25. クレイジーリセット

「……まさかアンタにここまで見破られるとはね。見直したわ」


 俺を見直してる場合か。自分の行動をまず見直せ。

 素直に感心したように頷く綾香を見て、もうそろそろ卒倒しそうだった。


 あんなに静香のフリをしていた時は否定していたのに、今度は簡単に肯定とか言ってることもやってることも極端すぎる。


 あまりにも綾香が平然としすぎて、動揺してる俺の方がおかしいんじゃないかと疑いそうになる。が、異常なのは綾香の方だと援護するように、黒子は取り乱したように叫んでいた。


「な、なんで。どうして妹を、静香を殺す必要があったんですか!」


 俺の聞きたかったことを代弁してくれた。

 それに綾香は怯むこともなく淡々と返していた。


「別に好きで殺したんじゃないわ。あれは不幸な事故だったのよ」

「事故……?」

「そうよ。計画的に殺そうとしてたなら、当日にアンタと電話で待ち合わせの約束なんてするわけないでしょ。アンタが家にいなかった瞬間に詰みなんだから」


 それは確かにその通りだ。最初から黒子の能力を当てにするつもりだったなら、もっと前日から約束をこぎつけているはずだ。


「じゃあやっぱり……突発的にやったことなのか」

「ええ。当時の私はアンタを突き落としたことで気が気じゃなくてね。でも一人になりたいから学校を休んでたのに、静香にずっと付きまとわれてストレスがたまってたのよ」

「付きまとわれてって……単に心配してたんだろ」

「そんなのは私にもわかってるわよ。でもそれをうざいと感じたらうざいに決まってるじゃない。しかも、「告白しても大丈夫なんて無責任なこと言ってゴメン」とか何度も謝って来るのよ? ……なにゴメンって、私は告白されたのにまさか同じ顔のお姉ちゃんがフラれるなんて思わなかったってバカにしてるの? ふざけんなよクソッ、クソがあッ!」


 そう急に叫びながら綾香が床のタイルを何度も踏みつけ出したのを見て、背筋が凍りついた。


 この状況で地団駄踏んで叫んでたらいつ屋上に誰か来てもおかしくない。だけど綾香は思考を放棄して明らかに感情で行動してる。


「ま、まさか……そのカッとなった拍子に静香を突き飛ばして殺したっていうんじゃ……」

「そのまさかよ。頭の中が真っ赤になっちゃってね。気がついたら静香を勢いよく突き飛ばして力の加減もできなかったわ」


 加減もできなかったわ、じゃねえ。色々といい加減にしろ。

 俺を突き飛ばしたことにトラウマがあるくせに、なんでバスではあんな何度も殺しかねない勢いで俺を突き飛ばせたのか疑問で仕方なかったが……怒りで我を忘れて我に返るまで深く考えられなかっただけかよ。


「打ちどころが悪かったのか、静香は壁に頭をぶつけた後しばらくうずくまっててね。私も流石に悪いと思って一言謝って自分の部屋で頭を冷やしてたの。でも流石に静かすぎて変だと思ってリビングに戻ったら、もう静香はピクリとも動かなくなってたわ」

「う、動かなくなってたって……」


 黒子の震える声に綾香は動じない声で返す。


「もう死んでたのよ。血は出てなかったけど頭の中で内出血でもしてたのかもね。ハハッ、皮肉よね。頭を冷やしてたら私よりも頭を冷やしてるんだもの。おかげで肝まで冷えたわ」

「……まったく笑えねえよ」


 俺まで頭痛が酷い。

 言わずもがなこの場の空気は綾香を除いて絶対零度まで冷え切っている。

 その反応が不服だったのか、綾香の視線まで冷め始めた。


「やめろっつっても私に自虐昏睡ネタかまして来たアンタがそれ言うわけ?」


 いやどう考えても度が違うだろ。お前のは怒が過ぎてるだろ。


「……まあいいわ。で、流石に当時は精神的に限界だったわけ。まあ当然よね。アンタは生きてたけどあの時は実質二人も殺した気分だったから。自殺しようとも思ったけど、怖くてできなくてね。結局、自首しようと、家の電話の受話器に手を伸ばしたら……ちょうどそのタイミングで掛かってきたのよ。あのゲス野郎からデートの誘いの電話がね」

