第34話 ニアブの森の魔女(三)

 三人は森の入り口でひとまず休息を取ることにした。セラナは川の水を一口すすると、近くにあった平らな岩の上に這いつくばるように寝転がった。テオとヨナスも少女のすぐ傍の岩に腰をすえ、思い思いに身体を休めた。


 テオはここがニアブの森だとヨナスに告げると、これからどうするのか彼に尋ねた。ヨナスは以前テオから聞かされたこの森の魔女と呼ばれる女に会わねばならぬと言い、どこへ行けば彼女に会えるかと尋ねた。

 少年は首を横に振ると森の民の暮らす場所は誰も知らぬと答え、森の奥へ向かえば相手の方から見つけてくれるだろうと言った。


  テオの話では、この森には魔女の他にも人が住んでいるのだと言う。魔女は外部の人間が森に立ち入ることを嫌い、この土地にすまう子供達は決して森の奥に立ち入らぬよう教えられてきたが、その一方でこの森には魔女の庇護のもとで暮らす者達の集落があるのだ。


「ひょっとしたら今も僕達の事を見張っているかも知れない」そう言いながらテオは木々の間に視線を漂わせた。




 幼い頃の彼は同年代の子等とよくこの森へ入り込んで遊んでいたのだ。もちろん親達の知るところとなれば酷く叱られるのは目に見えていたが、この辺りの沢に暮らす子供達には皆似たような経験があった。


 なぜならば森には夏や秋になると何かしら果実や木の実がなり、暗い森の茂りは子供達の想像力に掛かれば心おどる御伽話の花舞台へと早代わりするからだ。


 それでも子供達は決して森の奥まで立ち入ろうとはしなかったが、時折遊びに夢中になって帰り道が分らなくなると、何処からともなく森の民人が現れて迷い込んだ子供を森の外れまで送り届けてくれたものであった。


 実際、テオ自身も彼らに一度会った事があった。霧のひどい日のことで、一緒に遊びに来た友とはぐれ、森で迷子になったのだ。まだ幼かったテオは一人泣きそうになりながら、何とか水の流れを探し当てると、その流れを辿って森を出ようと歩いていた。


 日暮れ時、小川を反対側へ渡ろうとしたテオは足を踏み外して水の流れに引き込まれた。流量はたいしたものではなかったが、水の身を切るような冷たさにまだ幼かった彼の身体は自由を奪われ、意識を失くした。


 そして気が付いた時には彼は森の外れで焚火の傍に横たえられていた。助けてくれたのは若い森の民人で、その若者は夜明けと共にテオを彼の住まう沢の近くまで送り届けてくれた。




 休息を終え、テオ達はいよいよ二アブの森の中へと足を踏み入れた。奥へ進むにつれて樹冠は厚みを増し、濃い霧が辺りを漂い始めた。どちらを向いても同じような景色ばかりで自分達が今どの方角を向いているのかも定かではなかった。


 結局その日は森に少し入り込んだ辺りの小さな流れの畔で夜営する事にし、まだ陽のある内に手分けして焚火の為の落葉や枯れ枝を集める事にした。


 森の中という事もあって薪や粗朶になるものはそこら中に落ちていたが、落葉も枯れ枝も平地の枯れ林のそれより遥かに湿気を多く含んでいた。焚火に勢いが付いたのは太陽の沈んだ随分あとであった。


 取り囲む木立の幹を焚火の炎が照らし出した。その炎がかえって周囲の闇を色濃く浮きたたせる。川のせせらぎと薪の爆ぜる音の他には、夜鳴き鳥の鳴き交わす声が時折聞こえてくるばかりで風音一つしない静かな夜であった。


