11. 寝坊で死亡で絶望で
重いまぶたをこじ開けた時、目の前に広がっていたのは……絶望だった。
「う、嘘だろ……?」
白い天井。白いシーツ。白いカーテン。広がる白ずくめの景色に頭まで真っ白になる。
黒子が人の身体に乗り移れる以上、どう足掻いても二人を助けられない。過去に戻ってもまた自殺すると脅されたらそれまでだ。
だから俺は二人に黒子のことを訊ねる前の今日の昼休みまで時を遡ろうとした。俺が約束さえ破らなければ、黒子に乗っ取られることもないはずだから。
だけど、今俺がいるのはなぜか保健室のベッド。教室の席ですらない。
じゃあ、今はいったいいつだ……?
悪寒が止まらない。悪い想像が止まらない。悪夢の中にまだ囚われている気がする。
ベッドの脇にあった俺のバッグからスマホを取り出して、おそるおそる時刻を確認する。
見た瞬間、絶望した。
携帯の画面は、無情にも午後の四時三十分を示していた。俺が屋上にいた時刻はだいたい四時くらいだったはず。時間が戻るどころか、過ぎている。
「ね、寝過ごしたのか俺は……うッ」
吐き気と不快感が襲ってくる。耐えきれなくてエチケット袋を取り出して吐いた。
「うええええぇっ」
気持ち悪い。けどそれは『削り戻り』の代償のせいだけじゃない。屋上の凄惨な光景を思い出したからだ。
あの血に塗れた光景は今でも、嫌でも忘れられない。
両親が死んだ時と重なって死んだ方がマシとすら思えた。まだ静香を刺した気味の悪い感触だって腕に残っている。血がついてなくても手を洗いたいくらいだ。
そんな惨劇を回避するためにも、この削り戻りは絶対成功しなくちゃいけなかった。
それなのに失敗した。この大馬鹿野郎は呑気に体調を崩して眠っていやがった……!
『あはははははははッ』
まだ、あの狂った女の笑い声がこびりついている。
綾香の声をしたおぞましい化け物。耳を塞いでも脳裏に響いてるから防ぎようがない。
「畜生……!」
両手を組み合わせてもう一度時間を遡ろうとしたが、頭痛と目眩が酷くて過去の明確なイメージなんてとてもできそうにない。
こんな状態で戻ろうとしても間違いなく失敗する。仮に体調が回復しても今よりももっと時間が経ってるだろうし、記憶が薄れてまともに飛べやしないだろう。
「助けられなかった……! 俺は、俺は……!」
そう涙が溢れそうになったところで、違和感を覚えた。
あまりに静かすぎる。今があの二人が殺された後の時間ならもっと学校中が騒がしくないか?
そもそも死体のそばで気絶してた俺なんて重要参考人間違いなしだし、服に返り血が付いていたらむしろ加害者と判断されてもおかしくない。警察とか誰かがつきっきりで見張ってないとおかしいんじゃ……
そこで気づいた。着ている制服のブレザーに返り血がついてないことに。日々の生活の汚れこそあるものの、布地は黒一色。ポケットにエチケット袋が入っているから本人確認は簡単。間違いなくこれは俺の制服だ。
ってことはつまり……?