「義弘か……」 


 いやゲス野郎呼ばわりできる立場かお前が。


「流石に色々と動揺したわ。でも気づいたら私は咄嗟に電話で静香のフリをしていたの。その意味がわかる?」

「わかるって……なにが」

「罪を償いたいならここで静香のフリなんてしないでしょ? つまり私の本心は静香よりも純粋に自分が助かりたかったのよ。そう思ったら気づいちゃったの。親が不在で、誰にでも変身できる悲願者と知り合って、静香が死んだ事を私しか知らないなんて出来すぎた状況に!」


 両手を広げて神の奇跡を目の当たりにしたかのように綾香は恍惚と叫ぶ。悪魔の誘いだとは微塵も思っていないのが酷い。


 突発的に成り代わったにしては状況が出来すぎてると思ってたが、むしろ状況が出来すぎてるから実行できたのか。


「だから……静香の死体を吊るして成り代わったのかよ」

「当たり前じゃない! アンタを突き落とした罪と妹殺しの罪から解放されるのよ? ならやるに決まってるわよ! 私の呪われた人生を全てリセットできるんだから!」

「い、イカれてる……」


 頭がくらりとした。

 どんな神経したらこの状況で目を輝かせて叫べるんだ。


 俺の能力よりこいつの方がよっぽどクレイジーリセットだ。どう考えても罪から解放されるどころか死体隠蔽に詐称に脅迫と罪がさらに重なってるだけだろうが。


「そうかしら。別に私と同じ立場なら誰でも同じことをすると思うわよ。隠蔽できるなら殺人も強盗も保険金の不正もタレントへの性加害も全てが許されるしね。この社会が証明よ。アンタが知らないだけで私がやってることなんて、この日本じゃごく当たり前のことなのよ!」

「んなわけあるか……」


 そんな妹を解体して成り代わるような奴がゴロゴロいてたまるか。ただの無法地帯を自由の象徴のように語る気か。


「だいたい妹を殺した時点で善人は幸せになれないわ。妹殺しちゃったけど、罪を償ったから幸せでーすって言えるならもう善人じゃないしね。だから私は良心を捨てて悪人になったの。罪悪感に苛まれて不幸に生きるより、良心の呵責もなく自由に生きた方が幸せに決まってるんだから!」


 満面の笑みで言い切りやがった。

 

 こいつ……マジで思ってやがる。

 なにが悲しくて両親の死だけじゃなく良心の死まで見届けにゃならんのだ……


「まあ。流石に当日に即興で計画を立てたから、色々と杜撰だし誤算も多かったわ。あのゲス野郎に家に付きまとわれたら詰むから、電話でどうにか取り繕って後で死体を埋めるのに利用できたけど、一歩対処を間違えたら一瞬でバレてたわね」


 一歩どころか死体隠蔽しようとしてる段階でもう京歩ぐらい間違ってるわ。


「私も……騙してたんですか」


 呆然と青ざめた表情で黒子が言った。


「ええ、アンタも流石虐められるだけあるわね。ちょっと脅したら疑う素振りもなくホイホイ信じて従ってくれたのは本当に助かったわ。ありがとね」


 さ、最悪だ。俺が人生で目撃した中で間違いなく最悪の感謝の仕方だ。

 そう綾香に邪悪に笑いかけられて、黒子は苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべていた。


「く……腐り果ててます貴方は……」

「? 腐り果ててるのは静香でしょ」

「肉体的にじゃなくて精神的にってことです! よく私に人殺しとか散々ボロクソ言えましたね!」


 当然の言い分のはずなのに、綾香は鼻で笑い飛ばした。


「まさか犯罪者の分際で説教するつもり? やめてよね。別に脅迫されたって警察に行こうと思えばいつでもできたでしょうが。死体の隠蔽に加担してるのに自分は悪くないみたいに振舞わないでくれる? アンタも同列で同罪で同情の余地なしよ」

