母親の父親化、そして母親の不在


 母親から離反し、幽霊と戯れる物語。そんな「サマーゴースト」において、母親の存在は無視できない。なぜなら、友也が幽霊と戯れるきっかけを提供した存在として、少なからず母親の影響は大きいからだ。彼女は友也を抑圧し、受験生として自覚を植え付けようとしている。本当は絵を描いていたいが、それは母親には打ち明けられない——まるで付け入るスキを見せないように厳しい姿勢を崩さない母親のそれは、いわゆる「母親」の姿には縛られない。理知的でありながらも頑固な姿勢は、どちらかといえば「父親」の印象を覚える。


 「父親」のように母親が振る舞うのだとすれば、では「父親」はどう描写されているのだろう。そういう問いが生じてくることは決して不自然なことではないように思える。しかしながら——ここが最重要な点であると思うが、本作品にて父親は一切描写されない。少なくとも、私の知る限りでは物語で友也の父親に関する描写はなかった。存在が、語られないのだ。この不在は、友也はおろか、どの登場キャラクターにも共通する。あおいに関しては描写はなく、涼は病院で診察を受ける場面でわずかに両親について言及がされるにすぎない。それだけでなく、サマーゴーストたる綾音も同様であり、物語中に母親は登場すれど父親はまるで語られない。どの少年少女にも共通する父親の不在。その徹底的までともいえるあり方は、こと主人公の友也の視点においては母親の「父親」化を促した。結果的に、本来の「母親」が欠如している。この屈折した欠如は決して、無視すべきものではないだろう。


 こうして考えると、友也が綾音へ接近していくのはある意味で必然であるかのように思える。綾音は本当は絵を描きたいという友也の内心に対する、数少ない理解者として描かれる。幽体離脱した友也を美術館に連れ出すなど、彼女は友也のやりたいことを叶え、友也の思うままのことを肯定する。その姿勢はまるで、友也の実際の家庭で欠落している「母親」を補填するよう立ち回っているのだ。母親が「父親」と化すことで、象徴的「母親」が欠落してしまった友也。そんな彼にとって、自身を積極的に肯定してくれる綾音の存在はまさに「母親」である。欠落した「母親」に対し、その面影を幽霊に追い求める友也はまさに、「父親」に反抗して「母親」へ依存しているようだ。しかしながら、「母親」たる綾音は「サマーゴースト」であり、幽霊である点を私たちは無視するわけにはいかない。友也と綾音の間にはもはや乗り越えられることの不可能な境界線があり、この境界線ゆえに、友也による綾音への依存がどこかで断念されてしまう。限界が目に見えている「母親」の寵愛は、しかしながら「父親」の厳しい視線しか向けられていない友也にとっては大きく魅力的な存在になってしまう。このことは、もはや言うまでもないだろう。

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