精神分析的視点——友也をめぐるエディプス的三者構造

 さて、こうした親子をめぐる問題を考えるにあたって、想起するべきは精神分析における「エディプスコンプレックス」だろう。20世紀の代表的な心理学理論である精神分析の創始者フロイトが提唱した本概念は、子どもの自我発達に関する発達心理学研究に大きな貢献を成した議論だ。人間の欲動をいわゆる「性欲」と関係させる精神分析において、自我が未形成の子どもにおける最初期の性的欲求対象として、最初に出会う女性である母親の重要性が説かれる。幼年期において、少年は母親との近親相姦願望を抱く。だが、しかしその願望は「禁止」させることで断念されてしまう。母親への近親相姦を制止し、それを禁止ささせるのは父親によってされる。制止を受けた少年はあらゆる欲望の全てが決して思いのままにならないことを理解し、やがて社会的に自己を抑圧することが可能な自我を形成することになる。概略ではあるものの、以上がフロイトのいうエディプスコンプレックスの理論だ[1]。ギリシャ神話における「エディプス王」の物語を参照することで提示された本概念は、人間発達において普遍的に経験される要素として主張された。その議論は一方で男性中心主義的であり、さらに人間の欲望のすべてを性欲に還元させてしまう態度が後に批判されて行くものの、精神医学や臨床心理学の議論に限定されることなく、映画作品への精神分析的批評をはじめ、20世紀以降の哲学にも大きな影響を与えた点で決して無視できない議論だ(なお、おそらく今でも高校の「現代社会」の教科書冒頭に登場する「ヤマアラシのジレンマ」は、フロイトによるものだ)。


 映画に話を戻そう。本作品における友也は、まるで「父親」と「母親」との間で翻弄され続けるエディプス王のようだ。彼には象徴的「母親」がいない——実際の母親は父親の欠如を埋めるように「父親」へと変貌している。そこで、友也は原始的な近親相姦願望、エディプス的願望を向ける対象をある意味で喪失しているだけでなく、「父親」と化した母親によって、「母親」がいないにも関わらず、「父親」からの制止を受けている。ひたすら受験へと友也をいざなおうとしているその姿勢は、まさにそれに該当する。そこで友也は綾音と出会う。どこまでも友也を肯定する彼女の姿勢はまさに「母親」に相応しいものだが、しかし彼女への過度な肩入れ——エディプス的願望の増大化は、やがて「父親」に発見されてしまう。友也は学習塾をさぼって綾音のもとに向かっていることが母親によって発見されてしまい、自己の行動を制限させようとする。それによって、再度「母親」の優しい胎内から、間近に迫った「受験」という問題へと直面させようとするのだ。そうした様相は、「母親」との近親相姦願望に対する、父親の静止というエディプスコンプレックスの構造に同じだろう。友也は「父親」=母親の目を盗んで「母親」=綾音に会いに行っていたのだが、それに気づいた「父親」が再度友也と「母親」を引き離そうとする。どこまで行っても「幽霊」である「母親」=綾音との接触を絶たせることによって友也を現実社会へと適合させる——受験生として受験に向けさせるという行動は、精神分析的に言えば父親からの「禁止」を受けることによって友也が現実に適応した自我を形成させる過程と同じであり、そこにはあるのは、高校生という貴重な少年期を過ごす彼自身の自我形成過程であるのだ。

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