第35話 ニアブの森の魔女(四)

 森の民人達の集落を抜けても、足元にひろがる浅い水源池はまだ奥へと続いていた。時折見かける水面に取り残された大きな岩塊はどれもひどく苔むしており、水面のいたるところで浮き出た気泡がつくる波紋がひろがる。


 頭上を振り仰ぐとずいぶん遠くに木洩れ日の差し込みが見えた。この辺りは森の入り口付近よりもかなり樹高が高いようで、木の幹も太く節くれだったものばかりが目立つ。四人はセサルを先頭に暗い水原を黙々と歩み続けた。


 やがて奇妙な形をした大きな木のシルエットが姿を現した。「奇妙で大きい」というのは、樹高は周りの木々よりやや低いのだが、ひどく肥大したその幹は異様なまでにねじれており、枝振りはその樹高とは不釣合いなほど遠くを覆うように張り出していた。


「キノコみたい」だとセラナが揶揄し、言い得て妙だとテオが頷いた。そのキノコの木の傘の周囲だけ他の木々と樹高が合わず、落差によって出来た樹冠の間隙から差し込む陽光が奇木の周りをまるで光の帳のように取り囲んでいた。


 四人は光の帳を横切ってキノコ状の樹冠が創り出す陰の中へと足を踏み入れた。


「何だかすごいところね」セラナが呟いた。そこは周囲とはまるで異質な空間であった。帳の中の陰の領域は厳かな静けさと霊妙さに満たされ、ヨナスまでもが思わず足を止めると目の前の奇木の在り様に息をのんだ。


 木陰の中央に近づいてみると一本の大木だと思っていたものが実は複数の木の幹が絡み合うようにして出来たものだと知れた。


 セサルとヨナスの目にはさきほどから森中に飛び交う精霊達の姿が淡い輝点として無数に映しだされていたが、森のどの場所よりもこの木の陰が及ぶ場所により多くの光が集っていた。


 それらはテオの目にもちらつくような淡い閃きとしてとらえられ、セラナでさえ肌で何かしら変化を感じ取っている様子であった。


(こちらです)セサルが先を促した。一向は再び若者に導かれるまま水原を進むと大樹の裏側に出た。ちょうど反対側の樹冠の切れ目辺りが島状に盛り上がっており、その島の真ん中に古ぼけた小屋がぽつりと建っていた。


(アルジアがこの森の主の名です)セサルが言った。彼は皆に小屋の前で待つよう言い、一人で小屋の中へと入っていった。


 暫く待たされた後、年配の女性がセサルを背後に従えて現れた。彼女は浅葱色のローブを身に纏い、濃い黒髪を首の後ろで一つに束ねていた。


 浅く皺の刻まれた目元にはヨナスとよく似た色合いの、しかし淡く優しい光を湛えた眼差しがあった。その眼差しがテオ、セラナと順に向けられ、最後にヨナスの姿を捕らえて見開かれた。


(ヨナス……)森の主――アルジア――は声を震わせながらその名を口にした。彼女はかすかにその表情を強張らせ、ヨナスと距離を置くかのように扉の前で立ち止まる。

(今更何をしに戻って来た?)アルジアが声高に言った。その問いかけにヨナスはすぐに答えられなかった。彼にはこの森も、そしてアルジアの事も一向に覚えが無かった。しかしながら、どうやら彼女の方はそうではない口振りであった。


(若き森の守り人よ。私の与えられた記憶には、貴方や貴方の森について何も刻まれておらぬ)ヨナスが言った。するとアルジアも彼と同じ調子で答えた。

(私は貴方を知っている……古き森の人よ)アルジアはそこで言葉を区切ると、憎しみと親しみの入り混じったような眼差しでヨナスの事を見詰めた。


(貴方は私をこの地へ誘い、育て、そして孤独を残して私の前から去った……)アルジアは緩やかに瞼を狭め、そして大きく見開いた。彼女が今口にした通りの記憶を淡い緑の閃きにのせ、ヨナスの眼差し奥深くに向けて叩き付けた。




 樹冠の切れ目から月灯りが漏れ出ていた。大樹を取り巻く暗い水面の上を精霊達が無数の燐光となってふわりふわりと漂い、風が横切るとその燐光達は樹冠の陰りから静かに追い立てられた。そして月明りに浮かぶ小島の下草をさらさらと撫でながら向こう側へと去ってゆく。

 その島の片隅には一本の古い木杭が立てられており、それを前にしてアルジアが無言のまま立ち尽くしていた。


 アルジアは足元の木杭に空ろな眼差しを捧げながら深くため息をついた。瞼を閉じると暗い闇の中で彼女のなかの古い記憶が次々と像を結び、まるで昨日の事のように鮮明に蘇ってくる。そしてその最も古い記憶の幾つかは大層気の滅入るものばかりであった。


 まだ幼かったアルジアは旅暮らしの果て、行き倒れになった父と母の亡骸を前に泣く事も声を発する事も忘れてうずくまっていた。やがて黒髪の少女は見ず知らずの大人に連れられ、片田舎の農場の子として売られる事になった。


 そこで彼女に与えられた物といえば粗末な衣服と食事と養い親からの叱責の声で、見返りとして幼い子供には過酷過ぎるくらいの労働が求められた。


 やがて農奴のような暮らしを何年も続ける内、アルジアは次第に人との交わりを厭うようになり、その事が農場での彼女の立場を余計に悪くした。養い親は少女が十を幾つか過ぎた頃、村を訪れた奴隷商の男に彼女を売り渡すと持ちかけたのだ。その事実はすぐにアルジアの知るところとなった。


