ニアブの森の魔女

第32話 ニアブの森の魔女(一)

 明け方、まだ太陽も昇りきらぬ内にテオ達は廃集落の小屋を発つことにした。


 アランとはその場で別れ、彼の残した地図を頼りに野分け道を川と反対側へ向かう。歩き始めてほどなくすると下草に埋もれた道から別のもう少しましな道にでたが、アランの言っていた旧道に出るにはまだ随分と南へ下る必要があった。


 時折横道にそれて後をつけてくる者がないか様子を窺ってみたが、追手はおろかこの道を通る人影自体が皆無であった。


 昼を過ぎても単調な景色が続くばかりで、道の両側には痩せたか枯れたかした木々が立ち並んでいた。道中の所々に打ち捨てられた家屋があり、日が暮れる少し前になって最後に見かけた廃屋まで戻ると、そこで夜を明かすことにした。


 二日目も同じ様な行程が続き、その日の暮れ近くになってようやく枯れ林から抜け出した。周囲の景色はそこで一変し、丈の低い草しか生えぬ平地がどこまでも続いていた。


 遠くに見える山並みは何処か現実離れしたような淡い色彩に染まりながら夕空の向こう側に溶け込もうとしていた。


「綺麗な空ね」セラナが呟いた。すぐ後からテオとヨナスもやってくると、三人は夕映えの空と平原の景色を眺めながら暫く林の端で佇んでいた。


 テオはこの景色に見覚えがあった。何年も前、老いた行商に連れられて平原の寂れた道を何日も歩き続けた時の事の記憶だ。

 あの時は遠くに見える山がもっと間近に感じられたと記憶していたが、少なくともその時と同じ平原の片隅に自分は今立っている。そしてこの景色の向こう側にある道は彼を再び故郷の山へと導いてくれるのだ。


 無論、生まれ故郷の我が家に辿り着いたとして、テオを再び迎え入れるだけの余裕が彼の家族にあるとは思えなかったが、それでも、たとえ一時であっても再開出来た事を彼の兄弟姉妹達はきっと喜んでくれるに違いなかった。




 その日は林の中で野宿をし、また翌朝早くに出立することになった。セラナ達よりも先に目を覚ましたテオは自分の荷をまとめると平原の彼方を眺めていた。

 少年は手にした地図と遠くの地形とを見比べながら、何やら考え込んでいる様子であった。遅れて目を覚ましたセラナがどうしたのかと尋ねながら近づいて来た。


 テオは手にした地図を少女に見せた。山の地形と日の出、夕暮れの位置から考えると、林を抜ける小道はアランの描いてくれた地図よりかなり東へそれていたようだ。


 地図通りであれば彼等は枯れ林をほぼ真南へ向けて真っ直ぐ抜け出たはずだ。しかし実際の道は林の中を東へ東へと少しずつ進路を変え、彼等はそれに気づかず歩いて来たに違いない。


 テオ達は平原の彼方にある旧街道を西に向かわねばならないのだが、このまま今の道を進んだとして旧街道に辿り着く頃には目の前の原野を大きく東に迂回する事になる。そこでテオとセラナは二人で話し合うと、道からそれて平原を南へ横断する事にした。


 だが道をそれて半日ほど進んだところで、テオとセラナは自分たちの判断が誤りであった事に気づかされた。道の無い原野は思った以上に起伏に富んでおり、大きな段差や石くれが至る所で進路をふさぎ、その度にまわり道を余儀なくされた。


 結局、旧道に出るまでに彼等は二度野宿をする羽目になり、三日目にしてようやく大きな道に出た。テオもセラナも旧街道に出ると己の荷物を道端に下ろしたきり、その場にへたり込んでしまった。


「とりあえず……道はあっているのよね?」セラナが喘ぎ声で尋ねた。テオは頷きながら道の両側へと視線を走らせた。林の中の野分け道とは比べるべくも無かったが街道筋のならされた道ほど手入れのなされていない、まさに旧道であった。


  テオは立ち上がると、まばらな人通りの中から行商風の親子連れに目を止め、呼び止めた。彼は手持ちの地図をその親子に見せ、今居る場所がどの辺りか尋ねた。

 親子ずれの父親の方が地図を手に取ると、少し眺めてから地図上の一点を指差した。アランが小さな印をつけていた場所の近くで、道なりに東へ少し戻った辺りに小さな集落があるのだと言う。


