第三章 栄光の光と影と 7.遥かなり南氷洋(1)

1.世界一の座へ

 こうして、終戦直後Bクラスに甘んじていた日本の捕鯨船団は、みるみるうちに力をつけていった。昭和31年の第十一次南氷洋捕鯨(1956/57)には日水の図南丸、大洋の日新丸、錦城丸に加え、日水が松島丸(13,800t,中積油槽船改造、のち第二図南丸と改名)、極洋が第二極洋丸(16,433t,旧オリンピック・チャレンジャー/パナマ)の2母船を追加して5船団体制になった。これに対抗して、翌32年の第十二次には大洋が第二日新丸(27,035t,旧アブラハム・ラーセン/南アフリカ)を加えて6船団とし、戦前と同じ水準まで回復した。


 そして昭和34年の第十四次南氷洋捕鯨において、ついに捕獲頭数で前年1位のノルウェーを上回り、捕鯨世界一の栄冠に輝くのである。もっとも、世界一の座についたとはいえ、日本の捕獲頭数が戦前戦後を通じて最大となった昭和36年の第十六次南氷洋捕鯨でも6,574.2頭(BWU)であり、第一次に7船団を出漁させたノルウェーの7,320頭に及ばない。


 さらに昭和35年(1960)極洋が第三極洋丸(20,300t,旧バリーナ/イギリス)を投入して7船団体制となり、翌36年には大洋が錦城丸に替えて第三日新丸(23,406t,旧コスモスⅢ/ノルウェー)を投入し、同じ7船団ながらも能力はより増強されている。日本の高度経済成長と共に、この頃が日の丸捕鯨船団の全盛期であったと言えよう。


 一方、すでに戦前から減少傾向を示していた南氷洋の鯨資源は、各国が競って最先端技術を導入し捕獲競争を展開する大規模母船式捕鯨業の圧力に耐えかね、急速に枯渇への道を歩んでいた。国際捕鯨委員会(IWC)が捕獲制限枠の縮小を強力に推し進め、昭和37年度(1962)には15,000頭(BWU)であったものが、わずか4年後の41年度には3,200頭にまで削減された。さらに、遊泳速度が遅いため格好の標的とされたザトウ鯨と、かつての南氷洋捕鯨の主役であったシロナガス鯨がそれぞれ昭和38年度(1963)、41年度から禁漁となった。


 日の丸捕鯨船団の7船団体制はわずか5漁期で終わりを告げ、昭和40年の第二十次南氷洋捕鯨(1965/66)には第二日新丸と第二極洋丸の2母船を減船した5船団となった。以後、南氷洋捕鯨は坂を転げ落ちるように衰退の一途をたどり、再びこの黄金時代が訪れることは無かった。


 この2つの流れの中で、戦時標準船は設備の老朽化による維持費の増大や生産効率が低いことを理由として、昭和30年代後半から40年代前半にかけて次々と第一線を退き、解体されていった。戦禍によって短い生涯を閉じた幾多の先輩達に比べて、敗戦直後の日本が最も苦しい時期に南氷洋捕鯨を支え、20年以上に渡って活躍した長い一生は恵まれたものであったと言えよう。

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