白鞘が奔る


その老人は


ただ、こちらに向かって

ゆっくりと歩いてきた。


まるで

街角でも散歩するように

自然体で、当たり前みたいに。


そして、ボクはそれに

一切反応出来なかった。


いや、正しくは

体が動きそうになるのを

必死に抑えた、と言うべきか。


——全力で止めた


絶対に動いてはならない

指先ひとつ、視線ひとつ


決して動かしてはいけないと

吸血種の本能が叫んでいる。


なぜ気が付かなかった


奴の背中を追っていた時に

どうして分からなかったんだ。


こいつは

この男は


危険だ……!


幾度となく誘われた

乗れば即死の、死の罠に


ボクはそれを掻い潜り

辛うじて命の糸を掴んでいる


幾度となく斬り殺された

刃が薄皮を切り裂き

肉に切込みを入れて


皮膚の下に潜り込み

骨を断ち、明日を断つ

その幻覚を何度も見た


死を実感して

その度に我に返る


何度も何度も何度も殺される

鮮明な死のイメージが焼き付いて

頭から離れない、いったいボクが


何回


今度こそ本当に死んだと

そう、思ったことか。


だが、まだ生きている

まだ、しがみついている


そうして気が付けば


この恐るべき敵対者は

手を伸ばせば届く距離にまで

近付いてきていた。


ボクは、ただ黙って

見ているしか無かった


そこに至るまでの間、彼には

一部の隙も生まれなかったのだ。


ボクは既に

呼吸をやめている

瞬きも停止している


老人は相も変わらず


まるで、壁に掛かっている絵画を

落ち着いて眺めているかのようだ。


「——ほう、まだ我慢するか」


一方的に

彼だけが言葉を発する


しかしボクの耳には

もう、その声は届いていない


目と耳で拾われた情報が

意味のあるモノとして

認識されていない


そんなことに

リソースを割いている余裕は無い


切れ切れ切れ

この場この時に必要な機能以外

全て切れ、停止させろ、でないと


でないと、死ぬぞ……!


要らない

呼吸も要らない

視界も要らない


頭も働かなくていい

皮膚感覚だって必要ない


何も聞かなくて良い

何も分からなくていい


意識を加速しろ

深層に入り込め


己の持つ全てを持って

この吸血種を打倒しろ


命の保持など

どうでもいい!


目的も手段も理由も

明日も夢も希望も全て


全て薪にして燃やして

切り抜けるエネルギーにしろ!


闇の中で

光を見続ける

目を焼かれないように

しかし、決して逸らさず


中央に捉え続けた


そして


そしてボクは


自分の体が


斬られていく事に気が付いた


スーッと

冷たい刃が身体の中を通る。


膝から下を失った

ボクはまだ動かない

片足で立っている


腹に、ゆっくりと

何かが差し込まれる


それは真一文字に通り過ぎて

そして身体の中から抜けた


痛みは感じない

命の危機も、恐怖も

何も、感じなかった。


あるのはただ

安らぎだけ


左肩の付け根から

斜めに、斬られていく

上体がグラつくのが分かる


支えが失われていき

不安定になっていく


もしかすると

このまま半分に斬られて

そのまま死ぬかもしれない


でも


それでもボクは

指先ひとつ動かさなかった


刃は

ボクの体を両断する

その手前で動きを止め


まるで初めから

何も無かったかのように

抜かれていった


そこからしばらく

何も無い状態が続いた


ともすれば

不安になる程に

一切何も無かった


目の機能が停止しているので

敵が居るのかも分からない


それでもボクは

1ミリたりたも

動くことはしなかった。


やがて


その時は唐突に訪れた


——穏やかだった


ボクの動きは

早くなかったと思う


それこそ優雅に

日常生活の一環みたいに

自然に、緩やかに動いた


左手が

横に振るわれた


まるで棚の上のモノを

避けるような気軽さで


そしてボクの左手は

そのまま


手のひらの中に

感触が伝わってくる。


——途端


世界が開けた

これまで閉ざされていた

あらゆる機能が回復した


ゆっくりとした時の中で

ボクは確かにこの目で見たのだ


純白に輝く刀身が

今にも鞘から解き放たれ

振るわれようとしているのを


そして、それは恐らく

未来永劫こないだろう

と、いう事を


なぜならボクが


ボクの左腕が


刀を鞘から抜き放とうとしている

老人の腕を、捕まえていたからだ。


「なんじゃと——ッ!?」


男が叫ぶ

必死に逃れようと

身を捩って抵抗する


だが、手遅れだ


本来吸血種は

武器を扱わない


己の肉体に頼って戦う方が

その何百倍も強いからだ


例え


吸血種の力に耐えられる

強度を持つ武器があったとしても


ならば、この男が

武器を使う理由は


ひとつだけだ



ボクは貫手を構えた

指先を槍のように揃える


肘を曲げて、脇を締めて

体をねじって力を溜める


老人は抵抗できない

ボクの握力から逃げられない


「ならば……!」


男は空いた方の腕で

無防備なボクに爪を振るう


吸血種の爪は全てを切り裂く

守りなど、皆無に等しい


腕を捕まえているせいでボクは

この場に縫い付けられている状態だ

なればこそ、格好の的であろう


無慈悲に


その爪が振り下ろされる

それはボクの身体に直撃して


そして


「——やはり」


肉どころか、皮膚の1枚も

切り裂くことなく、止まった。



そうだ


彼が武器を使う理由は

自分の肉体で戦う事が

出来なくなったからだ。



ボクは構えていた貫手を

男の左胸に突き刺し

心臓を握りつぶした。


押さえつけていた腕から

力という力が全て抜けていく

もはや掴んでいる必要は無い。


決着はついた。


老人は

空を見上げて立っている


胸に空いた大穴から

大量の血を流しているが


流れ出た傍から

血が、砂に変わっていく


武器は未だに

その手に握られたままだが

もう何も警戒していない


「キミは強かった、とても」


ボクは

その吸血種に向かって

敬意を込めてそう言った。


「……斬り損なったわ

これ程に錆び付いていようとは」


彼はそう言って

自分の手を天にかざすが


もう既に、そこには

かざすべきモノが無かった。


「——カカ


あの世で鍛え直して来るかの」


老人は


そう言い残して

灰となり、消えた。


流れ落ちた血は砂の山となり

この風に吹かれて散っていた……。

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