第3話 レオン・ザック・スコフィールド(Ⅱ)

 ニューヨーク。

 アメリカの北東部にあるニューヨーク州の端に位置する。そこのマンハッタンにある大橋──マンハッタン橋の真下にハドソン川が流れているのだが、その川沿いにある広場が存在する。

 すがすがしい緑が広がりゆく場、エンパイア・フルトン・フェリー公園。その公園の端にマンハッタン橋の塔がある。

 その塔の下、レオン・ザック・スコフィールドは最低限の荷物をバッグに詰めてやってきていた。

「まったく──いったいなんどういう用だってんだ?」

 大昔、この世に怪物というものが現れてから、この世界の裏側は魔界と化した。だが、それに対抗すべく立ち上がったのが、今でいう〈狩人〉である。実際の名称は〈退魔師〉というのだが、隠語として前者のほうを多用され、そのうち通称となったのだ。

退魔十二騎おえらいさんがおよびとなりゃ、仕方ねえだろうけど」

 のちに組織のなかで実力者の序列化が進んだ。

 それが、退魔十二騎。そしてこれから彼が会いに行くことになる上司たち、ということになる。

(俺も早く、内側におさまりたいもんだ)

 浅いため息をついて、ハットを深く被る。鞄を片手に塔の裏側にまわり、そこでホームレスの男と対面する。

 多少汚れた服を身につけ、地面にシートを敷き、腰を落ち着かせている。その男はふと顔を上げて、レオンと視線が合った。

「名前は?」

「1052」とレオンは淡々と男に向けてつぶやく。

 こくりと小さく男はうなずき、腰元からある銀色のものを取り出す。それは、鍵だった。レオンがそれを受け取ると、男は後ろへ向けて親指を立てた。「行きな」と不機嫌そうな低い声で男は言った。

 レオンは壁に手のひらを押しつけた。それからさらに力を加えて押すと、その壁──扉は開いた。開いたすき間に体を入れて、通り抜ける。最後にレオンは男のほうに一瞥をやるが、男はただじっと虚ろな目で地面を凝視するだけであった。

だが、それに対して何の感慨も持たない。いつも通りであるからだ。

あの男は、ここ……アメリカ本部の番人。ああやって入口の前に入り浸り、人払いをしているというわけだ。だがそれでも、彼に近づく人間はいる。そういった者たちに男はこう尋ねる。

「名前は?」

 これは、実際の本名を尋ねているわけではない。

 レオンの場合、この問いに対して「1052」と答えたが、それはその数字を変形させると名前の一部である〝ザック〟になるからである。これは組織内で使われる、暗証番号のようなものだ。

 レオンの瞳にじめじめとした薄暗い、コンクリートの空間が映っている。そこは長く続いている廊下で、数分ほど歩いていればすぐに心臓部分へ入れる。

 実際の本部の前には木造の扉がある。その鍵穴に、先ほど男からもらった鍵を挿入する。そして右へ半回転させると、かちゃり、と乾いた音が鳴り響く。そのあと鍵を抜くと、先端から少しずつ透明になり、やがてその形は消失した。

(ほんとにあのじいさん。厄介な能力持ってるよなあ)

 レオンは心のなかで呟きながら木目状の両扉のノブを握りしめ、身体を後ろへ退かせると同時に扉も引いた。扉と地面がすれる音と、扉が軋む音が鳴り響く。奥から異色の空気があふれ、扉という境界線を曖昧なものにした。その空気に呑まれる形で身体の意識は入れ替わる。

 俺は、狩人だ。

 そう自身へ向けて、言葉を放つ。自分の存在がどういうものなのか、自分という意義はどこにあるのか、それを信者に説くようにして自分自身を諭した。

 すでに曖昧になっていた境界線をまたいで、その向こうへ。そうするとさらに自分のなかで固められていた決意いしきがより一層強固なものとなる。その感覚を、一歩一歩その空間を踏み進むなかで深く味わっていった。

 まず目に映ったのは、真っ正面にある壁に掲げられたシンボル。狼を模した頭の絵に、両刃の剣が上から、クロスになるように刺されている。そして視線を下げると、そこには多くの席があった。レオンの前には玉座にも似た形をした椅子が、丸で囲むように並べられている。

「あらあら、あらあらあら」と正面の空席から左に視線をずらし、数えて三番目の席の女が言った。ちっ、とレオンは舌打ちしかけそうになるのをこらえた。

「約束の時間より、少し遅いんじゃない?」

煽るようにピンク色の唇をぺろりと舌なめずりする女。その女が、退魔十二騎の参ノ席に座する〈性愛の狩人〉である。狩人らしからぬ色気を放ち、男性の目を惹きつけるほどの美貌を持っている。鼻筋は通り、二重まぶたで、少し垂れ気味の目じりがやけに色っぽい。ぷるぷると柔らかそうな唇が動くたび、おそらく世の男性の瞳はとろけてしまうのだろう。仕草一つ一つが、いちいちエロいんだよな、とレオンは睨んだ。

