第37話 北の荒野をゆく(二)

 ネビアにあるバローネの娼館の一室では、フェルナンドが招かれざる客達にどう対処すべきか頭を悩ませていた。


「ですから、我々も商売でやっている事……それを旦那方にどうこう言われる筋合いは御座いませんな」フェルナンドは彼の役職として至極真っ当な言葉を述べつつも、心の中では己の与り知らぬ事だと投げやりな気持ちになるを抑えるのに必死であった。


 窓際に置かれた執務机の向こう側には彼の良く知る男が立っていた。男は宵星の塚の外套をまとったマルセンであった。他に初めてみる男が二人その背後に控えていたが、片方は霧の帳のホルンベルであり、もう一方は朱風の影祓いであるイブラヒムという男であった。


「ではどうあっても手は引けぬ、と申すのだな」マルセンが抑揚を押し殺した声で言った。それから彼は意味ありげに息を深く吐き出すと、ほんの一時瞑想するかのように瞼を閉じて黙り込んだ。フェルナンドにはその僅かな沈黙が何を意味するのか理解できなかったが酷く不気味で長いものに感じられた。


「あの娘は我々の所有物だ。それにくわえて小僧は事もあろうにこの館の中で怪しげな術を用い、我々の邪魔をした挙句今も逃げている始末……たとえ見習いとはいえ塚人がその技をもって市民を害するとは前代未聞の話ですが、塚人にも従うべき法と言うものがありましょう」フェルナンドはそこまで一息にまくし立てると相手の出方を窺った。


 マルセンは僅かに目を見開かせたまま反論する様子もなく、後に控える二人の男達も同様であった。フェルナンドはその事に気を良くすると、今度は媚び入るような眼差しでマルセンを篭絡しに掛かる。


 彼にとって子供二人をどうこうするなどどうでも良い事であったが、その事で主であるオドレイの機嫌を損ねる事こそが問題なのだ。突然訪れて子供達から手を引けなどと詰め寄られ、両手放しでその言に従ったとあらば女主人は嬉々として彼を手打ちにしかねない。


 フェルナンドは席から立ち上がると、執務机を回り込んでマルセンの横に立った。そして語気を和らげるとその背後に立つ二人の男達を眺めながら話を続けた。


「旦那方もご存知の通り、我々にはこの件に関する独自の裁量が認められております。必要とあらば評議所の裁定書はいつでもお見せしますが、我々としては穏便に事を済ませたい」フェルナンドは最後の一言を勝ち誇ったように言った。


「前代未聞とは笑止な」マルセンが突然その口を開いた。フェルナンドは一瞬己の耳を疑い、マルセンの横顔を凝視した。


「そなたの申す通り、塚人には塚人の法というものがある。不肖私の弟子はその法をおかし、そして我等の法によって既に裁かれておる。だが他に裁かれるべき者があるのを其方らも重々承知していように」マルセンは鋭い一瞥をフェルナンドにくれると、その視線を差配役の背後に見える扉へと向けた。


 扉は隣の部屋へと続いている。マルセンは必要以上に声を張り上げるとジベールの名を挙げた。先ほどまで勝ち誇っていたフェルナンドは思いも寄らぬ話の流れにただ狼狽える他なかった。


「差配役殿」今度はイブラヒムと言う男が口を開いた。イブラヒムは前に進み出ると、自らを朱風(あけかぜ)の頭領の名代であると明かした。


「ジベールと私はかつての同門になるが、彼の者もまた我等が法を犯した者の一人だ。奴はその罰を受けてなお、昏き私欲に我らの技を振るわんとする不埒者……我々はそのような輩を断じて許しはせぬし、それに連なる者共もまた然り」イブラヒムの言葉をマルセンが引き継ぐ。

「ジベールが誰かの欲得の為に技を振るうたとして、その者が誰かは街の査問官もさぞ興味を示すであろうな」これは警告であった。

 本来、墓所に住まう者達が川向こうの諸事に口を出すなど今までなかった事だが、それは何の根拠もない慣例でしかない。


 ジベールを訴追すれば自ずと明らかになる諸々を街衆が知ったところで今更驚く者などいないに違いないが、評議所の査問官達は知らぬ顔を決め込む訳に行かなくなるだろう。その誰かが街に属する者で在れば街の法で裁かれねばならないからだ。


 フェルナンドの脳裏にはネビアの街外れにある刑場の景色がよぎる。そして次第に歯の根が噛み合わなくなり、額といわず肌のいたる所から粘るような汗が噴出してくるのが分った。目の前の男達は刑場の台へ登るべき者達の中に己も含まれているのを承知しているのだ。


「これは脅しか!」フェルナンドにはその一言を搾り出すのが精一杯であった。差配役の言葉にマルセンも他の二人も何の興味も示さず、ただ黙って何かを待っている様子であった。

 そして隣の部屋へと繋がる扉が静かに開かれた。部屋中の視線が一斉に扉へ向けられ、その視線の中黒いドレス姿の女が部屋に入って来た。


「バローネ夫人ですな」イブラヒムが尋ねた。オドレイはその呼称が気に食わぬ様子で一瞬眉をひそめたが、すぐにまた無表情を取り繕うと一同の視線を悠然とその身に受け止めた。


「オドレイ様……」フェルナンドはすがる思いで女主人の名を口に出したが、オドレイからは侮蔑の眼差しが返されるばかりであった。彼女はフェルナンドに命じて公書をしたためる準備をさせ、その間この女主人と塚人達の間に交わされた言葉はひとつもなかったが、オドレイは執務机の向こう側でペンを手に取ると、そこからマルセン達に向けて陰火のような眼差しを投げかけた。