 いつものように家畜の世話をしていたアルジアの元に見知らぬ男達がやって来た。男達は訳も話さず彼女の事を引き立てようとした。


 アルジアはその時の事を今でもはっきりと覚えていた。見知らぬ男達の粗暴なふるまいに少女は抗い、その場にいた何人かに手ひどい傷を負わせた。そしてそれ以上に痛めつけられた彼女は、腕を後ろ手にとられて、まるで家畜かなにかのように首を革紐で絞り上げられた。


 男達がそれでもなお抗おうとする彼女を引きずって表通りまで連れ出すと、一人の旅装束の男が歩み寄ってきた。


 旅装束の男は、彼を胡乱な目つきで見る人買いや少女の養い親の目の前に小さな皮袋を差し出した。袋の紐口をとくと中には赤水晶が詰まっていた。人買いは無言で袋を受け取ると、旅装束の男がアルジアの身柄を解き放ってくれた。


 その男はアルジアを伴い、暫く方々をさすらった後、霧深い山奥にある谷間に分け入り、痩せた木々の間に沸く不思議な泉を見出した。その谷こそニアブの谷であり、男は彼女の知るヨナスであった。


 二アブの谷で暮らし始めた二人はその土地に新たな種を蒔き、泉の持つ恵みを芽吹いたばかりの木々に導いた。ヨナスの植えた木々は見る間に育ち、或いはそう思わせる程に時が流れていった。


 アルジアはヨナスとの暮らしの中で、彼から今の世の中が忘れ去ってしまった物事について多くを学んだ。その日常は彼女の知る初めての素晴らしい体験であった。


 そして気が付くと彼女は常人のようには年をとらなくなっていた。森が育つ様を唯一の楽しみとなし、ヨナスとそしてアルジアは何年もの間、二人だけでこの土地で暮らし続けたが、その日々は彼女にとって決して孤独なものではなかった。


 本当の孤独がアルジアの元に訪れたのはそれよりもう少し先のことであった。二アブの木々がようやく森らしくなり始めた頃、ヨナスが突然彼女の前から姿を消したのだ。

 いつまでも続くものと信じていた穏やかな日々が永遠ではない事を彼女は知り、そして愕然とした。


 だが彼女はヨナスを探そうとはしなかった。なぜならヨナスは彼女の知らぬ間に姿を眩ました訳では無く、彼女の目の前で言葉通り消えてしまったのだから……今にして思い返せばヨナスと共に暮らしていた頃のアルジアは、歳を取らぬはずのヨナスの中の何かが次第に薄れ、儚く消えつつあるのをどこかで感じていた。


 そしてそれがいずれ訪れるだろう別れの気配だと察していたのだが、当時の彼女にとってそれはいつでもまだずっと先の話であり、泉の畔には明日もヨナスの佇む姿があると毎日信じ込んでいた。




(アルジア)背後からヨナスの声がした。アルジアは軽く首を横向かせただけで、彼の方へ振り向こうとはしなかった。

(セサルを連れてゆくがいい……そして貴方はまた私に孤独を差し出すのだ)アルジアの声からは一切の感情が廃されていた。


 彼女はヨナスが何を求めてこの地を訪れたのかを既に知っていた。アルジアは目の前のヨナスが知らぬと言う、二アブのヨナスと暮らした日々の記憶をその瞳を介してこの男に見せ付けた。そして彼女もまた、目の前に立つヨナスの内に閃く彼の記憶を読み取ったのだ。


 ヨナスの記憶には酷く綻びがあり、その全てが読み取れた訳ではなかったが、彼は新たな森の礎と、それを見守る者を求めてやってきたのである。

 そして彼女の知る二人のヨナスの何れもが、彼女の未だ知らぬ北の古森のヨナスの生み出した分霊達のひとりに過ぎぬ事、それら分霊のヨナス達は与えられた目的を遂げて、あるいはその志半ばに倒れていずれ消えゆく運命にある事を知らされた。


 だがその事実を知ったところでアルジアには目の前のヨナスが恨めしくてたまらなかった。それほどまでにこの男はアルジアの知るヨナスとすべてが似すぎていた。


(貴方が私を残して気の遠くなる月日が流れ……私はようやくあの子に巡り合えた。この森を、私の記憶をいずれ引き継ぐ者に私はけっして孤独を差し出さぬ心算でいたが、この想いがまさか貴方によって潰える日が来ようとは……何とも皮肉な話ではないか)アルジアは視線を前に向けなおした。


 鬱蒼と茂る下草の中に木杭が半ば埋もれるように地面に突き立てられていた。そこには誰の名も刻まれてはおらず、またこの木杭の下に眠る者など本当は誰も居らぬのだ。これはいわばアルジアの心の内に建てられた墓標なのである。


 森の行く末を彼女に託し、多くを語らぬまま彼女の目の前から霧の如くに消え去った過去の男との想い出であり、その想い出を断ち切らんと自ら打ち込んだ決別の楔であった。


 アルジアは今、彼女の背後に立っている者の為に立てた墓標を可笑しそうに見詰めた。彼女は少しの沈黙の後、ヨナスの方へ向き直ると静かに歩み寄った。そしてヨナスの胸元に額を添えるようにそっと触れさせた。


 この何百年かの月日が全て夢であったかのように思えてくる。束の間、二人は月明かりの下で寄り添い立ち尽くしていたが、アルジアは名残惜しそうに身体を引き離すと、ヨナスの顔を見上げた。


(セサルにはすでに言い含めてある。必要なだけの種を集めたなら、早々にこの森を発たれるが宜しかろう……)アルジアは毅然とした態度で告げると、その新緑の瞳にささやかな情念を潜ませ、そして微笑んで見せた。

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