第15話 岡屋、その男野獣につき!?

 テストマッチ終了後、この日は事後ミーティングなどはなく、チームは即日解散となった。

 夕暮れのなか、錠は協会から用意されたタクシーで帰宅した。このとき、あとをつけられていようとは思いもしなかった。

 マンションの前で降りた錠は一階のポストをまず確認した。ポストから物がはみだしているとファンや不審者にあさられる可能性があるため、最近は気を付けている。整理のつかなくなる新聞も取るのをやめた。

 いくつかのビラと電気料金の請求を手に取り、それを眺めながら錠は階段を上った。上り終えて、二階の通路を歩いているときだった。うしろで階段を歩く音がかすかに聞こえる。誰かついてくる、そう感じた。錠が止まるとその音も止まった。明らかに不自然だ。

 錠は音を立てずに部屋の前まで行き、振り返って様子を見た。誰も上ってはこない。どうやら気のせいかと一息ついてから鍵を開けた。

 すると、その音を待っていたかのように声がした。

「へー、なんか普通」

 そう言いながら、無造作に伸びた黒髪が階段の下から徐々に姿をのぞかせた。

「あ、岡屋……」

「どんなとこに住んでんのかと思ったぜ」

「っていうか、何やってんだ」

「まあまあ」

 岡屋はニヤニヤしながら近づくと、錠の持つドアノブを手の上から握って回そうとした。

「何すんだ、てめえ」

「はっはっは」

 錠も抵抗するが、相手は細身のわりに結構な力だ。分が悪い。

「わかったよ、入れてやるから離せ」

 岡屋は、さっきまでスタジアムにいたのとは別人かと思うほど無邪気な顔だが、厚かましさはかなりのものだ。殴ってやりたいほど腹立たしいが、ここはやつのペースにのまれてしまった。

「でも片付けてからな」

 そう言いつつ、ドアを開けるやいなやだ。

「ほいほいほーい」

「あ、待て」

 岡屋は、はしゃぎながら部屋に飛び込んだ。が、一瞬のうちに玄関で固まった。

「うわ、中はスゲーな」

「だから待てって」

 錠は岡屋を追い越して部屋に上がり、いつもの自分のスペースに陣取ってそこらへんの弁当の容器やら缶やらをコンビニの袋に詰めはじめた。

 岡屋は空いたスペースに上がって、部屋を見渡した。

「ふうん」

「おい岡屋、そこに立つなよ。そこは俺専用の場所だ」

 錠の言葉が耳に入らないか、岡屋は動かない。もう一度言いかけて、錠はその視線の先に気付いた。

「あっ」

 慌てて手を伸ばし、壁のカレンダーを外そうと引っ張ったが、つかみどころを誤り、上の一枚だけがめくれて破れた。

 端の中途半端に欠けたその一枚を手に、錠は開き直った。

「誰だよ、こんなもの掛けたの」

 そしてぎこちない手つきでそれをまるめ、ゴミ箱に捨てた。

 錠の独り相撲に、岡屋はたいして興味を示さなかった。

「それより錠、腹へらねー?」

「ああん?」

「いや、俺払うから出前取ってくれよ」

「勝手に取れよ。俺は眠いんだよ」

「店知らねーんだよ。このへん」

「俺だって知らねえよ。出前なんか」

「お前、有名人に出前は必須だぞ」

「俺は夜しか出ないから関係ないんだよ」

「夜行性の男か? なんだスケベだったのか」

「なんでそうなる。とにかく寝るから気がすんだら帰れ」

 とりあわなきゃ帰るだろう、そう思った。とりあえず床に入って無視だ、そう企てた。錠は、普段使わない布団をゴミ山の隅から引っ張り出しはじめた。

「錠、携帯の番号教えてくれよ」

「そんなもの持ってねえよ」

「マジかよ。まあ学生はそんなもんか」

 周りで持っていないのは錠だけだ。

「じゃあ部屋のは」

「教えねえよ」

「冷たいな。仲間だろう。アンチヒロのさ」

 錠は思わず手を止めたが、

「……や、俺はあんなやつ、どうでもいいさ」

 微妙な返答にとどめた。それでも岡屋はおかまいなしに続ける。

「あいつ偉そうなんだよ。俺、主に右サイドのフォワードじゃん。あいつパスをさ、スペースあるからって、すげー前のほうに出すの。追いつけるかっての。それでよ、もっと速く、とか言うの。俺誰だってんだよ。岡屋だぞ。これで食ってんだよ」

