第38話 北の荒野をゆく(三)

 テオ達は森の中にいた。アンティオームの古堂を出てから荒野を真っ直ぐ北へと向かったのだが、二日もせぬ内に彼等は奇妙な随伴者の存在に気付いた。その随伴者は一行が丘に登るとその視界から消え、窪地の底を横切るあたりで四方の稜線にふらりと姿を現すのだ。それは砂漠狼の群であった。


 ニアブの森での暮らししか知らぬセサルは勿論、テオやセラナも初めてその姿を目にしたが、狼達が何故彼等の後をついて来るのか、その事を想像するのは容易い事であった。狼達は飢えているのだ。


 街道沿いや南方で見られるものより遥かに体長の大きなものばかりであったが、そのどれもが酷く痩せ細って見えた。

 僅かに土色がかった白の体毛がひび割れた大地の向こうに見え隠れし、時折それらの一匹がテオ達の近くを掠めるように走り抜けてまた引き返すのだが、三日経っても四日経ってもそれ以上間を詰めようとはしてこなかった。


 実はこの狼達はかつてヨナスを執拗につけねらった群であった。古森を出たばかりの頃、ヨナスはしつこく追いすがる狼達に森の闇の記憶を振りまき退けつづけていたのだが、彼が巡礼者に助けられた時には共に連れていたはずのレイヨウと荷の大半を失い、彼自身もまたその身に大きな歪を抱えてしまっていた。


 今回、砂漠狼達が様子見を決め込んでいるのはどうやらヨナスの事を覚えていたからであろうが、たとえ警戒して距離を詰めてこなくとも目の前の四人と一頭を見逃してやる気など毛頭なかった。


 仕方無しにテオ達はヨナスの導きで進路を西にそれると、荒野の只中にある森へと逃げ込んだ。その森は荒野でよく見掛ける枯れ林とは様子の異なる鬱蒼とした、どこか不吉な気配を漂わせる森で、砂漠狼達は森手前で引き返すと、森陰の中まで足を踏み入れようとはしなかった。


 テオ達はその理由にすぐ向かい合う事になった。森に立ち入ってまもなくすると不気味な影達に囲まれたのである。


 影達は木の幹の裏や灌木の合間から仄暗い眼窩を曝け出し、鈍く光る眼差しを差し向けてきた。この森は全体が一つの大きな穢れ場であるらしく、多くの死者の魂――ヨナスに言わせると記憶――がどこへもいけずに影としてさまよい続けていたのである。


 影達は動物の骨や枯れ枝を取り込みながら身体を成し、その至る所から森の闇より暗い影の揺らめきを立ち上らせていた。ヨナスは彼等を猩猩(しょうじょう)と呼んだ。猩猩達は生きた木々から樹皮や枝葉をはぎ取っては貪るように食み、あるいは身体の中に取り込んでいた。


(狂っておるのだ……)ヨナスは僅かに表情を曇らせると、他の者達に不用意に森の奥へ立ち寄らぬよう忠告した。結局この日は森の外れで夜営する事になり、焚火を中心にヨナスとテオで結界をはり、猩猩達が近寄れぬようにしておいた。


「狼達はまだいるわ」セラナの声がした。彼女はセサルと共に森の外の様子を確かめに出ていたのだ。セラナは焚火の傍に座ると大きな溜め息をついた。砂漠狼達は森を遠巻きにしながら相変わらずこちらの様子を窺っている模様で、森の奥には得体の知れぬ妖物が蠢いていた。


「ここがヨナスの言っていた森なの?」セラナがテオに尋ねた。テオは彼女からの質問をそのままヨナスに伝え、ヨナスは静かに首を横に振った。

(この森は、かつては祝福された森であったのだろう。だが今、主は不在で精霊達も去ってしまった後のようだ)ヨナスが言った。


 彼は猩猩が本来生きた森の木々を傷つける事は無いと述べ、この森は緩やかな死を迎える最中にあり、それゆえに猩猩達が狂ってしまったのだと教えた。


 それを聞いてテオが異論を唱えた。少年は、猩猩達は影であると言い、穢れである影はたとえ無垢であっても害をなす存在だと主張した。ヨナスはテオの意見を否定もせず肯定もしなかった。


