異なる視点——分析心理学的における統一された象徴を求めて

 しかしながら、このエディプス的三者関係では、まだ批評として語り切れていない「余白」が存在しているように思える。それは綾音が幽霊であることに関係している。先に私は本作品における特徴の一つとして「父親」の欠如について述べたが、綾音が幽霊であることはいわば本作品における、もう一つの欠如とも言える。幽霊である綾音に近づくことは、言い方を変えれば「死」に接近していくことだ。この点を考える必要がある。


 精神分析において「死」を考える際、晩年のフロイトにより提示された「死の欲動」という言葉が想起されるべきだろう。「快感原則の彼岸」と「自我とエス」の二論文によって語られた「死の欲動」の議論は、既述したエディプスコンプレックスの議論を展開していた時期のフロイト――前期フロイトと称されることが多い——から見ておよそ8年後に執筆された、後期フロイトの代表的議論として提唱された[2]。本概念は従来の精神分析の概念における性的理論とは別のものとして、自ら死を望むような願望たる「死の欲動」の存在を主張するものだ(なお、従来の性欲動は「生の欲動」と称される)。自らを死へ向かわせるエネルギーと、自らを生に向かわせる二つのエネルギーが均等に存在することによって、自我はその存在を維持できるのだ。


 さて、こうした視点より友也の視点に立ち返って考えてみるとどうだろう。綾音に接近するということはつまり「幽霊」へ接近することであり、したがって経験的に「死」へ接近することだ。実際、物語中ではまるで幽体離脱するような描写が幾度もなされ、それによって友也は綾音と同じように空中をさまようことができるのだが、綾音と同等になっているということはすなわち、幽霊になっていることであり、「死」を経験しているということになる。綾音は「母親」であるのと同時に、それは幽霊であるがために「死」の象徴だ。先のエディプスに関する議論において母親が近親相姦対象として語られることを示したが、それは「生の欲動」の対象として考えられるべき存在だ。しかしながら、綾音が幽霊であるという事実によって、それは「死の欲動」の象徴としても解釈可能な余白が生じている。「生」と「死」という対立すべき存在が、綾音という「母親」には内包されているのだ。こうした視点は、エディプスコンプレックスの視点に収まらず、ひいては精神分析批評の射程外部にもあるような要素ではないだろうか。


 両義的な彼女に対する精神分析的視点からの批評には、おそらく解釈の「余白」が残ってしまう。では、精神分析とは異なる視点はどうだろう。フロイトの弟子でありながらも彼とは別の道を進んだ精神科医のカール・グズタフ・ユングは、人間形成に際して自身の「影」たる存在と対話することで、無意識と意識を統合するという「個性化」の過程を、自身の議論を構築した最初期の論考である『無意識の心理』という著作で残している[3]。フロイトが提唱した性的発達段階論と比較して老年期のそれに注目を当てたユングは、自己の無意識=影との対話という、まさに対立物の統合を目指すことを目標にしている。こうした彼の視点から見ると、綾音という「生」と「死」を兼ね合わせた存在はまさに統合の象徴であり、友也が綾音に接近していく様相は、「母親」を欠如した彼が欠如のない存在である綾音を欲することで、友也自身が欠如のない存在へと至る為のある種の過程に見えてくる。物語の終盤にて友也は自分自身と対話するシーンが流れるが、これはまさしく「影」との対話だ。


 しかしながら、分析心理学的な統合は自己の内面で生じるものであり、最終的に自己の問題なる以上、母親からは独立して自己を形成する必要がある。物語になぞって言えば、友也はどこかで綾音と決別する必要があるのだ。ユングの弟子である分析心理学者エーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』では師匠たるユングの元型論を継承しながら[4]、膨大な量の神話と象徴の分析によって、「母親」という象徴が全てを受容する存在である一方ですべてを自身の「胎内」に引き戻すような強烈な引力をも含むことを指摘している[5]。それになぞるように、綾音は死体探しを友也に懇願することによって、自身の側——「死」へと友也をいざなっている。物語の最終局面では綾音との別れを拒むもう一人の友也との対話がなされる——友也自身の「影」との対話がなされる——が、そこでもう一人の知也は当初、綾音の姿で登場している。実際な場面はぜひ劇場で確認していただければと思うが、最後のシーンで描写されるのは自身の胎内へ友也を回帰させたい綾音との決別の描写であると同時に、「母親」と決別することによって友也自身の問題へと変化する——友也自身の「影」との対話へと、問題が変身した瞬間であったのだ。

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