「ようやく目が覚めたの?」
「ひあッ!」
そう勢いよくカーテンが開かれて、危うくベッドから転がり落ちそうになった。
ジトッとした眼差し。そこで呆れたように俺を見つめるサイドテールは、静香が変装してないならどこからどう見ても綾香だ。俺を見る眼差しも屋上の時とは違って、悲壮めいたものでもなければ、狂気めいたものでもない。普段の仏頂面だ。
「あ、綾香……お前大丈夫だったのか?」
「はあ? 大丈夫じゃないのはアンタの方でしょまったく。教室に向かったら急に倒れたとか聞いてびっくりしたじゃない。やめてよね」
「あ、ああ……俺もびっくりだ……」
全身の力がぬけていく。人生で一番ほっとした瞬間だったかもしれない。
どうやら削り戻りは成功してたらしい。
だけど代償で身体に強い負担がかかって教室で意識を失っていたようだ。そのせいで放課後まで保健室で寝込んで、俺が黒子のことを二人に話す事実自体がなくなったのか。
「じゃあ静香は……?」
「隣で寝てるわよほら」
そう綾香がカーテンの仕切りを開けると、静香がベッドでうなされるように眠っていた。
安堵したのと同時に一瞬滅多刺しにした時を思い出して吐き気を覚えたが、なんとか堪える。次にえずけば喉から血が出かねないし、静香の顔を見て吐くなんて最低すぎる。
「アンタが倒れているのを見て、なんかショックだったのか失神しちゃったのよこの子。まったく本当に心配をかけさせるわねアンタは」
「……まったくだ。本当にごめんな」
そう素直に謝ったのが怪しまれたのか、綾香は目を細めて訝しげな眼差しを浮かべた。
「やけに素直ね……ねえ、なにか私に隠してない?」
「え?」
「いやアンタがこんな風に倒れるなんて滅多にないでしょ? だから、なにか心労でもたまっるんじゃないかって思ったんだけど……違う?」
相変わらず鋭い。でも前と違って眼差しは鋭くない。むしろ心配する優しいものだった。
このまま正直に話せればどれだけ楽だろう。黒子のことも、『削り戻り』のことも、綾香と静香が殺されていたことも。
黒子の名前を出しただけで綾香はあれだけうろたえていたし、ちゃんと尋ねれば黒子について情報は間違いなく得られるはずだ。
「いや……なんでもない」
けど言えるわけがない。黒子は俺が約束を破って打ち明けた相手を殺してるんだから。
「……まあいいわ。ゆっくり休んでね。保健室の先生もすぐ戻って来るって言ってたから」
綾香はまだ少し怪しんでたが、俺が口を割る気がないと察したのか引き下がってくれた。
カーテンの仕切りが閉じられて、一人の世界に戻っていく。色々と考える材料は揃っている気がするが、今は体調が最悪すぎてうまく思考がまとまらない。
というかもう、しばらく何も考えたくなかった。
削り戻りで崩した体調は中々回復しなかった。
家に帰っても熱が収まらない。疲労が身体に染みついたように抜けないで結局土日は自宅でほとんど寝込んで無駄にした。
もっと過去の光景を明確に思い浮かべられたら、ここまで酷くならなかったんだろうが、あの時は余裕なんてなかったから仕方ない。二人の死がたった数日の体調不良で済むならむしろ安すぎるくらいだ。
調子が落ち着いたのは月曜の朝。本格的な夏がじきに始まることを訴えるような日差しが強い日のことだった。
六月の初めからもう衣替えの移行期間は始まっている。
今までは冷夏でそこまで暑く感じなかったからブレザーを着てたが、流石にもう暑いので俺も半袖ワイシャツ姿。エチケット袋もズボンのポケットに入れている。
まあ暑さ関係なく心労でできるなら学校をサボりたかったが、二人に異常がないか確認するためにも行かざるを得ない。家で寝ている間に二人が死んでたら目も当てられない。
「まあ土日の間に連絡を取ってるから大丈夫だと思うけど……」
それでも二人が乗っ取られたのは学校の事だし油断は禁物だ。
そう家近くのバス停で考え込んでいる内に、いつの間にかバスが来ていた。
綾香たちの家は辻桐山近くの一軒家に建っていて、二人は俺の一つ前のバス停から通っている。だからもしバスに二人がいなかったら不安で家まで向かってたが、杞憂だったようで、いつものように最後尾の席に綾香と静香が座っていた。
「お、元気そうね」
こっちの気も知らないで、俺の顔を見るなり綾香が能天気に話しかけて来た。
とはいえ普段通りの対応でほっとした。今のところ特に乗り移られた気配はない。
「まあな。おかげさまでピンピンしてるぜ」
実際そんな元気でもないが、無駄に心配させる理由もない。
「てかお前らもバスの中なのに元気だな」
いつもは青い顔をしてるくせに、今日はいつになく顔色が良い。
