第42話 始まり

 ジョホールバルの歓喜から数ヶ月。季節は過ぎ、また夏を迎えた。

 いかつい男は、時計を気にしながら似合わぬ風景の中にいた。

 街はいつもより賑わい、行き交う人々の笑顔が弾んで見える。

「おう、錠」

「あ、いた」

「遅いじゃねえか」

「ごめん、迷った。友達や会社の人に土産買ってて」

 異国の街をさまよい、ようやく約束の場所にたどり着いた錠は、ハンカチを出して汗をふいた。

「この街わかりづらいよ」

「準備が足らなかったな。まあ、ここからは大丈夫だろ」

 行く先は明らかだ。二人は人の流れに沿って街並を歩いた。

「どうだ、膝」

「すっかり大丈夫。日常生活はね。球はもう蹴らないからわかんないけど」

 一文字は目を伏せた。

「そっちはどうなの」

「俺も同じようなもんだ」

 二人はしばし言葉もなく歩いたが、街の活気に包まれ、表情は明るい。

「いい雰囲気だね」

「ああ」

 やがて、二人は大きなスタジアムの前にやってきた。一文字は持っていたチケットを錠に手渡す。

「サンキュ。でも、俺なんかと見てていいの」

「ああ、俺の解説は三戦目だからな」

「今日は加瀬さんだっけ」

「わしの晴れ舞台だって喜んでた。お前も依頼はきたんだろ」

「ゲストでね。けど、話すことないもん」

「まあ無愛想になるのがオチか」

「へへ、うるさいな」

 スタジアムに入った二人は、メインスタンド中段に出た。

「うわ、すごいなあ。こんなの初めてだ」

 ピッチに選手たちはいなかったが、スタジアムを埋め尽くしたサポーターの熱気が、錠を包むように揺さぶった。そこには勝ち負けの戦いとは別の何かが感じられた。

 二人は自分たちの席を探して階段を下りた。

「あった。へえ、いい席じゃん。さすがミラクルテツさんだね。次の監督候補だもんなあ」

「からかうなよ。カルロスにも失礼だろ。それに、俺にはボンバが先だ」

 錠はうれしそうに目を細めた。

「お前はどうなんだ。もう代表は、サッカーは本当にいいのか?」

 一文字は、錠の膝に目をやりながら尋ねた。

「どうって、そもそも俺は素人だから……。ちょっとだけど本気で取り組んでみてわかった。あいつらすごいなって。付け焼刃でやれるもんじゃないって」

 錠はそこまで言って、いったん口をつぐんだ。だが、

「いや、でもやっぱり、そりゃあ俺だって」

 そう言ったあとで、表情を変えた。

「実は会社の新しい事業でいい話もらってるんだ。まだ話せる段階じゃないけどね」

 錠は声を弾ませた。

 スタジアムに大声援が響きわたる。

「おお、ついに来たか」

 日本にとって初めての大舞台だ。メインスタンドの下から、キャプテン小原を先頭に選手たちが入場してきた。そのなかには友近の姿も見える。最後尾はユキヤだ。

 わき起こるニッポンコール。ベンチ前にもなじみの顔。

「お前もあのなかにいたかったろう」

「いや、むしろいてほしかった」

 錠の言葉に一文字は深く目を閉じた。だが、やがて、

「でもここにいるさ」

 力強くそう言った。

「うん。俺も。痛いの我慢して走ったからこんないい席で見れるもんね」

 ピッチの戦士に、そしてスタンドの一角を占める青き一団に、錠は思いを注ぐ。

「うちの親、より戻ってね。姉ちゃん俺のお陰だって言ってくれてさ」

 これほどうれしそうに話す錠を一文字は初めて見た。

 錠は友近の動きを目で追った。そしてスタジアムの空を見上げた。

「テツさんの思いも、届いてるよね」

 一文字もいかつい顔を崩し、青空に心を溶かす。

 ピッチの選手たちが国歌斉唱のためにこちらを向いて並んだ。錠は頭上に手を上げ拍手する。

「あ、あれ」

 友近が気付いた。

「お、錠だ」

「テツさんも」

 皆晴れやかに、そして決意に満ちた顔で自国の歌に思いを乗せる。その視線の先からは、たくましい虹がかけられていた。

 がんばれ、がんばれ日本、

 俺のワールドカップが始まるんだ――。


  セットフリー ~アノムコウへ~ ワールドカップ開幕直前編 完


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セットフリー ~アノムコウへ~ ワールドカップ開幕直前編 @daitoaoi

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