「な……」


 絶句する黒子に綾香はお構いなしにまくし立てて来る。


「せっかく人が虐めから助けてあげたのに、恩を仇で返すとはまさにこのことよね。昔から啓太に好感を持ってるのを隠そうともしないアンタが目障りだったわ。だからわざわざ劇まで考えて遠ざけようとしてたのに……」

「……劇まで考えてって……ま、まさか、啓太さんと接触禁止にしたのは劇の内容が漏れるのを恐れたんじゃなくて……」

「単純に啓太に会わせたくなかっただけよ。卒業後に一日だけ会わせて満足させてやれば、勝手に疎遠になると思ってね。でも……まさかアンタが静香の身体で勝手に会ってるとは思わなかったわ。しかも今も勝手に会ってバレるとか……おかげで何もかも台無しよ。こんな事なら静香を殺した罪を被せて、無理やり自殺でもさせておけばよかったわ」

「ひっ……」


 その睨み殺すような綾香の悪意に満ちた視線に、完全に黒子は萎縮していた。冗談じゃなく綾香はやろうと思えばできたんだろう。


「……も、もう自首してくれ。こんな狂った事、静香だって望んでねえよ……」


 出て来る言葉がさっきから聞くに堪えなすぎる。

 こんなずっと悪行を積み重ねることを静香が喜ぶはずがない。そうどうにか説得を試みようとしたが、


「静香だって望んでない……? ふ、フフフフッ、フフフフフフフフフフフフフフフフフッ、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!」


 その狂ったような哄笑に思わず気圧された。

 その不快な笑い声はよく聞き覚えがある。


 前に教室で聞いたあの笑い声と……一緒だ。


「これまでずっと私を静香だと思ってたアンタが、よく静香のことを語れるわね。恥ずかしくないの?」


 強烈なカウンターに息が詰まりそうになった。

 これまで開き直りの弁解にしか思えなかったのに、その事実は致命傷すぎる。


『俺は鋭い方なんだぞ。そんな話に騙されるか!』

 

 今ならあの時教室で綾香が静香の姿で爆笑していた理由もわかる。


 ずっと成り代わりにも気づかずに騙されていて、しかもまさに目の前で騙されてる事にも気づかずに、俺は鋭い方とかぬかされたらそりゃ爆笑ものだ。滑稽すぎて片腹痛い。


 そこまで考えてゾッとした。


(まさか、俺が騙されるかとか言ったから、どこまで騙されるか試そうとしたのか……?)


 あの時の俺は黒子が幽霊じゃないと主張していた。

 それを聞いて綾香がなら幽霊だと思い込ませてやろうと騙す気になったなら、急に憑依なんて馬鹿げた真似をした理由も説明づけられる。現にあの時間軸以外で憑依なんて素振りは一回も俺は見ていない。


 いや憑依だけじゃない。

 黒子の存在が発覚して自暴自棄になっていたなら、いっそ全ての罪をなすりつけて死のうと考えてもおかしくない。


 現にその証明と言わんばかりにさっきからなすりつける発言ばっかだ。結局俺は綾香の作った劇に騙されて、まんまと黒子を悪人のように信じ込まされてしまった。


 でも……考えられるかよ。

 あんな一言だけで、背中を押したようにここまで狂ったことをしでかされるなんて……!


「流石、白昼堂々と吐いただけあって口から出る言葉が汚いわね。そもそも双子の私より静香の事をわかる奴なんていないわ。静香だって私に幸せになってほしいって思ってるわよ。いいえ、聞こえるわ。今も私には静香の声がはっきりと! 『お姉ちゃんが幸せになってくれるなら本望だよ』って許してくれてるの!」

「か、勘弁してくれ……」


 裁判で霊媒師が霊を呼び出して弁護で逆転するわけじゃあるまいし、通るかっ……! そんなもん……!


