第33話 ニアブの森の魔女(二)

 テオはマートンと分かれた後、セラナ達を伴ってレンガ小屋の奥の道を沢へと抜けた。沢といってもこの時期、水は殆ど流れていなかったが、斜面の上から吹き降ろす風は冷ややかな湿気を含んでいた。


 地面を足先で浅く掘り返してみると、少し遅れて水が染み出てくる。水はすぐに混ぜ返されて土の粒と交わり、琥珀色の浅溜りへと変じた。


 さらに進むと大小さまざまな石が足元に散乱し始め、セラナが時折足を取られて小さな悲鳴を上げた。二十日足らずの徒歩の旅で子供達の足腰は随分と鍛えられていたはずであるが、斜面を登るのと平地を行くのとでは勝手が違うのである。


「どれくらい登るの?」セラナが不満の声を上げた。斜面は登るほど急勾配となり、ただ歩いているだけでもひどく体力を消耗してしまう。


 テオとヨナスの間でのやり取りを知らぬセラナはここで初めて疑念を持った。なぜ道一つ無いこのような場所を登らねば成らぬのか、自分達がどこを目指しているのか。セラナは何も知らずに彼等の後をついてきたのだ。


「あともう少し……」テオは何度目かの気のない返事を少女に反すと、ひとり先へ先へと登っていった。それに追いつこうとセラナは歩みを速め、浮石に足元をすくわれて尻餅をついた。


 悪態をつく彼女のすぐ後ろからヨナスが涼しげな顔をして登ってくる。だがヨナスは少女を決して追い抜こうとはせず、ふてくされて座り込んだ彼女の傍に立つと、黙ったまま彼女が立ち上がるのを辛抱強く待っていた。


 結局、テオの言った「あと暫く」は二日と少しであった。山合を縫うように何度も登り下りを繰り返しながら、途中から沢を外れて谷間をのぞむ峠に出た。晴れ渡った空を見上げると強い日差しが真上から降り注いでいた。


 三人は暫らくその場で休憩を取る事にし、高みから見る景色を堪能した。セラナは山登りで火照った身体を冷やそうと羽織っていた外套を脱いだが、峠を吹きすぎる風は思ったより冷たく思わず身震いした。


「行こう」テオが言った。斜面を大きく迂回しながら、今度は傾斜の緩い場所を下って谷底を目指した。半刻ほどかけて下までたどり着くと、針葉樹の林の中を小川が通り抜けている場所にでた。


 川幅は大したものではなかったが水量は十分にあった。テオは皆より一足先に川縁へ辿り着くと、荷物を降ろして顔ごと頭の半分を流水の中に突っ込んだ。


 遅れてやって来たセラナも少年に続こうと荷を放り出した。テオに習って勢いよく流水に手を差し入れてみたが、そのあまりの冷たさに思わず水辺から飛びのいた。


 二人から少し離れた川縁では、ヨナスが屈みこんで両の掌を椀代わりにして流れから水を救い上げ、口元へそっと運ぶとうまそうに喉を鳴らした。


 三人は再び荷物を担いで、下流側に見える小さな橋を目指した。そこから川の対岸へ渡り、谷底の道を今度は小川沿いに上流へ向けて歩き始めた。


 暫くすると木立の向こう側に木造の家屋が見えた。大きな母屋を取り囲むように大小の小屋が幾つか密集しており、その周りの緩やかな斜面に細かく区分された畑がひろがっていた。


 テオはこの沢筋には他に二つの家族が所帯を構えていると言った。その言葉通り、川の対岸とその少し上流にも同じような建物の寄せ集めが見えた。


 テオは足並みを早めると一番上に建つ家までセラナ達を案内した。ちょうど丈の低い垣根の切れ目から畑仕事に勤しむ女性の姿が見えた。その途端、テオは両手を振って相手の注意を引こうとした。


 相手は若い娘で、野良仕事の手を止めて立ち上がると、始めは不審者でも見るようにテオの事を見ていたが、やがて収穫したばかりの野菜をその場に放りだすと、腕を大きく一度振って見せ、踵を返すと母屋の中へ駆け込んで行った。


 テオ達は橋を渡って畑の傍までやって来た。すると先ほどの娘が年配の女性を伴って母屋から出てくるところであった。二人の女性は垣根の傍で立ち止まり、来客が坂を登ってくるのを静かに待っていた。


「姉さん、母さん、ただいま」テオが言った。母親は末の息子を袂に迎え入れた。思いがけない再開に、何年ぶりかの抱擁はいつまでも続いた。


 母親は目の前の小さな頭に手を這わせ、そのまま髪に指を差し入れてくしゃくしゃと撫でまわした。彼女は何年も前に別れて以来、もう二度と息子に会えぬものと諦めていた。


 それは山奥の集落では決して珍しい事ではなかったが、彼女は一度手放した我が子の成長した姿に言葉をなくしていた。


「あの人達は?」若い娘が尋ねた。テオの姉で、三女のミケアである。ミケアはマイラより幾らか若いくらいの娘で、テオから少し離れて立つセラナ達の事を見ていた。


「ヨナスとセラナだよ。一緒に旅をしているんだ」テオは二人の連れ合いを母と姉に紹介すると、旅のついでに立ち寄ったのだと告げた。




 その日はテオの生家で一泊する事となった。家には母親と三女の他に、三男のラハトと四女のジナ、末娘のミシアが暮らしていた。父親と長男は狩猟仲間達と近隣の山を巡っている最中でしばらく戻らず、同じく猟師である次男は昨年嫁を娶って別の沢に新しく居を構えたのだそうだ。