「一言いっておく。私は墓所に侍らう奴腹が街を我が物顔で闊歩するのは好かぬ。用が済んだら早々に去ね」オドレイは淡々とそう述べると、書面に何かをしたためだした。




 アラナンドの下町に〈明けの双子星〉亭という宿があった。旅人や街のゴロツキ相手に老夫婦ふたりで切り盛りしている安宿だ。一階部分は帳場と小さな酒場を兼ねており、日暮れ時から数人の常連客がくだをまいている。


 ちょうど宿の主人が空になった酒樽を裏口から運び出していると、旅装束の男が入ってきた。背が高く痩せ型で、身にまとった外套は酷く土埃に塗れていた。


 男は黙ったまま廊下をすすんで二階へと続く階段を登っていった。二階に上がると廊下の突き当たりで外套を脱ぎ去り、扉を叩きもせずに部屋の中へと入る。机の上にランプが一つ置かれていたが、灯りは最小現に絞られていて室内は薄暗かった。


「旦那、具合はどうですかい?」背の高い男が言った。男はランプを手に取り、部屋の奥を照らし出した。壁際におかれた寝台に男が一人横たわっていたようで、その男はゆっくりと寝返りをうつとランプの灯りから顔を背け、抗議するように呻き声を洩らした。


「餓鬼共がまさか戻ってくるとは思いもしませんでしたが、いま北の古跡にいます」

 背の高い男――アマディオ――は勝手に座る場所を見つけると腰を落ち着けた。


「灯りをおとせ……」嗄れ声でそう発したのはジベールであった。ジベールは寝台から起き上がると光を厭うように手で遮り、その手がゆっくりと下ろされるに従って骨張った顔が光の下に曝け出されていく。

 その顔はひどく無残な有様であった。左の額を中心に痣が大きな白い傷跡のようにひろがり、痣の真ん中にある左目が赤黒く膿んだ色合いを湛え、不気味に宙を睨み付けていた。


 ジベールは街でテオ達を取り逃がしたあと、アマディオの馴染みであるこの宿へ運び込まれたのだ。彼は不覚にも怪しげな老人の放った幻覚に屈して意識を失い、今もその名残に苦しめられていた。


 何より彼の心身を蝕み続けているのは左の額に刻まれた失印のもたらす痛みであった。失印は塚を追われた影祓いの証であり、その者が技を振るう度に強度を増して術者を責め苛むのである。


 かつて朱風の塚にあって自他共にその才を認める術者であったジベールは、この失印の為に最早その技を存分に振るう事が難しくなっていた。


 彼は裏街へ落ちのびて以来、得意としていた祈祷調伏の類を封じて調薬や呪(しゅ)を込めた道具の知識を持って名を挙げてきたが、しかし例の一件以来、影を繰る老人の放った幻影に抗う為、彼は自らの知る技の全てを用いねばならなかった。


 その結果、失印に込められた呪はかつてないほど活性化し、失印からひろがる痣は彼の顔面の半分を覆うまでに成長していた。


 ジベールがテオ達にこうもこだわったのも同じ失印を持つ者を取り込まんとする為であった。本来であれば捨て置かれてもおかしくなかったテオとセラナに固執したのは実はジベールであり、たとえオドレイに借りを作ることになっても二人を手中に収めたかったのだ。


 失印を解く術を知るのは塚の頭領のみであったが、塚の法がジベールを見逃すはずも無く、しかし宵星の頭領であったマルセン個人とならば交渉の余地はあると彼は踏んでいた。あるいは交渉ならずとも、テオを自らの身代わりに仕立てて利用する手立てなど彼には幾らでも考えついた。


 だが寺院の施設での一件で事情は変わった。影に憑かれた老人と事を構え、その争いに敗れたことで彼の立てた思惑は全て水泡に帰した。結果、塚人達に自らの存在を晒す破目になり、思わぬ深手を追ってなお子供二人は手中に無く、そしていまだ彼は得体の知れぬ幻影に苛まれ続けていた。


 しかしここに来て事態が動いた。行方知れずであったテオとセラナがこの界隈に舞い戻って来たと言うのだ。今のジベールに残されたものは暗い執念のみであった。

 あの老人はジベールの知らぬ技を駆使して彼を凌駕して見せた。その全身に途方も無い程の深い影をまといながらも正気を保ち、ジベールをまるで赤子のようにあしらったのである。


 彼は本能的にあの老人がどの影祓い達よりも神秘の根本に根ざした知識を有していると信じた。そして安宿の一室で床に臥しながら如何にしてあの者らを捕らえ、取り込み、己の糧とするかを考え続けてきたのだ。


 ジベールはアマディオに詳細な報告を求めた。アマディオは彼の命で寺院の施設や街の要所に人を配し、この件に関わった者達の傍に絶えず監視の目を光らせていた。その内の一人、アランという〈失われし光〉の男に張り付かせた手下から突然知らせが舞い込んだのだ。


 セム川の上流に広がる古跡郡から早馬で届けられた知らせを受け、アマディオとベルナールはすぐに北へ向かった。そして遺跡近くの施設でアランと一緒であった四人連れの姿を確認した。


 それは言うまでもなく二アブの森を発ったあとのテオ達一行で、ジベールに報告を入れる為にアマディオが一人で街まで戻って来たのだ。

「私が直接出向く」ジベールの残された右の瞳には妖しげな光が満ちていた。

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