「何を言う。時間通りだ」

 女性でありながらよく通る声でそう言ったのは、拾壱ノじゅういちのせきの座につく〈片脚の狩人〉である。少し白の混ざった髪を、後ろで束ねている。顔の額には火傷の痕のようなものが見られ、それは醜いというより、戦士の傷というようなものでどこか心強さを感じた。だいたい三十代後半から四十代前半ほどで、その細い顔には皺が刻まれているのだが、額の痕と同じように、それもどこか勇敢な雰囲気をまとわせていた。その皺にこそ、彼女の歴史すべてが詰まっていると言われても思わず頷いてしまうほどだ。

「あら、そう? そうなのかしら?」

「ああ」

「あらあら、あらあらあら」ふふ、と上品な令嬢さながらに笑う女。「それはごめんなさいねえ。わたし、時間には疎くて」

「いや、いい」レオンは短く答えた。この女には目を合わせるな、と自分自身に警告するように言い聞かせる。この女と目が合うと、どんなものでさえ魅了されてしまう。その場合、身体の主導権を彼女に握られてしまうのだ。

「はあ……はあ……」なぜか息が乱れている、小太りの男。「ねえねえ、ご飯は?」

「えぇ、さっき食べたばかりじゃないか」そこに、痩せこけた細身の青年が答える。

 一人目の小太りの男は肆ノよんのせきに座する〈捕食の狩人〉で、二人目の瘦せこけた青年は玖ノくのせきである〈脆弱の狩人〉だ。

「さっきって、今はお昼でしょ?」まるで子供のような口調で言う〈捕食〉。「朝ごはんはあれっぽっちしか食べられなかったし、お昼はいっぱいちょうだいね」

「あのねえ」はあ、と深くため息をつく〈脆弱〉。「もうお昼にマルゲリータ五十枚食べたでしょうに」あと、という言葉を強調し、続ける。「朝ごはんにトリプルハンバーガーを百個食べておきながら何を言うんだよ」

 あれ、そうだっけ? 〈捕食〉は首を何度もひねりながら、その言葉を繰り返している。だが五、六回ほど言ったあとでまた「ねえねえ、朝ご飯は?」と寝ぼけているのかと思うくらいの珍返答が返ってきた。

「すみません」とレオンに向けて頭を下げている〈脆弱〉。思わず同情してしまう。

「レオン・ザック・スコフィールド、だな?」とその一瞬でレオンを呼んだのが、現在退魔十二騎のなかでは最高位の弐ノにのせきの座に君臨する、〈加虐の狩人〉である。一重まぶたの細い目の奥からは光が灯っておらず、全ての希望を絶望に塗り変えてしまそうなぐらい不吉な男のように思えた。目じりや口周りの皺は、抜け身の刃のような危うさの匂いが漂っている。身長は百九〇ほどの、肩幅の広い、壁のような体躯たいくをもっている。厳格なところは、外見が先か内面が先か、と考えるときりがない。

「ああ」レオンはさらに短く答えた。

ふむ、と鼻から声をもらすと〈加虐〉は「お前以外にも来るはずだ」だが、と続ける。「もうそろそろ時間切れだ。もう失格だな。残念だ」とさほど残念そうでもない声で言った。

 すると、レオンの背後にあった両扉が勢い良く開いて、そこから劇団さながらのよく通る声が聞こえた。

「親父! それはねえぜ」

まるでロックンロールの中心にでもいるかのような男であった。同時に奇妙な男でもあった。ぎらぎらと光る腰までの長さをもったコート。そのコートの下は何も着ておらず、その男の整った胸筋や腹筋が晒されていた。さらにはサングラスをかけ、金髪のオールバック。この世の派手という派手を知り尽くした外見をした男が、そこにいた。

「アレン」〈被虐〉はその男の名を言った。「いつもお前は、遅いのだ」

「うるせえ。俺のやり方ってもんがあるんだよ。あ、そうそう。この前、この俺のファッションをけなしたインテリ系の学生がいたんだけどよ」突然現れておいて何を話しているんだ、とレオンは訝る。「そいつはさ、俺の知るインテリ野郎のなかで一番いいこと言ってたぜ。自分を律するためのルールを持てってな。つまりよ、社会が決めたっつう規則より、自分のルールを大事にしろって言ってたんだよ。まあ、とりあえずムカついたんであいつの頬に拳食わらせてアザ作ったんだけどな」ははは、と高らかに笑う男。

 レオンが退魔十二騎の全員を見渡してみると、全員困惑の表情を浮かべている。中には汗を流していた者もいた。それから、こちらの意思を汲み取ってくれたのか、〈加虐〉が男を紹介した。