(人智を超えた何かを人は影と呼び光と呼ぶ。それは何処にでもあるものだ、テオよ)ヨナスは彼自身もまた猩猩達と何ら代わらぬ存在であると教えた。


 彼は深い森の奥で泉に集う精(じん)を集めて生み出されたのだ。北の森の老いたヨナスは自らの血の数滴に己が記憶の断片を託してその精の塊に注ぎ込んだ。地の精は老ヨナスの血と記憶を取り込んで今のヨナスを造ったが、それはこの森をさまよう影達が新たな命を取り込んで仮の生を生きるのと大した違いはないのである。

 それは古く生命に満ちた森では決して珍しい光景ではなく、生命の循環における小さな綻び、あるいはその綻びに生じる雫のようなものだと彼は言った。




 翌朝、一向は焚火の始末を済ませると静かに移動し始めた。砂漠を東に拝みながら森の外れを北上していると、ついに痺れを切らした数頭の砂漠狼が森に踏みこんできた。樹々の間から飛び掛ってくる狼をテオ達は必死で追い払いながらも次第に森の奥へと追いたてられた。

 そして気が付くと狼達の姿は何処かへ消え、代わりに無数の猩猩が彼等を取り囲んでいた。


“ソイツヲヨコセ”

 猩猩達が騒ぎ立てた。それは言葉ではなく直接頭の内に響く波動で、ヨナス達だけでなくセラナにも聞き取れる声であった。


(いかん!)ヨナスはセサルを己の背後へ引き入れた。猩猩達はヨナスのその行動にいよいよ色めき立ち、彼等の不気味で長い腕を茂みの奥や幹の裏側、そして木の上から次々と繰り出してきた。


 ヨナスはテオの名を呼び、子供達にこの場を離れるよう言うと、彼自身はセサルを連れて反対側の茂みへと姿を消した。


 猩猩達はどうやらセサルを欲しているようだ。猩猩の殆どがテオやセラナには見向きもせずにヨナス達の後を追った。テオはセラナを連れ、ヨナスに言われた通り急いでその場を離れた。セラナが後ろを何度も振り返ろうとしたが、テオは半ば強引に彼女の腕を掴むとひたすら走り続けた。


 途中、目の前の茂みに三匹の猩猩が姿を現し、駆けてくるテオ達に腕を伸ばしてきた。その動きは酷く緩やかで緩慢なものに見えたが、大きく長い腕は的確に彼等の進路を塞ぎに掛かった。


 テオは何度も進路を変えながら、セラナを連れて何とか森の外れまで辿り着いた。二人が肩で息をしながら背後を振り返ると、猩猩達は無理に彼等を追おうとはせず、また暗い森の奥へと引き返していった。


 森の外れまで来ると、狼達が森のすぐ近くを徘徊していたが、異変を察したのか、森の中まで入ってこようとはしなかった。


「はやくヨナス達を探さないと……」セラナが押し殺した声で言った。テオも頷くと、二人はまず森の北側を目指す事にした。もしヨナス達が旅を続ける心算ならば森を必ず北へ抜けるに違いないと考えたからだ。


「猩猩達は何故セサルを欲しがるの?」セラナが尋ねた。テオにもその理由はよく分らなかった。だがニアブの森でのヨナスとアルジアの会話を思い返した。

 セサルはアルジアによって見出され、いずれ彼女の後を継ぐべく育てられたニアブの森の守り人となる者であった。それを彼女はヨナスの旅の目的の為に差し出したのだ。


 セサルは一見少年のように見えるが、恐らくテオの知るどの大人達よりも永い年月をあの森で暮らして来たに違い無かった。そして彼は今、北の果ての地に新たな森を拓かんと旅をしている最中であった。

 猩猩達は、あるいはこの森に欠けた存在をセサルの中に見出し、それゆえに彼を欲しているのかも知れなかった。

「急ごう」テオは振り向きもせずに足取りを速めた。




 ヨナスとセサルは鬱蒼とした森の中を駆け抜けていた。行く先々の茂みから暗い影をまとわりつかせた不気味な腕が次々と伸びて来る。


“この者に手出しはならぬ”

 ヨナスは猩猩達の流儀で懸命に語りかけた。セサルをかばいながら茂みから伸びる腕を払いのけ、時に目の前に立ちふさがるものに己の影をぶつけて退かせた。だが猩猩達はこの森の至る所から現れ、同じ言葉を繰り返しながら執拗に腕を繰り出してくるのだ。


