北の荒野を行く

第36話 北の荒野をゆく(一)

 ニアブの森を発つ日が決まった。出立の日に向け、テオ達はセサルの協力を得てこの森の大樹とその周囲の古木になる実から種を集めていた。ヨナスとアルジアは子供達の作業する姿を遠目に見守りながら、北にあるという古森の終焉と再生について語らっていた。


 アルジアは当初、ヨナスがなぜ今になって戻ってきたのか理解できなかった。自分をどん底の生活から拾い上げ、永遠に等しい孤独を押し付けた男。

 ヨナスが急に姿を消してこの森にひとり残された彼女は、彼が死んだものと自分を納得させることで、彼と暮らした日々の想い出を糧に気の遠くなるような孤独を乗り越える事ができた。


 しかし永く続く孤独の日々はアルジアの心を徐々にむしばみ、人としての感性が失われていくのを彼女自身も感じていた。そのうち山間に暮らす人々とのわずかな交流も断つようになり、いつしか彼女はニアブの森に住まう魔女としてこの土地でおそれられるようになった。


 それも悪くない。あの頃の彼女は自分が魔女と呼ばれる事を受け入れ、森を深い霧で覆い隠した。


 だがいつだったか、この森に捨てられた子供を彼女は気まぐれで育てることにした。それがセサルだ。

 セサルはアルジアのもとで森と大地と精霊達の姿を正しく見る事を学んだ。アルジアはセサルの中に守り人としての資質をみとめ、彼女を見出したヨナスがそうしたようにこの若者をいつくしんだ。


 ただ一点、ヨナスが自分にした仕打ちだけはすまいと心に決め、世を捨ててこの山に足を踏み入れようとする者達を彼女は受け入れることにした。そして月日とともに大荒野での暮らしから逃げ出した者達がひとりまたひとりと増え、森の奥に集落を築いた。


 ここで暮らす多くの者がこの森で老いて朽ち果て、ときには外での暮らしを忘れられずに森を去る者もいたが、彼らがいる限りたとえアルジアがその命を全うする日が来たとして、セサルに孤独を押し付けることはないだろうと彼女は考えた。


 だが何の前触れもなしに再び彼女の目の前に姿を現したヨナスの瞳は、彼女の知らぬ北の古森のためにセサルを差し出す事を求めていた。彼女の感情は大きく揺さぶられた。


 遠い昔の記憶、置き去りにされたことへの恨み、理不尽な孤独への怒りと恐怖、広大な大荒野の片隅で自分を見出してくれた男への想い……アルジアはおのれの内側にまだこのような人間らしい感情が残っていることに正直驚かされた。


 そしてここ数日、北の森からきたという分霊のヨナスと語らい、彼の記憶を垣間見る内に、今目の前にいるヨナスがかつて自分を育ててくれたヨナスとは別人である事を受け入れ、新たな森の誕生と存続のためにセサルを差し出すことの意味も理解した。


 かつての自分がそうであったように、大地と精霊達の調和を見届ける者が森には必要なのだ。もはやその事でヨナスと語らう事も彼を恨むことも今の彼女には必要なかった。


 子供達が森中から集めた植物の種を手に戻ってきた。アルジアは二人の子供にこの森の住人として暮らせばよいと告げたが、テオはその申し出を断ると、ヨナスと共に旅を続けたいと申し出た。

 結局セラナもテオについて行く事を決め、彼等はセサルを加えて四人でまた山を降りる事になった。


「いつでも戻っておいでなさい」アルジアはそれだけを伝えると子供達を送り出した。テオとセラナがセサルに連れられて小屋のある島を離れた後も、ヨナスだけが一人その場へ留まった。


(貴方の知るヨナスは、その役目を終えても北の古森へ戻ろうとはしなかった……だから私には貴方とこの森の記憶が無いのだ)ヨナスはアルジアの目を見詰めながら小さく頷いた。


 アルジアは久しく忘れていた笑みを満面に浮かべ、その笑顔を肩で隠すかのように踵を返した。




 テオ達は往路とは別の沢を通って山裾の旧道までくだると、再びアラナンドの街を目指した。途中の集落で森の民人達から譲り受けた獣皮などを路銀にかえ、当面の水と食料を買い揃えた。それから二十日足らずでアラナンドの対岸へ辿り着き、かつて潜んでいた廃屋で一晩留まる事にした。