 テオは親子連れに礼を述べるとセラナ達の休む場所まで戻ってきた。そして今仕入てきたばかりの情報を伝えると、今日のところはその集落で休める場所を探す事に決まった。




 集落の外れにつくと、テオが手近な民家と交渉して納屋の片隅を一晩借りる事が出来た。テオはセラナに荷物を預けると、自分は食料などを買い足しに一人でまた通りへ出た。

 それから雑貨商の主に地図を見せ、この先の道中に要り様な知識を幾らか仕入れておいた。


 来た道を戻る途中、テオは足をとめると通りの往来をぼんやりと眺めた。以前にもこの場所を通り抜けたのだという実感があまり湧いてこなかった。


 あの頃の記憶では、往来を行き交う人々で道はもう少し賑わっていたはずだ。あるいは山の暮らししか知らなかった少年の目にはもっと活気あふれる集落に映っただけなのかもしれない。


 本当にこの道で合っているのだろうか。どこかで辿る道を違えたかもしれない、そんな思いが少年の脳裏をよぎり始めた。一度気にかかると、このままセラナ達を訳の分らぬ場所へ案内してしまうのではないかと急に不安になってくる。


 だが彼等には他に行くあてなどないのだ。幼い頃の記憶など存外宛てにならぬものかもしれぬが、あてがないなら考えても詮無いものと少年は迷いを打ち払うとセラナ達のいる納屋へ急いだ。


 納屋に入るとヨナスがひとりで待っていた。彼は外套の頭巾を目深に下ろし、うつむいたまま壁際に胡坐をかいていた。セラナはどこかと尋ねても彼は何も答えようとしなかった。その姿は妙に弱々しく見えた。


 不審に思ったテオはヨナスの傍にひざまずくと彼の頭巾を取り去った。そこからのぞく顔は確かにヨナスのものであったが、その頬や首筋にはいつもより色濃い影の揺らめきがまとわり付いていた。


 テオが心配そうな顔で見ていると、ヨナスが穏やかな笑みを見せた。痩せてやつれた顔の中で、瞳だけが強い輝きを讃えていた。


(テオの故郷を見る事は叶わぬかもしれぬな)淡々とした口調でヨナスが言った。

(死んでしまうの?)テオは恐る恐る尋ねた。少年は薄々感づいていたのだ。目の前の男が影を発散する度、その肌から生気が失われて行く事を。


 テオが初めてヨナスを見たとき、彼は床に臥せて影の揺らめきを立ちのぼらせながら死の気配をまとっていた。

 かつて彼は影を何某かの記憶の断片であると言い、自らを形作るものだと言った。その言葉通りに受け止めれば影とはヨナスの魂であり、その離散は彼の存在が消えさる事を意味するに違いなかった。


 ホルンベルの書置きに従って香と薬水で影のゆらめきを沈めると、ヨナスの吐息から感じられた死の気配は一時遠のいたかに思われた。だがジベールとの一件以来、再び死の気配が彼を捉え、魂の断片はその身体から乖離しようと暴れているように見えた。


(僕達を助けてくれたから?)テオは消え入りそうな声で尋ねた。ヨナスは口元に微かな笑みを浮かべ、そうでは無いと告げた。


(私の生きる時はとうに過ぎていたのだ、テオよ。私は古森を生かす為だけに一時の生を与えられたに過ぎない。あれから何年もの間荒野をさまよい続け、しかしついぞ求める土地にまみえる事は叶わなかった。私はそれでも旅を続けたが、何故だか分るかな?)ヨナスはテオの目を見た。テオは小さく首を横に振った。


(ただ、生きたかった。私は旅を続ける為に与えられた仮初めの命だ。旅を諦めた時、私の存在する理由はなくなる。そして私は一度、私の存在する理由を自ら手放したのだ……荒野の只中で目的を見失い、狼共の群に追われながらさまよう内に、私は心の内で全てを一度投げ出してしまったのだよ)ヨナスは寂しそうに目元を伏せた。


 テオはヨナスの話す言葉を全て理解できた訳ではなかった。だが彼が生きたいと願った事は理解できた。その事を妙に嬉しく感じると、テオは彼の為にしてやれる事は無いかと考えた。


 ここには調薬の道具も薬種も無く、またホルンベルのように豊かな知識も経験もない。テオは意を決した様子でその場に胡坐を組むと、両の指を組んでヨナスの方へと差し向けた。


 小さく呪い言葉(まじない)を唱えながら、組んだ掌を少しずつ身体の前方へ押し出していく。同じ文言を繰り返す内にテオの額には汗粒と明らかな苦痛の色が浮かび始めた。


 それは初歩的な呪法の一つで沈静香の代わりに成るかも知れなかったが、失印を負わされた今のテオにとっては口ずさむその一言一句が骨身を穿つ程の鋭い痛みを伴うものであった。