「そうそう、ジナもじき嫁入りなのよ」母親のリズが嬉しそうに話した。彼女は夕飯の支度をしている最中であった。その隣で母親の手伝いをしていたのが四女のジナで、ジナは自分の話題になると恥じらうようにもじもじしながら、慣れた手つきで長豆の下ごしらえをこなしていた。


 リズはジナにあれこれと指図しながら、三女にも手伝うよう声をかけた。

「私、この子達に湯浴みさせて来る」ミケアは泥塗れの野良着をその場に脱ぎ捨て、肌着姿のまま外へ出て行こうとする。母の口から妹の嫁入り話がでた時から逃げ口上を探していたのだ。


 ミケアは傍にいたセラナにも一緒に来るよう促し、幼いミシアの手を取ると、背後で小言を言い始めた母親の事などお構いなしにそそくさと小屋を出て行ってしまった。


「まったく……隣でラハトが湯を沸かしているから貴方達も食事の前に体を拭っておいでなさいな」リズはそう言うと、テオとヨナスに今夜は空いている小屋を好きに使って構わないと付け加えた。


 テオ達が旅の汚れを落として戻ってくると、夕食の用意が出来ていた。豆や珠菜のシチューに山羊のチーズが並び、細々と携帯食で食いつないできたテオやセラナにとってはこれ以上ない贅沢であった。


 食事を終えてしばらく会話を愉しんだあと、テオとヨナスは隣の小屋で休む事にした。セラナもミケア達の誘いを断るとすぐにテオの後を追ってきた。


 この小屋は昔テオの歳の離れた兄姉が使っていたところで、二段組の寝台二つに長机と暖炉が在るだけの小さな平屋建てであった。三人はそれぞれ空いた寝台の上に陣取ると、明日は日の出前にここを発つ事に決め、早々に布団の中にもぐりこんだ。


「ねぇ、テオ。もう少しのんびりしても良いんじゃないかしら」セラナが寝台の上段から顔を覗かせた。テオは声のする方へ視線を向けてみたが暗闇のせいで姿ははっきりと見えなかった。


 少ししてセラナは、ひとりここへ残っても構わないのだとテオに意見しようとしたが、テオは彼女の意見を遮るようにここへ留まる意思が無い事を告げた。少年のその言葉は静かなものであったが決意に満ちたものであった。セラナはそうかと言葉を返すと、寝台の縁から覗かせていた顔を引っ込めた。


 テオも何年ぶりかで母親の顔を目にして、またここで暮らしたいと思わない訳ではなかった。だが山での暮らしはいつでも不安定なもので、自然は豊かであっても、それだけで人は暮らしていけないのだ。


 現に彼が家を降りた年などは近隣の山で猟の不振が続き、近くに暮らす知り合いの家族の幾つかが山を降りた。年中ふきさらしの冷たい風のおかげで育つ作物は限られ、雪深い年など一年の半分近くが雪に閉ざされる事もあるのだ。


 テオがもしここへ残りたいと願えば、あるいは母親も彼の事を受け入れてくれるかも知れなかったが、一度自分で決めて家を出た彼にこの家にのこるという選択肢はなかった。




 翌朝早く、テオは母親に別れを告げた。三女のミケアも少年を見送る為に小屋表まで出てきてくれた。テオは自分達がこれからニアブの森へ向かうことは家族に伏せたまま、他の兄弟達に宜しく伝えてくれと頼んだ。


 それから三人は再び川沿いの道を流れに沿って下り始めた。山の端はいくらか明るみはじめていたが、太陽の光はまだ山の向こう側で、深い谷底にたまった夜気が外套の上から容赦なく体温を奪い去ってゆく。

 東の稜線から太陽が顔を覗かせる頃になって寒さは幾分和らいだが、平地暮らしに慣れたテオやセラナにとってこの先の道中は酷く辛いものに成りそうな予感がした。


 川沿いに道を下ると谷間がひらけ始め、じき小川が別の大きな沢へと合流するあたりに出た。


 合流地点に掛けられた吊り橋を渡って大きな沢の対岸に渡ると、そこからまた上流を目指して歩き始めた。道らしい道はすでに途絶え、あとは大きな岩塊の間を縫うように坂を登り続けなければ成らなかった。


 昼近く、三人は崖の下にたどり着いた。上から流れ落ちる水が幾条もの筋に別れて階段状にせり出した岩肌を縫うように流れ伝っていた。


 その流れは時に岩に阻まれて爆ぜ、吹き降ろす風にあおられ無数の飛沫となって風に運ばれてゆく。


 テオは一旦歩みを止め、清涼な空気を胸一杯に吸い込んだ。朝から歩き通しで身体の芯は火照っていたが、露出した頬や腕には鳥肌が立ち、息を吸い込んだ鼻腔の奥が刺すように痛む。


「貴方の言う森って、まだなの?」セラナは肩で息をしながら少年の背を見た。テオはその問いには答えず、足場の悪い岩の間をさらに上へと登り始めた。


 おちてくる水の流れを避け、岩と岩の間にはまりこんだ小石を足がかりに一歩ずつ崖の上を目指す。仕方なしにセラナも彼の後を追うことにし、最後尾にヨナスが続いた。


 三人がなんとか崖を登りきると、その先には谷地形に挟まれるように広大な森がひろがっていた。


「ここがニアブの森だ」テオが言った。それは昔語りに出てくるような陰鬱とした森であった。

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