 テオはセサルだけを連れるとアラナンドの街へ繰り出した。危険は承知の上であったが、北の荒野を渡るにはそれなりの準備が必要となるからだ。

 そして街に立ち寄ったのは他にも理由はあった。別れたきりとなっていたホルンベル、それにアランやミアのその後がずっと気掛かりになっていた。


 テオはまず街の市場で荷運び用の驢馬を買い求め、鞍に括り付ける大きな皮袋を二つ揃えて水で満たした。それから保存用の食料を買い足し、辻に立つ薬売りからヨナスの為に香薬の代わりになりそうな薬種をいくらか入手した。


 一通り買い物を済ませると、テオは驢馬を荷ごとセサルに預けて街にある〈失われし光〉の寺院へと向かった。


 寺院の前で信徒の格好をした男を呼び止め、アランやミアについて尋ねてみた。男は二人の名を知らぬと言い、他の者に尋ねてみると言って建物の中へ入っていった。暫くして別の男が出てくるとテオを建物の中へ招き入れた。


 テオはその男に見覚えがあった。街の北にある施設でミアと共によく奉仕活動をしていた男である。男はミアとアランが既にアラナンドの寺院を去った事を伝え、かつてのアランの上役にこれから引き合わせると言った。


 テオは通路の奥にある広間に通された。そこで暫く待たされた後、別の通路から年配の男が現れてテオを個室へと案内した。


 男は自らをヨースと名乗り、今さら何故ここを訪れたのかとテオに尋ねてきた。少年がアランやミアのその後を知りたいと正直に答えると、ヨースは深く溜め息をついた。


「あらましはアランから聞いておる。アランとミアはお主たちを故意に逃がした廉でここを去った」ヨースはテオ達が街を去ってからの経緯を話して聞かせた。


 バローネの者達はテオ達を取り逃した翌朝、評議所の下した裁定書を手に再びこの寺院に乗り込んできたのだと言う。

 ヨースはそれでもアラン達の身柄を引き渡しはしなかったが、尋ね人とされた者をいつまでも寺院で匿う訳にも行かず、二人を巡礼者に紛れさせて街から逃がしたのだ。


「ミアは宵星の塚で引き取られたと聞き及んでいる」ヨースのその一言にテオは驚きを露わにした。ヨースはマルセンの計らいだと教え、アランは彼女を東の塚まで送りとどけてから荒野の巡礼に出たのだと言った。


「今頃はアンティオームの古堂に向かっておる頃だろう」ヨースは巡礼地の記された地図を持って来ると、古堂の含まれる古跡郡の位置を示した。それからアランは捧礼の為に暫くその古堂に留まるだろうと教え、今からでも後を追えばあるいは会えるかもしれぬと言った。


 テオは礼を述べて部屋を出ようとした。するとヨースが引き留め、ホルンベルと名乗る影祓いが数日前に寺院を訪ねてきた事を伝えた。テオはもしまたホルンベルがヨースの元を訪ねる事があれば、彼等は北の荒野を越えるつもりであると伝言するよう頼んだ。




 夜が更けるのを待ってテオ達は街の対岸にある廃屋を発った。吊り橋を渡って街道に出ると、アラナンドの街を大きく避けるように西に逸れてから荒野へ踏み入れた。


 雨季が過ぎて二月以上が経ち、足元の大地は素焼きの粘土のようにひび割れざらついていた。靴底で土を踏み締める度に乾いた音と共に土埃が巻き上がる。一向は夜の間は旅足を止めずに、明け方から夕刻の間に休息を何度か取った。


 街道を外れてから数日の内は疎らに生えた木々に身を寄せて休む事が出来たが、先へ進むにつれて休む為の手頃な木陰を見つける事が困難となってきた。


 旅あしは次第に鈍り、荷運びの驢馬を潰さぬ為に休息の回数が増えていく。それは先のニアブの森を目指した道中とは比べものにならぬ過酷な日々であった。

 だが今回の旅には目的があった。ヨナスやセサルはもちろん、テオやセラナも塚を追われてから初めて自らの意思でヨナスの言う古森を目指そうと決めたのだ。


 彼等はまずヨースに教わった古跡郡を目指した。そこには巡礼者の為の施設が有り、おそらく水や食料の補給ができる最後の機会となるだろう。もちろんこの大荒野にもオアシスや集落を行き交う商人達の航路は幾つかあったが、この古跡群より北側には荒れた土地の他にはなにも無く、そこへあえて立ち入る者などめったにいなかった。