“ソイツヲヨコセ、ソイツヲヨコセ”

 何度振り払っても纏わりつこうとする腕にヨナスもついに膝を屈してしまった。力を振るうごとに彼はおのれの身体の自由が奪われていくのを感じた。身体中から影色の揺らめきがまるで猩猩達のように立ち昇り、そして宙へと四散していくのを自分の意思ではもはや抑える事が出来なくなっていた。


 その立ち昇る影とは彼自身を形作る記憶そのものであり、古森のヨナスの与えた血なのだ。その影の最後の一変が消える時、分霊であるヨナスは生まれた森へ帰り着く事無しに存在が消えて無くなってしまうのだろう。それはかつて二アブの森のヨナスがアルジアの前からいなくなった時のように、である。

 ヨナスは、目の前に迫る不吉な腕の数々を振り払う気力も失せた様子で、もはや逃げる素振りも見せずに呆然と宙を見詰めていた。


(ヨナス!)セサルは手近かにあった折れた木の枝を拾うとヨナスの前に踊り出た。伸びてきた最初の二つを振り払い、三つ目の腕に得物を取り上げられると、今度は背嚢を手にしてなりふり構わず振り回した。

 その奮闘空しく腕や足を猩猩達にからめとられると、若者はそれでもまだ空いている方の手足で激しく抵抗して見せた。


 しかし猩猩達はもはや気力の萎えたヨナスには目もくれず、捕縛から逃れようとするセサルを取り込もうと何体もの猩猩達が身体をひしめき合わせていた。その只中からヨナスに逃げるよう促す声が聞こえ来た。


 ヨナスは呆けていた己を叱咤すると、一番近くにいた猩猩の背に腕を伸ばした。もはや己の身体から立ち上る記憶の断片を抑えようなどとは考えずに、身体中からほとばしる影を次々とセサルに群がる猩猩達の背中へ楔のように打ち込んでいった。


 彼の手が触れると妖物達の影は霧散し、猩猩の身体はそれを構成していた骨や枯れ枝を撒き散らしながら解体されていく。そして、六体目を解体し終えたところで猩猩の群れに捕り込まれていたセサルの身体がようやく開放された。


 若者は微かに息をしていたが、その腕や脚のいたる所に猩猩達を成していた無数の残骸が突き立てられていた。ヨナスは崩れ落ちる若者の身体を抱きとめながら我知らず涙を流した。


 創造主の目的の為に生み出されたヨナスには生来感情と言う物が希薄であったが今は違った。放浪の日々に挫折を味わった彼はテオやセラナと出会い、ホルンベルに助けられ、そしてニアブの森でアルジアの記憶を垣間見せられた。


 傍らにいる若者はニアブの森の記憶を胸に秘め、新たな宿りの種を携えてヨナスに付き従ってくれた。だがその為に若者は深く傷つき、あるいはこのまま死んでしまうのかもしれない。

 テオ達との出会いも、アルジアやセサルの想いも全て無に帰してしまう事が今のヨナスには唯々無念でならなかった。


(ヨナス)セサルが名を呼んだ。ヨナスは腕の中の若者を覗き込んだ。アルジアと同じ淡い緑の瞳が彼を見上げていた。


 ヨナスは若者の額に張り付いた前髪を指先でよけると、どうしたのかと尋ねた。若者は彼に何かを伝えようとしたが、血が喉に絡んで上手く言葉にできず、苦痛に顔を歪めるばかりであった。

 そしてヨナスにはその言葉を聞いてやるだけの時間が残されていない事に激しい憤りを覚えた。二人を遠巻きにしていた猩猩達が再びその腕を伸ばし始めたのだ。


 ヨナスは森中の闇から迫り来る腕を容赦なく解体すると、セサルの身体から突き出ていた枝の何本かをその根元で折り取った。

 思わず悲鳴を上げたセサルに彼はすまぬと一言だけ詫びると、何処にそんな力があったのか若者の身体を抱え挙げ、極力その身体を揺らさぬよう心がけながら森の外れを目指した。


 それでも猩猩達は執拗に二人を追って来たが、延ばされた腕はことごとく枝や骨に解体され、やがて木々が疎らになる辺りまでくると猩猩達は踵を返して森の闇の奥へと引き返していった。


(ヨナス……)セサルが再び声を発した。ヨナスは木の根元に若者を横たえさせると、その口元に耳を近づけた。

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