 テオとセラナはジナが持たせてくれた丸芋を木の枝に刺して焚火の炎にかざし、ヨナスは水を幾らか口にしたきり相変らず食事を摂ろうとはしなかった。


「ねぇ……」セラナが溜め息まじりに口を開いた。

「私達、こんな場所まで来てしまったけれど、これからどうするの?」セラナはテオに向かって尋ねた。


 彼女はヨナスの話す古い言葉を理解できず、テオとヨナスの間でなされた古森に関する話を知らない。だからテオが何故この森へ向かおうと言い出したのか、未だに理解していない。


 その事を今更ながらに気付いたテオは、ヨナスから聞いた話や彼の見た記憶の断片像について少女に話してきかせた。セラナもぼんやりと頷きながらテオの言葉に耳を傾けていたが、彼が話し終えると先ほどと同じ質問をまた繰り返した。


 セラナはテオがこの谷を目指そうと言いだした時、少年の意見に素直に従った。彼女はネビア南方の低地の生まれで、山での暮らしなど想像も出来なかったが、何も言わず彼について行こうと心に決めたのだ。


 彼女自身他に行く当てなど無く、またテオを騒動に巻き込んだという負い目が彼女から自分の意見を奪ったのである。


 だが、いざ目指す土地へ辿り着いてみるとそこには木と岩があるばかりで、これから先この土地で暮らしていく心算なのかと急に心配になってきた。あるいはまた別の土地を目指すにしてもアランやホルンベルが用意してくれた路銀はそう多く残されてはいないのだ。


「ごめん」テオは詫びた。アラナンドの街を出てからというもの、少年の頭にはヨナスをこの森へ導く事しかなかった。有り体に言ってしまえば、寄る辺の無い不安を別の目的に置き換える事で現実から目を背けていたのかもしれない。


 たとえヨナスをこの地へ案内したとして、その事が彼とセラナの立場を良くする道理など何処にもありはしない。


 現に彼は再会を果たした家族の下へ留まる事を善しとせず、行く当てのないの旅はまだこの先も続くのである。テオとセラナは急に無口になると、しばらく薪木の爆ぜる音だけが闇の中に木霊していた。


「私の方こそごめんね」セラナが先に口を開いた。彼女は娼館の一室での出来事を思い返していた。

 扉越しに話した、やつれた顔をしたあの青年はその後どうなったのだろうか……あの時、そこで何をしているのかと青年が尋ねた時、セラナはただファビオやロッタにまた会えるかも知れないと思って会いにいっただけなのだ。


 会ってそれから如何するかなどは考えておらず、ましてや子供達を助けようなどと彼女には思いもよらぬ事であった。彼女は自分が奴隷商の元から無事逃げ出せた事がいかに幸運であったかを理解していたし、半生半死でさまよっていたところを保護され、宵星の塚で迎え入れられた事にも感謝していた。


 あの時、自分さえ愚かな真似をしなければ少なくともテオの人生まで狂わせる事は無かっただろう。




 頭上からわずかに差し込んだ光にテオは目を覚ました。焚火はとうに燃え尽きて熾火すら残らず灰の山となっていた。


 森の中は相変らず薄暗かったが、樹冠の上ではすでに太陽が昇り、霧も幾分晴れていた。すぐ傍ではセラナが背中合わせになって体を横たえ、外套の上からさらに毛布をまとって寝息を立てていた。だが近くの木の根元で休んでいたはずのヨナスの姿がどこにも見当たらなかった。


 テオは起き上がると自分の毛布をセラナの上に掛けてやり、それからヨナスを探しに出掛ける事にした。


 テオは小川の水で顔を濯ぎ、ついでに喉も潤すと当てもなく歩き始めた。焚火のあった場所を見失わぬよう気を配りながら、小川を上流側へ辿って行くとヨナスはすぐに見つかった。


