第二章 輝く南十字星 4.復興なって(2)

2.戦力増強

 講和条約の発効を見越し、日水、大洋の両社は母船の強化を図った。大洋は新母船の必要性をGHQに訴え、昭和25年度の造船計画に新造捕鯨母船を組み入れることに成功した。この新母船は川崎重工が建造に着手、翌昭和26年9月30日に完成し日新丸(16,777t)と命名された。戦後最大を誇るこの新母船は1日当たりシロナガス鯨30頭の処理能力を持ち、同時に建造された470t型の捕鯨船5隻も加わって船団の能力は大きく増強された。

 一方、戦争の痛手から立ち直りの遅れた日水は、太平洋戦争中トラック島で沈没した捕鯨母船第三図南丸(19,210t)をGHQの許可を得て引き揚げ、日本まで曳航して修理することを決めた。


 第三図南丸は戦争開始直前に海軍に徴用され、鯨油槽は元よりバラストタンクまでを原油槽に転用の上で、2万トン以上を誇る搭載量を生かしてタンカーとして活躍していたが、昭和18年(1943)7月24日、シンガポールからトラック島に向かう途上、トラック島西方で米潜水艦の雷撃を受けた。沈没は免れたためトラック島に曳航されたものの、戦局の悪化はこの巨船を長途本土まで曳航する余裕を与えず、港内に係留されたまま翌19年2月17日に米機動部隊によるトラック空襲で被爆、後に転覆沈没している。

 日水には「機関部は爆撃で破壊されているが、40個ある500tタンクは無傷のはずだから、これを排水すればうまくいくだろう」との見通しがあった。新母船の建造には15億円かかるが、引き揚げ修繕なら浮揚曳航に2億円、修理に9億円の11億円で済むのである。引き揚げは実績豊富な播磨造船に発注することになった。

 しかし、建造当時総トン数世界第4位の捕鯨母船であり、日本第2位の商船でもあった第三図南丸の長さは163メートル、船体重量は12,500トンにもなる。これだけの巨船の引き揚げはもとより、トラック島から日本まで2,000海里の距離を曳航した実績は世界のどこにもない。昭和25年(1950)4月、トラック島に調査班が送り込まれ、現地で2週間の調査を行なった後に播磨造船が出した結論は「5ヶ月内の現地作業で引き揚げ可能」であった。


 当時、播磨造船の年間売上高が約23億円、日本水産が約43億円である。両社とも戦後不況で給料の遅配欠配や人員整理にあえぐ中、社運を賭した一大事業であった。GHQの認可を取り付けるのに手間取り、サルベージ隊の第一陣が南氷洋に向かう日本水産所属の油槽船玉栄丸(10,419t)に便乗して呉を出発したのは同25年の10月1日のことであった。旧陸軍の機動艇(*2)を改装した作業母船君島丸(780t)以下、クレーン架設用の作業船など計20隻余の船団が7日、後を追うように呉を出港した。

 2週間の航海の後、トラック島に到着したサルベージ隊170名は、休む間もなく浮揚作業に取りかかった。第三図南丸は真っ逆さまに転覆しており、僅かに船底を海面上に現しているだけであった。浮揚作業の手順は、これをまずそのまま浮揚、水深の浅い場所に曳航した後、一旦横向きに引き起こし、次に正常な位置まで引き起こしてから完全浮揚するというものだった。

 紆余曲折はあったものの、年が暮れる前の12月23日に横向きの引き起こしに成功し、年明けて昭和26年(1951)3月3日、予定よりも3週間遅れて第三図南丸の完全浮揚に成功した。


 しかし、この廃船同然の巨船をトラックから日本まで曳航するという、第二の大事業が控えていた。曳航は玉栄丸が南氷洋捕鯨の帰路に担当することになっていたが、前例のないことだけに日本の保険会社はどこも引き受けてくれず、外国の保険会社をあたってようやくアメリカのAIUが引き受けてくれることになった。日水は第三図南丸が浮揚したとの連絡を受けるや、南氷洋に出漁中の橋立丸を飯野海運に4億5千万円で売却する契約を結んでいた。まさに背水の陣である。

 3月26日、玉栄丸と第三図南丸はワイヤーロープで結ばれ、平均速力4.5ノットで日本に向けて出発した。途中、石垣島付近で熱帯性低気圧に遭遇し、最大風速35メートル毎秒、波高6メートルの時化の中、あわや曳航索切断の危機に見舞われたが、玉栄丸船長の英断によりこれを切り抜けて4月15日、半月余りの航海の後無事日本に到着した。


 こうして日本に回航された第三図南丸であるが、修理を担当する播磨造船所の技師達の気持ちは複雑だった。曳航されてきた第三図南丸の船体は赤錆にまみれ、上甲板は亀裂だらけ、機関室は魚雷で吹き飛ばされており、まさに「屑鉄の塊」という表現が適当であった。泥や重油、海棲生物などの付着物を取り除くのに5~600人の作業員が1週間動員され、その量は600tにも及んだという。

 そして半年後の10月17日、純トン数の1/3に及ぶ4,000t近くの鋼材を新品と交換し、第三図南丸の改装は無事期限までに終了した。新たに図南丸(19,308t)(*3)の名を与えられた新生捕鯨母船は10月31日、同じくこの年に新造された400t型捕鯨船2隻を含む19隻の船団を率いて、第六次南氷洋捕鯨に向け南氷洋へと旅立っていった。


 新母船の登場によって、戦標船改造母船は南氷洋捕鯨の表舞台から退いた。飯野海運に売却された橋立丸は油槽船に改装されてペルシャ湾航路に就航、昭和35年(1960)4月に解体されるまで日本への原油輸送に従事し、再び南氷洋を訪れることはなかった。大洋の第一日新丸は工場設備を撤去して油槽船錦城丸(11,109t)となり、新たに捕鯨船団の中積油槽船として就航した。もっとも、彼女は数年後に再び捕鯨母船として南氷洋に返り咲くことになる。



-***-


*2…通称SS艇。君島丸は元陸軍機動艇No.20で、戦時中の'45年5月に小豆島で座礁沈没し、戦後の'45年9月に引き揚げられた後台風で再度沈没、再び引き揚げられたという経歴を持つ。その後売却されて貨物船に改造され、'65年頃まで内航貨物船として就航していたようである。


*3…大洋の日新丸に比べると、日水の図南丸は船体の主要寸法は小さいが、総トン数は逆に大きくなっている。これは、日新丸が減トン開口によって船内工場の容積を総トン数から除いているためである。

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