 そうまくしたて、岡屋は脚を叩いた。

「まあ……、言い方腹立つよな、あいつ」

 同調することに自己嫌悪を抱きつつも、錠はまたしてもやつのペースに乗ってしまった。

「腹立つ? いや、俺腹へってんだけど」

「はあ? それにしても、お前よくしゃべるな」

 錠はこれまでとのギャップも含めて、呆れ気味に言った。

「おお、よく言われるぜ。言いたいことあったら言わなきゃ。黙ってても周りがわかってくれるなんて思ってたら大間違いだ」

 錠は聞き流しながら、布団に横たわった。それでも岡屋のペースは変わらない。

「そんなことよりさ、だいたいみんなヒロ、ヒロってさ、俺も弘行だっての。俺のほうが字がかっこいいだろって」

「はあん?」

「ヒロの浩ってどういう意味? 有名人でいうと誰いるよ」

 なんの話だ、わけわかんねえ、取りあってらんねえ、錠はそう思いながら目を閉じた。

「あれだ、山本浩二の浩だ。結構大物、ってあれはプロ野球。俺たち関係ねーや。わはっ」

 岡屋はひとり、はしゃぎ気味に笑った。

 コウジ? それに浩って字……。そうかやっぱりむかつくわ。

 錠は岡屋の言葉に何かを思い出したが、そのうち寝てしまった。見ていただけとはいえ、慣れない日本代表の環境だ。思いのほか疲れたのだろう。あっという間に眠りに落ちた。

 目を覚ますと、外からの光が天井に反射して、朝を迎えたのがわかった。

「グッモーニン、おはよー」

 のんきな声が耳に入る。岡屋の声だ。まだいた。

「実は今日こっちで大事な用があるんだよ。ほら、あれ、夕原さん」

 錠は仰向けになったまま、ぼんやり天井を見つめていた。

「オリンピックのさ、陸上の。あの人に会って教えてもらうんだよ。走り方をよ」

 それを耳にしてようやく関心を示した錠は、横目で流し台のほうを見た。そのとたん、飛び上がらんばかりに体を起こした。

「うお、お前何やってんだ」

 視線の先には、パンツ一丁で歯を磨く野獣の姿があった。右手にブラシ、左手にコップを持っている。さらに錠は声を上げた。

「あああ、そのコップは水飲むときだけなんだよ」

「え、いいじゃん別に。水入れんのは同じだろ。それにコンビニで牛乳買ってきてこれで飲んだぜ」

 流し台の上に紙パックや、ふたの開いたカップヌードルが並んでいる。

「てめえ、ふざけんな。あ、そこのタオル使ったろ」

「ああ、シャワー浴びてからふくものなかったから。あんまり使ってないみたいだけど、まあいいかって。これで髪もふいたぜ。給水力が足らねーからたいへんだったけど」

「なにい。だめだ、だめだ。それは食器用だ」

「げっ、嘘だろ、これで? 先に言っとけよ。どうしてくれんだよ」

「なにを、っておい、お前そこで寝たのか」

 寄せ集めていた書籍類がどけられ、一人ぶんのスペースが空いていた。

「あーあ、もうなんだよ、てめえ。せっかくうまいこと積んでたのによう」

 錠は天井を仰いで子供のように不満を吐いた。

「いちいちうるせーな。いーじゃんか、小さいこと言うんじゃねーよ」

「てめえ、俺んちだぞ」

「へーへー、まったく一国の王様だな。まさにキングユキヤの代役だぜ」 

「な、なにをっ。お前こそ、いまさら走り方って」

 ユキヤの名を出され、錠はとっさに話を変えた。

「馬鹿だな錠、俺なんか走ってなんぼなんだよ」

「あ?」

 錠は岡屋の意外な素直さにふと言葉を詰まらせたが、すぐさま言い返した。

「でもよ、プライドはないのかよ。夕原だっけ? いくらオリンピック選手だからってさ。お前、それで食ってんだろ」

 錠は岡屋の脚をアゴで指した。

「プライド?」

「お前の走るとこ見て、あれがだめとか、こうしろだとか、上から目線で言われるんだぞ」

「は? そんなのプライドって言う? 全部さらして、だめなとこも見てもらって直さなきゃ、上にいけねえだろ。俺は試合に出られないほうがよっぽどきついわ」

 その点は自分には関係ない、錠はそう思った。

「俺なんか走ってなんぼなんだよ」

 岡屋は先ほどと同じことをまた言った。だがもう一言あった。

「お前もレインボーでなんぼだろ」

 錠は思わず顔をそらし、黙って目を細くした。

「だからさ、それ磨かなきゃよ。俺はもっと速くなって、ヒロをぎゃふんと言わせ――、」

 ほんの一瞬だけ、岡屋は時を止めた。が、

「――っていうか、ぎゃふんってこの表現、なんか笑えねー? な、錠、わはっ、ひひひ」

 そう言ってひとり腹を抱えた。

「ひひひ、ヒロが、あのヒロがぎゃふんって。わはっ、わはっ」

「やれやれ……」

 錠はそれしか言葉にならなかった。

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