に、切臣は見覚えがあった。
「これで会うのは二度目になるかな。蓮華の義理の祖父、竜宮寺厳志郎だ。あの時は失礼をして悪かったね」
そう。
蓮華の母親の通夜の日、蓮華に話をしにやってきたあの男である。
そのことを思い出し、切臣はしばらく固まっていたが、やがて我に返って返事をした。
「あの、えっと……黒野切臣です! 俺の方こそ、あの時は失礼な態度取ってしまってすみません!」
深々と頭を下げて精いっぱい礼儀正しく謝罪しようとする切臣。
それを見て、厳志郎はますます愉快げに笑みを深めつつ言う。
「そう畏まらなくても良い。私が言えることではないかも知れないが、君には蓮華といつも仲良くしてくれてとても感謝しているんだ。気にせず、楽にしてほしい」
強面の顔に似合わぬ穏やかな微笑を浮かべて、厳志郎は言う。
それから、うづきが後ろへと控えるのを見計らって、仕切り直すように咳払いをした。
「さて、まずは礼を言わせてくれ。蓮華を……孫を助けてくれて、本当にありがとう。君がいなければ今頃、あの子はもうこの世にはいなかった。いくら感謝してもしきれないくらいだ」
デスクの上に両手を着いて、深々と頭を下げる厳志郎。切臣はぎょっと目を剥いて、慌てたように声を荒げる。
「いやいやそんな! 俺だってあいつに死なれるのは嫌でしたから、気にしなくていいですよ! それに……」
切臣はそこで一拍置いて、
「それにあれは、俺の力ってわけじゃないですから」
改めて厳志郎をまっすぐ見据える。
「教えてください。あの力は一体何だったのか。俺の身体に何が起きたのか。……ご存知なんですよね?」
切臣からの問いかけに、厳志郎は居住まいを正す。それから、ゆっくりと語り始めた。
「そうだな。私も、持って回った話し方はあまり好きじゃない。早速本題に入ることにしようか」
言って、厳志郎はデスクから一枚の写真を取り出した。
そこに写されているのは、親指ほどの大きさをした、見覚えのある赤黒い欠片のようなもの。
「知っているだろう? 君が校庭で死にかけた際、食べてしまったものの写真だよ」
断定口調で厳志郎は言う。
何故知っているのだろうかと疑問が過るものの、ぐっと飲み込んで顎を引く。
本当は食べるつもりはなく、口で咥えようとしたところを勢い余って噛み砕いてしまっただけなのだが、そんなものは些細な問題に過ぎない。
「これは魔剣の欠片といってな。この町を守るために魔除けとして設置していた、かつての殲滅戦争において猛威を振るった魔剣士たちの切り札たる究極のマジックアイテム。その一部だ。魔剣士については?」
「ええと……歴史の授業でちょっとだけ」
「話が早くて何より。まあざっくり言うとこいつは、一部とはいえ魔剣士の凶悪な魔力を宿した、言わば彼らの半身とも呼ぶべき代物なわけだな」
言って、厳志郎は写真を元通りの場所に仕舞い込む。
サングラス越しであるにも拘わらず、その奥の瞳がこちらを鋭く射抜いているのを、切臣は感じ取った。
「それを君は食べてしまった。魔族の骨肉、もしくはそれに類するものを人間が口にした場合、起きる現象は二つに一つ。上手く適合できず細胞をズタズタにされて死に至るか、若しくはその魔族と同じ種族へと転生するかだ。多くの場合は前者の結末を迎えることになるはずだが、君は死んではおらず、人智を越えた能力を発現して蓮華を救ってくれた。━━ならば、それが意味する答えは一つしかない」
厳志郎はそこで一度、言葉を切った。
今までの話を総合すると、彼が一体何を言いたいのか、切臣にも分かってくる。
けれどそれは、到底信じられない話だった。
心臓が高鳴る。背中に嫌な汗が流れる。
「まさか、そんな」
「そのまさかさ」
厳志郎は皮肉気に口許を歪めた。
朗々たる声色が、薄暗い室内に重く響き渡る。
「切臣くん。信じられないかも知れないが、君はもう人間じゃない。君の体内に取り入れられた魔剣の欠片はこれ以上ないほど強く適合し、深く混ざり合ってしまった。……君は、魔剣士になってしまったんだよ」
自らの胸の奥底で何かが蠢く気配を、切臣は感じた。
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続きは21時に投稿します。
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