そして彼女は時空を超越する


また明日


そんな彼女の言葉に

ボクは答えなかった。


リニャと別れた後ボクは

素直に部屋へ戻る事はなかった


元々


ここへ戻ってきたのは

ひと言、いやひと目だけ

彼女に会おうと思ったからで


そしてそれは

ついさっき叶った


予想外の贈り物を

貰ってしまったけれど


ボクは


この慣れない重みと共に

ここを去ろうと決めたのだ。


階段を降りていく

出来る限り足音を消して

彼女に悟られることが無いように


木造の手すりに触れる

こんな宿に愛着はない


結局


1度だって夜を

明かすことは無かった

人間たちが暮らすこの宿を


心残りはない

ただ、どこか


かつて人間の中で暮していた頃の

懐かしい記憶が、胸の奥にフツフツと

湧き上がってくるような、感覚がある。


一段一段と

踏み締めるように


けれど悔いはなく

そして迷いもなく


どうってことは無いのだ

これまでだって、そうしてきた


妖精混血


あんなイレギュラーさえなければ

今頃はとっくに、海を超えていたハズだ。


既に朝日は登りつつある

もう間もなく、人々は目を覚まし


活動を再開するだろう

新たな夜明けの中に躍り出て

先の見えぬ今日を生きていくのだ


階段を降り切って

1階の広間を歩いて行く


扉の前

輝かしい明日への扉

ボクはそこを開け放つ前に


振り返り

決別の言葉を述べた


「また会いにくるさ」


それは

たった1人の少女に向けての

親愛に満ちた、言葉だった。


✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱


世界は不思議な色をしていた


朝と夜の狭間

もう間もなく人間たちが

街に溢れることになるだろう


既に活動を開始している者も

僅かながら存在しているだろう


故に


行動を起こすなら今だ

今ならば、目撃者は少なく済む


なにかが起きたことを

察知する事は出来ても

仔細を把握する者はおるまい


急げ


急いで十分な助走を

取れる地点を探すんだ


そんなに長い距離は要らない

数百メートルあれば十分足りる


ボクは街を駆け回る

文字通り、風を切るように


そして、ついに見つけた

条件に丁度良く合致する道を


ここならば問題は無い。


「ふー……」


深呼吸をひとつ

全身から力を抜いていく


そしてボクは


前に倒れ込むようにして

ただ押し出すみたいに

地面を蹴った。


自分の体がまるで

ボールを軽く放るように

前方に投げ出されていく


まずは第一段階目

始まりの一歩を踏み出す



続いて、二歩目


投げ出された勢いのまま


無風状態の湖の水面のような穏やかさと

薄氷の上を歩くみたいな慎重さをもって

そっと床に足を降ろしていく


そして靴底が地面に触れる


その瞬間


火薬が爆裂するかのような

強烈な筋肉の働きによって


エネルギーを無駄にしないように

地面を踏み抜くまいと微調整された


そのひと蹴りは、ボクを


それまでの速度を遥かに超えた

別次元の世界へと入門させた。


グン、と

全身に衝撃が走り


景色が流れる速さが

何十倍までにも跳ね上がった


空気を切り裂いていく。


既に、人間の視力では

輪郭すら認識できないだろう


かろうじて吸血種ならば

まだ姿が追えるという状態


だが、まだ足りない

海を超えるには至らない


ならばどうするか


答えは簡単


足りぬのなら

足せばよいのだ——!


三度目踏み込み


——地面が、砕け散る


もたらされた異常な負荷に

耐え切ることが出来なかった。


もはや

エネルギーのロスなど

全くもって度外視している


全身全霊

建造物への被害など

少しも考慮していない


手加減なしの

全力の蹴りを叩き込んだ


まるで何かに

引き摺り寄せられるみたいな

そんな異常な感覚を味わった


現世から連れ去られて

どこか遠い世界に

放り出されるような


そんな常識を大きく外れた

理解力をも超越した早さが


産み落とされた——!



……ボクが、最後に物事を

正しく認識していたのは


そこまで


なぜならボクは

次の瞬間には


——何も聞こえなくなり

何も見えなくなったからだ。


無、無、無、無、無、無、無、


暗闇



暗闇、暗闇、暗闇


もしかして本当に

世界を飛び越えてしまったのか?


そんな荒唐無稽な考えが

まかり通ってしまいそうになる程


この状況は異常だった。


だが、しかし


この、痛みが


それは違うと教えてくれる


この、全身を

絶え間なく砕かれる様な


激しい痛みが

ボクはまだこの世にあると

たとえ闇の中であろうとも

教えてくれていた。



やがて

自体を把握し始めた頃


ようやく光を取り戻した

ボクの両目が捉えたのは


一面の青だった。


……そうか


あまりの空気圧に

視覚と聴覚を損傷したのか


で、今その再生が

終わったということか


自身がどれだけ傷付き

その後にどうなったのか


その事を

認識する間もないほどに

ボクが生み出したエネルギーは


凄まじかった


そして、今なお


空間を丸ごと

切り裂いていくかのような

この世の理を乱しかねない速度で


ボクは目的地に向かって

一直線に突き進んでいる


後ろを振り返ると

既に元いた街など

影も形もありはしなかった。


目標は、遥か遠くの霧の国

そこに居る吸血種の、心臓だ——


✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱


到達は


突然だった。


飛びながら


遠くの方に、ほんの僅かに

霧の壁のような物が見えたと思ったら



ボクはいつの間にか

そこを突き破っていて


声を上げる暇も

考える間もなく

吸血種ジェイミーの肉体は


霧の国、その土地に

叩きつけられていた


生じた余波で


人間、動物、植物、建物

その尽くを蒸発させながら——。

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