16――イチの謎行動


 夜の7時頃まで部活で、30分掛けて帰宅。今日部活で着た汗でビチャビチャになった服を洗濯機に投げ入れスイッチを入れて、先にシャワーを浴びる。


 男だった頃なら多分カゴに入れるだけで、そのまま母親に任せて放置だっただろうなと苦笑を浮かべる。一緒に暮らし始めてしばらくは母親のオレに対する態度はなんとなくギクシャクしてたけど、最近は昔みたいに遠慮のない親子関係に戻っている。まぁひなたの設定上は伯母と姪なんだけどな、家の中だと誰に遠慮することもないのでこれまで通りに過ごしている。


 シャワーを浴びてさっぱりしたら、髪を乾かして夕食を食べる。女になって料理を多少なりともやってみた身としたら、作ってもらえてるだけで感謝だ。さらには昼の弁当も作ってくれるし、母親に『ありがとう』とお礼も忘れずに伝えるようにしている。


 食事を終えたら強い睡魔が襲ってくるけど、そのまま寝るわけにはいかない。冷たい水で顔を洗って眠気を飛ばすと、机に向かって宿題とその日受けた授業の復習と予習をする。教授曰く、その日書いたノートを真剣に読んだり、明日勉強する予定の教科書を書き写したりするだけでも記憶に強く残るらしい。


 なんだかんだで受験の時も色々タメになる勉強方法を教えてもらったし、オレの成績が上がったという実績があるのだから、あとはそれを信じて愚直にやるしかない。そんなことを考えながら、オレは再びノートに視線を落とした。


「…………わっ!」


「ひゃぁっ!?」


 突然大きな声がして、思わず変な声がオレの口から飛び出る。勢いよく振り向くと、そこにはいたずらっぽい表情を浮かべたイチが立っていた。っていうか、いつの間に部屋の中に入ってきたのか。それ以前になんで勝手にオレん家にいるんだよ、こいつ。


「驚かせんなよ、まったく! 子供じゃないんだから」


「らしくないことやってるからさ、ついイタズラ心が出ちまったんだよ。しかし勉強なんか小学校で諦めたお前が、なんでノートなんか見てるんだ?」


 イチがど直球で失礼なことを言ってくるから、オレはジトっとした視線を送った。そもそもなんで勝手に家の中に入っているのかと質問をぶつけると、オレを驚かせるために姉貴に連絡して中に入れてもらったんだと。相変わらずしょうもないことに全力を出すヤツだな、こいつ。


「お前、オレの今の成績知らないだろ。中間試験の結果を楽しみにしておくんだな、絶対びっくりさせてやるから」


「へぇ、そんな自信があるなら結果を楽しみにしておくよ」


 なんかからかうみたいな感じで言われて、かなりカチンと来た。絶対いい点数取って、驚かせてやるんだからな。フフン、今のオレなら学年上位も狙えるかもしれない。どうせなら1番を目指して頑張ってみるか。湊だった頃に言われてたバカの烙印を絶対に返上してやる。


 イチはふんふんとやる気を出しているオレに何故か見守るようなやさしい視線を向けていたが、思い出したように話題を変えた。


「そう言えば今日は女バスも練習試合だったんだろ、どうだったんだ?」


「まゆは楽勝だったって言ってたよ。だけどオレ達は留守番だったからな、早く遠征にも付いていけるようになりたいわ」


「そっか、そう言えば男バスうちの1年も留守番させてたな」


 イチはたった今思い出したという様子で、そんなことを呟いた。ちょうど男バスの1年生の話が出たので、オレは休憩中に少しだけ会話をしたことを話した。するとニコニコとオレの話を聞いていたイチの瞳に、剣呑な光が灯る。急に雰囲気が変わったので、オレはちょっと引き気味にイチとの距離を少しだけ空けた。


 何を話したとか何故か細かく質問されたが、大した話はしてないよな。そう言えばイチからマネージャーに誘われたことを話した時に、オレが断った話をしたら彼らがイチを批難していたと言うと、イチは何か納得したようにスマホを取り出して画面を見た。


「なるほどな。男バスのグループチャットで1年生あいつらにめちゃくちゃ責められたんだが、そういうことだったのか」


「……どういうことだ?」


 理解できずに問いかけると、イチは『同学年のマネージャーが欲しかったのに、オレが逃したから責めたくなったんだろうよ』と投げやりな感じに言った。確かに同学年の女子マネージャーはいない感じだけど、先輩にはいるのにな。同じ1年生じゃないとイヤだとか、なんてわがままなヤツらなんだ。


「他にもお前と仲良くなりたいから、マネージャーになって欲しかったってヤツもいるだろうし。お前も今は女子なんだから、男子との距離は気軽な感じで接してたらいつか痛い目を見るぞ。元は男子なんだから、男子の下心ってヤツもわかるだろ」


「…………はぁ?」


 急に訳のわからないことを言い出したイチに、オレは心底理解ができなくてため息を吐き出すように疑問の声を上げた。そんなこと言ってたら学校で実習の授業すら受けられないだろうに。共学の学校に通っている以上、男子と関わらず生きていくのは不可能だ。どちらかというと、現時点では女子よりも男子と話す方がまだ気は楽だし。


 オレの反応が気に障ったのか、イチは突然素早い動きで椅子に座っているオレを横抱きに抱えると、そのままベッドに近づいてポイッと放り投げた。オレはといえば、急にイチに抱え上げられたことで頭が真っ白になって、抵抗する間もなくベッドに押し倒されていた。なんだ、この状況?


 掴まれた手首がギリリと強く握られて、思わず顔をしかめる。男の時ならあっさり逆転できただろうに、この非力な身体では掴まれたイチの手すら外すことができない。


「痛いって! 骨が折れたり、ヒビが入ったらどうするんだよ」


「ちゃんと手加減してるだろ。それよりお前がどういう心持ちであっても、男ってのは油断してる女子にこういうことが出来る生き物だ。だから無警戒に近づくなって言ってんの!」


 どうやらイチは、自分が悪者になってでも男の怖さをオレに思い知らせようとしているらしい。だったら残念ながら失敗だったな、オレはイチが女子に乱暴なことをするようなヤツではないことを誰よりも知っている。もしこいつが本気で元々の姿を知っているオレを押し倒してそういうえっちなことをやらかすならば、よっぽど切羽詰まっているか何らかの理由で理性よりも本能がぶっちぎりで強くなってしまっている時だろう。


 つまり今のこいつはオレに対して、そういうことを絶対にしない。まっすぐに目を見つめてそう言えば、イチはバツが悪そうにオレから目を逸らした。そして掴んでいたオレの手首を解放して、伸し掛かっていた身体をやっとこさどける。あー、重かったし痛かったし。ほら手首、めちゃくちゃ手形の跡が赤く付いちゃってるだろうが。


 叱られた犬みたいにしょんぼりしているイチに文句を言ってから、オレは手首を何度か擦った。色が白いから、赤くなった手形の跡はすごく目立つ。半袖の時期じゃなくてよかったな、制服の時は長袖のワイシャツで隠せるだろう。部活では、湊だった時に使ってたリストバンドでいいか。今のオレにはちょっと緩いかブカブカかもしれないけど。


 願わくば、明日にはこの跡が消えていますように。オレはそう願いながら、元凶であるイチを部屋から蹴り出した。信用はしているが、こんなことを何回もされたらかなわないからな。

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