 俺も現実を見たくなくて盲目になってたが、綾香はそんな比じゃなかった。きっと俺を突き落とした時点で病んでたのに妹を殺した罪悪感が重なって、自己弁護と責任転嫁の化け物になってしまったんだろう。幻聴まで聞こえたらもう手遅れだ。


「お前がどう自分の蛮行を擁護しようと、結局悪事は白日の下に晒されるものなんだよ。頼むからもう終わりにしてくれ……」


 俺の切実な願いももう届かないかと思ったが、予想に反して綾香はしおらしく頷いていた。


「……確かにね。なら全てを終わりにしないとね……」

「じ、自首してくれるのか……?」


 ようやく観念してくれたかと安堵した俺はきっと、落とし穴に蜂蜜塗っただけで熊を捕まえられると信じる愚者レベルで見通しが甘かった。


「まさか。そのままの意味よ」


 心臓が止まるかと思った。

 まるで名刺を渡すようにそうスッと綾香は懐から自然にナイフを取り出していたのだ。木製の鞘を投げ捨て、刃先を俺たちに向けてかざしている。


「な、何のつもりだよ……」


 悪夢の再来だ。そのナイフを見るだけで吐きそうになる。


「もちろん殺すつもりよ。まさか今から料理をするとでも思ったの?」


 さらっと恐ろしいことを告げられた。


「お、お前……」

「大丈夫。アンタを殺すつもりはないわ。私が殺したいのはそこの私の人生を狂わせたゴミクズだけだから」

「ひっ、ひいいいッ……」


 全然大丈夫な要素がない。お前が大丈夫じゃない。

 綾香に矛先を向けられて、黒子の表情が完全に強張って痙攣しそうなレベルで震えている。


 まずい、まずいまずいまずい。そいつが脅しの道具じゃないのはもう俺は実際に体験済みだ。洒落にならない。


 しかも最悪なことに屋上の扉は綾香の背後にある。綾香の運動神経を考えたら、振り切って階段に避難なんて絶対無理だ。


「な、なんで黒子を殺そうとするんだよ」 

「そりゃ純粋に殺したいからよ。もう黒子がアンタに勝手に会ってたことじゃなくて、この世に存在してることが許せないから。どうせ私の人生終わりだし、それならずっと一番殺したかった奴を殺した方がスカッとするじゃない」

「いいから頼むからほんとお願いだから後生だから落ち着いてくれ。ナイフを捨ててとりあえず話をしようぜ……」


 立てこもり犯の説得を試みてる気分だ。しかも外の安全圏じゃなく中の危険地帯からとか生きた心地がするわけない。


 クソッ、良心と人生だけじゃなくて刃物も捨ててくれこん畜生。

 綾香ならナイフが無くても平然と素手で殴殺できそうだが、それでもまだ外見的に精神衛生上マシだ。剥き出しの狂気にさらに凶器が重なったらそりゃこっちまでおかしくなる。


 すると、綾香が急に神妙な顔をして俺の方をじっと見つめてきた。


「……じゃあ、ナイフを捨てたら私のことは警察に引き渡さずに見逃してくれるの?」

「そ、それは……」


 即答できなかった。それを見て綾香は失望したようにナイフをまた構えた。


「判断が遅い。返事が遅い。そうよ……もう全てが遅いのよ!」


 判断が速すぎる。

 もう綾香は黒子に勢いよく迫ってナイフを突き出そうとしていた。


「きゃあああッ!」

「クソッ!」


 咄嗟に俺は二人の合間に割り込む。

 そしてその瞬間、腹部に熱がこみ上げて来た。


「ぐっ……ぅ……」 


 激痛が暴れやがる。

 ワイシャツの白い布地が赤く滲み、血がぽたぽたとタイルの上に垂れていく。

 いつしかのようにナイフで俺の脇腹は斬りつけられ、気が付いた時には俺はタイルの上に倒れていた。


「啓太さん!」


 うずくまる俺に黒子が涙目になって慌てて駆け寄って来る。


「ば、馬鹿。早く逃げろ……」


 もういつ綾香の追撃が来るかわからない。


 ……こうなったら、いちかばちかだ。


 両手を構える。ずっと心をかき乱されて、削り戻りに集中するタイミングがなかったから躊躇ってたが、もう限界だ。失敗して気絶したら刺し殺されるとか、この今にも詰む寸前の状況で考えていられない。