まさか黒子に乗っ取られたんじゃないかと思ったが、そうじゃないらしい。綾香がバッグから小さな紙箱を見せて来た。
「最近買った酔い止めがかなり効いてね。もっと早く飲んでいたかったわ」
「俺ももっと早く飲んでほしかったぜ」
お前らもぐったりしてたけど、それに付き合わされた俺も大概ぐったりしてたからな。
「私なんてもう本だって読めるよ。お姉ちゃん。なんか図書室の本とか借りてない?」
「借りてないわよ。コラッ、勝手に漁るな」
調子に乗って姉のバッグを漁る静香を、綾香が怒って振りほどこうとする。そんなとりとめのないやり取りを見て、思わず頬が緩くなった。
平凡な光景だけど、一度失いかけてそれがどれだけ尊いものか気づかされた。
人は本当にあっけなく死ぬ。両親が死んだ時にそれは痛いほどわかってたつもりだったが、時間がその感覚を麻痺させていたんだろう。
黒子のことは気がかりだし、野放しにしたくない。
だけど詮索すれば黒子が脅した通り、取り返しのつかない不幸が訪れるかもしれない。いや実際に訪れて俺は痛い目を見たんだ。遺体だって見たんだ。
世の中には触れなくてもいいことがある。玉手箱の中身を知ってそれでも開けるのなんて、自暴自棄になった時だけだ。
黒子のことはもう忘れよう。そうだ。関わらないのが正解なんだ……
『明日の十七時。有魏丘公園に一人で来てください。電話をかけますので、携帯の電源を入れておいてください。この件は誰にも口外しないようお願いします』
「あんまりだ……!」
教室でA4サイズの紙を握りしめながら危うく卒倒しそうになった。
帰る準備をしようとロッカーからバッグを取り出したら、中に白い封筒が入ってたのだ。
差出人は不明。封筒の中に畳まれた用紙の内容は、ラブレターと現実逃避するには流石に無理。むしろこれから身代金を要求するような脅迫文をもらった気分。
誰がロッカーに入れたか……なんて考えるまでもない。黒子だ。
休み時間にこっそりロッカーの中に放り込んだんだろう。もしかしたらクラスの誰かを乗っ取って入れたのかもしれない。
「まだ俺は誰にも話してないのに……どうして……」
いや思い当たる節はある。どうしてかわからないが黒子は削り戻りの能力を知っていた。
削り戻りで約束を破った事実を無かったことにしても、代わりに昼休みに俺が突然倒れた事実が残っている。
それを不審に思った黒子が倒れたのは能力の代償が原因で、約束を破ったのを誤魔化すためじゃないかと疑っても別におかしくない。もしかするとこの呼び出しで俺を問い詰めようとしてるのかもしれない。
「ふう……」
だが、思ったより俺は動揺していなかった。
もしこれが前のように綾香のスマホから送られてたら、パニックってたが今回は違う。
『殺シてヤル』とかわざわざカタカナ混ぜた強い言葉で脅したりしてないし、むしろ頼み込んでる分、一方的だがこちらを尊重してる面すら見える。
つまり、約束を破ったと確信されてないのだ。それなら、俺に対して黒子は強く出るつもりはないはず。そう考えると心に少し余裕が生まれた。
「……くそっ、上等じゃねえか」
用紙をクシャっと握りしめる。
行かなければどんな恨みを買うかわからない以上、俺には行く以外の選択肢はない。そもそも関わらないようにしても、向こうから関わる気があったらどうしようもない。
それでもこのまま向こうのいいようにずっとサンドバックにされてたら、後手に回るだけだ。思考停止して逃げるじゃいつまでも状況は好転しない。
黒子の脅迫で逆に腹は決まった。
どうしてこんな簡単なことに気付けなかったんだろう。冷静に考えれば黒子が幽霊なわけがない。幽霊ならこんな回りくどい方法をとらずに直接脅せばいい話だ。
こんな口外しないように脅すのは身バレを恐れているから。そもそも黒子の汚袋を処理したのは俺だ。あれは確かに重みがあった。
つまり、実体のない相手じゃない。胃の中身があるれっきとした人間。あの時確かに彼女は、半崎黒子は、屋上に確かに存在した。
なら当然あの憑依能力は……悲願者の力。
『代われるなら別の誰かの人生と代わりたいとずっと思ってました』
「そうだ……あいつは確かにそう言っていた」
親の虐待から逃れたくて他の人生にあこがれていた。
もしその願いが元となっているなら、誰かにとり憑ける能力であることにも納得がいく。まさしく別の人生と代われる能力なのだから。
ずっと追い込まれているのは俺の方だと思っていた。
だが違う。追い込まれているのはあいつも同じだ。だから脅して来るのだ。
なら攻めなければ。攻撃は最大の防御。むしろ正体をばらすと俺の方が脅して黙らせてやる。
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