 だがヨナスは彼等の目指す森はその先にあると言った。彼は荒れ地を横切るのに一月程掛かると言ったがそれは何事も無ければと言う意味だ。もし不測の事態にでも遭えば道中は更に長く過酷なものとなるに違いない。




 街道を外れて六日目、それまで荒れた土地のほかにはなにもなかった景色に人の往来でできた道が現れた。道に沿って歩いていると時折〈失われし光〉の巡礼者達とすれ違った。


 テオが巡礼者の一人から一番近くにある彼らの施設の所在を聞き出してきたので、まずはそこへ立ち寄って水と幾らかの食料を分けてもらう事にした。本来であればそのまま北を目指すはずであったが、テオがアランに会う為にアンティオームに立ち寄りたいと告げると、セサルは何も言わず、ヨナスとセラナは同意してくれた。


 それからアンティオームの古堂まではさらに二日を要した。古堂はこの辺りの主要な巡礼経路から少し北側に外れた辺りにあり、風によって削り出された独特の形状をした岩盤の一つに穴を穿って造られた寺院があった。


 入口でセサルが驢馬と荷物の番を引き受け、テオとセラナ、それにヨナスが中へと入っていった。壁のいたるところに飾り彫りが施されたいくつもの小部屋が通路で複雑に繋がれ、個々の部屋ではそこを訪れた巡礼者達が祈りと共に火の灯された蝋燭をささげていた。


 中には風変わりな石像が壁一面に刻み込まれた部屋もあり、巡礼者は思い思いの場所で祈りをささげ、瞑想に没頭していた。それらの部屋を三人はアランの姿を求めて一つ一つ順に巡り、回廊の東の角にあたる部屋で瞑想をしていた彼の姿を見つけ出した。




「いや、驚いたなあ」アランが笑いながら言った。部屋同士を繋ぐ回廊の片隅でお互いが別れてからの事を話して聞かせた。


 アランは今では名を改め、南セムにある小さな寺院に籍を移したのだという。そして話題がミアの事に触れると、テオはヨースから粗方の事情を聞かされていると告げ、二人を巻き込んでしまった事を心から詫びた。


「気にする事はない。ミアはあれでなかなか芯の強い娘だ。お前たちを逃がした事を悔やんでなどおらんだろうし、私はこうして気侭な巡礼人に戻れた事をむしろ感謝しているくらいだ」そう言うとアランは快活な笑い声を回廊中に響き渡らせた。


 それから暫く四人で話し込んだあと、アランの手配で今宵一晩は巡礼者用の施設で寝泊まりすることになった。

 子供達は放浪の旅暮らしの中で随分と逞しく鍛えられていたが、それでもあてがわれた半球形の天幕に落ち着くと、野宿しながらの旅暮らしはやはり辛いものでしかないと改めて実感させられた。


「それにしても本気で北へ向かうのか?」アランが呆れ顔で言った。天幕の中には二段組の寝台が三対配置され、中央の敷物の上に置かれた安物の燭代の周りに平皿に盛られたささやかな食事が並べられていた。


「何故とは聞かんが、この先の旅が今まで通りとは限らんぞ」アランはテオ達の考えを翻意させようと荒野の旅の過酷さをくどくど話して聞かせた。なぜなら彼自身も巡礼の旅で何度も命を落としかけたからだ。


 しかし一人静かに椀の水を啜っていたセサルが珍しく口を開くと、これは為さねばならぬ旅なのだと告げた。彼は古森の事をアランにどう説明したものか思案したが、結局その事には触れず、残された時は限られているとだけ述べた。


 アランも彼等の事情をそれ以上詮索しようとはせず、話題を変えるとこの辺りの古跡に纏わる逸話などを語り始めた。


 そして夜は明け、テオ達はまだ薄暗がりの中、驢馬の背に荷を積みこんで古堂を発つ事にした。

「古き善きカミガミの恩寵があらん事を」アランは彼なりの手向けの言葉を口にし、静かに目礼を捧げた。

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