 やがてテオの掌に刻まれた失印は醜く腫れ上がり、苦痛がテオの言葉を凌駕し始めたとき、ヨナスの手が少年の腕を捕らえた。


(ありがとう)ヨナスは礼を述べるとテオの組んだ掌を解かせた。彼は己の寿命がすでに尽きんとしている事を少年に改めて告げ、彼が心痛ませるべき事柄では無いと説いた。その肌には未だ色濃い影のわだかまりが見え隠れしていた。


(それでも、貴方は僕達を助けてくれた……)少年は己の非力を恥じ入るように俯いた。




 しばらくするとセラナが戻ってきた。水で満たされた皮袋を二つ抱えこんでいた。彼女は家の主に頼んで井戸を使わせてもらったようで、ついでに水に浸した布で腕や首周りを拭い去り、さっぱりした表情をしていた。


「どうかしたの?」セラナが不思議そうな顔をした。納屋の中ではテオとヨナスが黙り込んだまま、壁に寄りかかって休んでいた。

 彼女が戻ってきたのを知っても少年は黙り込んだまま口を聴こうとはしなかった。代わりにいつもは無口なヨナスが、水を一口貰えまいかとセラナの分る言葉で話しかけてきた。


「少し、疲れたのであろう」ヨナスが言った。セラナはそうなのかと頷くと、ヨナスに水の入った袋をひとつ差し出した。それから三人は早めに夕食を済ませると、明日に備えて早々に休む事にした。




 夜が明け、家の主に礼を述べると旧道を西へと向かった。それまでの道程とは異なり、旅足は順調に伸びた。夜はまた別の集落で一夜の宿を借り、時に野宿もした。


 旧道に出てから七日目を迎える頃には山裾が随分と近くに感じられた。その辺りの山並みにはテオも見覚えがあるらしく、案内をする足取りは当初より軽やかなものに変わっていた。

 そしてさらに四日ほど歩き続けると旧道は山の裾野を掠めるようにして北側へ大きく折れ曲がっていた。


「ここだ」テオが言った。心なしか声がうわずっていた。少年は旧道を外れると山裾へと続く林に足を踏み入れた。セム川の畔で見慣れた枯れ林ほど荒れた感じはしなかったが、豊かな森というには程遠い若い林であった。ここがニアブの森かとセラナが問うと、テオは違うと答えて林の奥を指さした。

「この先の沢を登るんだ」テオは嬉しそうに言った。


 テオが先導して林内を歩いていると、乾ききった落葉を踏みしだく響きの中に微かな変化が混ざり始めた。ヨナスは屈み込んで落葉の下の地面を少し掘り返し、拾い上げた土を指先で軽くすり潰してみた。

 ここの土には微かだが湿り気が含まれていた。指の間から成熟した土の懐かしい香りが立ち上り、鼻腔の奥を心地よく通り抜けてゆく。


 さらに進むと林の開けた場所に煉瓦造りの建物が見えてきた。母屋と納屋の他に、なにやら複数の煙突が飛び出した屋根付きの作業場があった。


 そこは煉瓦職人の工房であった。今はどの煙突からも煙は昇っていなかったが、建物の裏手から人の話し声が聞こえてくる。テオはセラナ達をその場で待たせると、ひとり工房の裏手へ回りこんだ。


「お前……テオか?」ひとめで職人とわかる男達の中から、くせ毛の若者が作業の手を止めて近づいてきた。テオの又従兄弟のマートンだ。彼はテオと一緒に山を降り、麓の煉瓦職人の下働きとして引き取られたのだ。


「お前、ここで何しているんだ?」マートンが嬉しそうに笑いながら近づいてきた。若者はテオが街道筋へ連れられたとしか知らされていなかったが、おおかたどこかの職人の下へ預けられたものと思っていた。


「まさか、仕事が嫌で投げ出したんじゃなかろうな」若者は訝しむような視線をテオに差し向けると、冗談交じりにそう詰め寄った。テオは旧友のその一言に一瞬心臓を鷲掴みにされた。だがなんとか心の内を見透かされまいと笑顔を取り繕った。


「そんなんじゃない。今、旅の途中だ」テオは肩越しに背後を振り返ると、仲間達を待たせているのだと答えた。それ以上細かな事は言えず、己の掌の失印をまるで隠すかのようにきつく握り締めた。

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