 そこには他に二人の森の民人の姿があり、ヨナスは彼等に向かって何やら話しかけようとしていたが、どうやら相手に言葉が通じていないようだ。


「ヨナス」テオは彼の名を呼ぶと三人の話している場所へ近づいた。

 テオはヨナスにかわって彼が森の主と会いたがっていると森の民人達に伝えた。民人達は二人で話し合ったあと、テオにこの場で待つよう伝えて森の奥へと立ち去ってしまった。


 しばらく待っていると、先ほどの一人が別の若い男を連れて戻ってきた。若者はテオより四つか五つ年上に見えるくらいで、体つきは随分と華奢であった。


 その面立ちにはまだあどけなさが残されていたが、しかしその穏やかな眼差しには深い知性と思慮深さが垣間見えた。若者は仲間を森の奥へ反すと、ゆったりとした足取りでテオ達の方へ近づいてきた。


 テオは若者の顔を間近で確認し、そして驚きに目を大きく見開かせた。なぜならその顔には見覚えがあったからだ。


 テオがまだ幼かった頃、森で道に迷った彼を送り届けてくれた若者にそっくりであった。相手の方はテオの事など覚えていない素振りであったが、それも無理は無く、あの頃のテオは今より遥かに背が低く幼かった。


 だが、目の前に居る若者はあの頃の記憶と比べて体つきや顔立ち、そして身にまとう雰囲気の一切が変わりないように思えた。若者は不思議そうに見つめるテオには一瞥をくれたきりで、無言のまま少年の傍を通り過ぎるとヨナスの真向かいに立った。


(セサルといいます。何用あってこの森に参られた?)若者は古い言葉で語りかけてきた。

(私はヨナス。北の古き森より来た。精霊達の集うその森の要にして命の根源に根ざした大樹はじき天寿を全うせんとしている……)ヨナスは深い緑色の眼差しで若者を見据えた。そしてセサルもその視線を真っ向から迎え入れ、静かに見詰め返した。二人は暫しの間、一言も言葉を発せずにいた。テオにはまるで二人が互いの瞳を通して会話をしているように感じられた。


(ついて来て下さい)セサルは静かに告げると踵を返した。ヨナスも黙ったまま彼に続く。テオは慌てて焚火の場所へ戻ると、セラナを連れて二人の後を追った。




 セサルとヨナスはテオ達が追い付いてくるのを待っていてくれた。そこから先に進むに連れて霧が出始め、進むほどに霧深くなるばかりだ。その中をセサルは迷う事なく歩き続け、じき森の民の集落へと辿り着いた。


 集落は森の奥深くの水源の只中にあり、四人の足元はいつの間にかごく浅い穏やかな水の流れに取り囲まれていた。


 周囲を見渡すと水底の至る所で細かな砂粒と共に水が湧き出しており、遠くの方に高床の大きな蔵が幾つか見受けられた。まさに幻想的な景色だ。だがさらにテオ達を驚かせたのは、ここに住まう人々の家がテオ達の頭上高く、つまり木の中程に立てられていた事だろう。


 樹上の小屋はその殆どが少人数で暮らせる程度の大きさで、建物の周りに設けられた木製の足場を無数の吊り橋が繋いでいた。ニアブの民は樹上に築かれた村に暮らしていたのだ。


(私の後ろから離れないでください)セサルはそう言って屈み込むと、足元に転がっていた拳大の石を一つ拾い上げた。そしてそれを少し離れた水面の中――ちょうど湧き水の気泡がでている辺り――へと投げ入れる。途端に水面は幾つもの波紋でかき乱され、水面下で砂が混ぜ返された。


 水深からすると石は六割ほど水没して止まるかに見えたが、石が水底に着いた後もゆっくりとした速さで沈み続け、やがて完全に砂の中へと埋没して見えなくなってしまった。


 セサルは静かに立ち上がるとそれ以上は何も語らず、水原の先へと足を踏み出した。ヨナスが彼の後に続き、先ほどの光景に肝を冷やした様子のセラナがヨナスの背を拝むように歩きだした。


 テオはしばらく石の消えた辺りを興味深そうに眺めていたが、セラナの呼ぶ声に振り返ると急ぎ足で皆の後を追った。

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