「漆ノしちのせきの玉座に座る予定の、〈被虐の狩人〉だ」

「しかもね、息子さんなのよ」と〈性愛〉が楽しそうに口にした。そのときの女の顔はどことなく近所の中年女性と似ていた。「余計なことを言うな」と〈被虐〉が女を睨む形ですごんだ。「あらあら、あらあらあら」怖いわぁ、とまるで年下の男性をからかうような口調で軽く受け流した。外見からして、〈加虐〉のほうが年上のはずだろうに、とレオンは戸惑った。

「おいおい、お前らノリ悪いな。そこはもっと騒ぐところだろうが。俺が来たんだぞ?」さも自身が主役であるかのように語りだすその男に、自然と苛立ちは湧かなかった。なんで苛立たないのか、自分でも不思議でたまらなかった。「ったく、仕方ねえな。で、親父とその愉快なお仲間さんたち。俺に何の用だ?」

 こいつ、俺が見えてねえのか? レオンはそこで目を細めるが、その男の問いは自分でも気になっていたため、退魔十二騎に目を向けた。

「今回は、主君らに試練を与えたい」と切り出したのは、〈加虐〉だった。最高位である彼がすべて事情を語ってくれるのだろう。「その試練とは、すなわち、魔王討伐だ」

 おいおい、嘘だろ、とレオンは戸惑いの表情を見せた。

 魔王というのは、狩人組織が百年以上ずっと追っている怪物のことである。何度か組織が勢力を作り、討伐したものの、その魔王は魂の永久化に成功しており、幾度倒したところで魂が消え去ることはなく、何度でも転生を繰り返すのだ。

「もちろんこれが難関どころの話ではない、ということは我々も承知している。だが、成功した暁には主君らに、空席を譲ることを約束する」

 その大いなる報酬に、レオンの心は焚きつけられた。

「それは、本当なのか、親父?」どうやらそれは、この派手な男もそのようだった。「それは、マジの話なのか?」

「ああ」もちろんだ、と彼は言った。

「はぁ……」だが、男の反応は大きく違ったものだった。肩をすくめ、眉を下げ、明らかに不満そうな顔を浮かべている。「それ、忙しくなるってことだよなあ、やっぱ。その無駄にでかい椅子に座ってばっかの生活がひたすらに続くって思うとため息しか出ねえぜ。つまりはこういうことだろ? ならよ、ライブ会場にお忍びで行って楽しそうに演奏してるところ、俺が乱入してギター奪ってがちゃがちゃ適当に鳴らすとか、弟といっしょに出かけて、派手な服を弟に着せて楽しむとか、そういうすっげえ楽しいこと、ぜんぶできなくなっちまうんだよな?」

 それを言い切ったあと、男は大げさに膝を崩して、床に手をついた。「ちくしょう、俺のくそ楽しい毎日がこいつらによって奪われちまうのか、ちくしょう!」

レオンが何言ってんだこいつ、と睨んでいると、〈加虐〉が先ほどよりも鋭い声を出して「何も、強制ではない。帰りたければ帰れ」と眉間に皺が寄っていた。

 おう、そうさせてもらうわと男がさっと立ち上がり、彼らに背中を見せると思い出したかのように「あ」と声をもらした。「いや、だめだ。それはいけねえよ、親父。うん、やっぱりだめだ、親父」

「どういうことだ?」

 にやっと口元を緩ませ、「なにより弟が望んでんだよ。俺が、退魔十二騎の輪のなかに入ることをよ」と言ったあとで、子供のようにくしゃっと歯を見せて笑った。

「……好きにしろ」だが、意外にも〈加虐〉は簡単に許した。だが、許したというより放棄したようにしか思えなかった。

 そのとき、背後から足音が聞こえた。かつ、かつ、とゆっくりとした歩みでこちらへ向かってきている。

「ようやく来たか」と期待してそうな口ぶりだったが、それほど期待をこめた目をしていなかった。だが〈加虐〉がそう言う以上、やはり大した奴ではあるのだろう。レオンも、心の隅で幼少のころに初めて外へ出たときと似たような感情をもって、そいつを待った。

 足音が少しずつ大きくなる。だんだんとこちらへ近づいてきているのが、よくわかった。そして両扉が開く。そこから現れたのは、明らかに自分や他の者とは違う異質の雰囲気を身にまとった青年であった。二重まぶたでありながら、その目は細く、獲物を定めているかのようだった。首は男のわりには細かったものの、贅肉などは一切なく、耳から顎にかけてのラインや鎖骨などはくっきりと浮き彫りになっていた。

 精悍な日本人の青年、というのが最初の印象であった。日本人だとわかったのは、彼が日本特有の浅葱色の着流しを着ているところだった。

「遅刻だ」と〈加虐〉が言うと、青年は「大丈夫です」と英語で答えた。発音も違和感はなく、流暢に詰まることなく喋っていたため、アジア系アメリカ人なのだろうかと一瞬だけ勘違いをしてしまいそうになった。

「それでは、君は──」

「ええ」青年は軽く頷いて、言った。「日本からやってきました。真堂雅之です」


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紅物語~零~ 静沢清司 @horikiri2

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