 ぼやける視界でも、そう強引に屋上に行く前の自分を思い浮かべようとしたところで、


「なんで……」


 綾香の様子がおかしいことに気がついた。


 顔が青ざめていて、身体中から溢れていた殺意が今は完全な動揺に変わっている。

 てっきりうずくまった俺の体勢を見てまたトラウマがよぎったか、黒子に憑依されたフリじゃなく綾香本人として刺したからうろたえているのかと思ったが、


「なんで……アンタがそいつをかばうのよ! それならあの時みたいに私を助けてよ!」


 予想外の台詞に思わず困惑した。


「あ、あの時……?」


 綾香に助けられた覚えはあっても、助けた覚えがない。


「バスで介抱してやったことか……?」


 そんな俺のとぼけ面が気に食わなかったのか、綾香はさらに声を荒げていた。

「違うわよ! 昔トラックに轢かれそうになった私をアンタが助けてくれたんじゃない! 覚えてないの?」


 そう叫ばれてもピンと来なかった。

 断言できるならおそらく突き落とされた時のショックで失った記憶の中にあるんだろうが、記憶にないのに覚えてるなんて嘘でも言えるわけがない。


「……悪い、覚えてない」


 だから結局そう正直に告げたのだが、すぐに後悔した。

 綾香の表情がみるみる内に険しくなったかと思うと、気味の悪い笑みを浮かべだしたからだ。


「ふ、フフフ。そうよね。アンタはいつもそう。覚えていてほしいことを忘れて、忘れてほしいことは嫌がらせのように覚えてるんだから。ああもうううんざり。うんざりよッ! あああああああああああああああああぁあああああああああッ!」


 血の気が引いた。

 綾香は狂乱したように叫ぶと、頭をガリガリと爪で掻き出したのだ。肉を削り取る勢いで掻いたのか、爪に血がこびりついている。


 あまりの痛々しさに脇腹の痛みなんて頭の隅に追いやられた。


「だったらいいわ……その低スペックな脳の容量でも二度と忘れられないように……私を刻みつけてあげる! この場所に、この時間に、この身体にぃッ!」


 綾香がそう口元を釣り上げた瞬間、勢いよくナイフを振りかざされた。

 そしてザクッと、肉に深く食い込む嫌な音が聞こえた。


 しかし、そのナイフの切っ先は俺や黒子に届いてない。


「あ、ぁ……」


 迷いも躊躇もなく綾香は腹部にナイフを自分の身体に突き刺していたのだ。

 

 傷が刻まれ、綾香の制服がみるみるうちに赤く染まっていく。

 すぐにでも救急車を呼んで病院に運ばなきゃ助からない酷い出血。もうぐったりして倒れてもおかしくないのに、


「フ、フフフ」


 綾香は苦悶の表情を浮かべるどころか、口元に笑みを湛えてナイフを引き抜き、壊れた機械じかけの人形のように身体のいたるところを突き刺した。


「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!」

「あ……」


 止めなくちゃいけない。そうわかってるのに身体が動かない。


 この異常な光景に脳が理解を拒んでいるのか、その異様な空気に呑まれて足がすくんでいるのか。綾香はただひたすらに腕を動かし続けている。


 それでも全身を血に染めてもずっと続きそうだったその笑い声は、


「ゴ……ェッ……」


 最終的に喉を突き刺して、ようやくピリオドを打った。

 ナイフが地面に転がり、遅れて綾香が背中から血だまりに沈み込む。


 もう綾香はピクリとも動かなかった。

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