第二章 輝く南十字星 4.復興なって(1)

1.新生日本と共に

 第一次南氷洋捕鯨(1946/47漁期)に続き、第二次(1947/48)シロナガス換算1,017頭、第三次(1948/49)同1,138頭と、日の丸捕鯨船団は着実に成果を上げつつあった。さらに、捕獲頭数に比して鯨油・鯨肉の生産量はより高い割合で増加し、歩留の向上による捕獲頭数当たりの生産効率が上がっていることを示している。

 例えば、第四次南氷洋捕鯨(1949/50漁期)の日本船団の捕獲頭数はシロナガス換算1,372頭、油肉その他の生産量は68,103tであるが、第一次の同932頭、34,484tと比べてみると、捕獲頭数の増加が147%であるのに対し、生産量は実に197%まで増加している。高度経済成長時代を支えた日本人の勤勉性は、遠く離れたここ南氷洋においても遺憾なく発揮されていた。GHQの日本に対する信頼も高まり、この漁期から派遣する監督官を両船団で1人に減らしている。


 しかし、世界的に見ると日本船団の位置付けは依然Bクラスであった。例えば、イギリスの捕鯨母船バリーナ(*1)は、第四次(1949/50)において1船団でシロナガス換算1,758頭の成績をあげ、日本船団2つの合計を400頭余り回っている。

 装備以外にも不利な点がなかった訳ではない。欧州船団が鯨油の採取のみを目的にしているのに対し、日本船団は油肉併用であるため操業方式そのものが変わってくる。日本船団は鯨肉の鮮度保持のため、捕獲から処理までの時間が制限されており、捕鯨船は母船からあまり遠く離れることが出来ない。一方、欧州船団は鯨油を採取するだけであるから鮮度保持は重要ではない。日本船団に比べて捕鯨船の操業範囲は大きく広がり、母船から遠く離れた探鯨活動も可能になる。結果として、より多くの鯨を見つけて捕獲することが出来るため、捕獲頭数の面から見ると欧州船団の方が有利な状況にあったといえる。


 こういった事情もあって一律に比較は出来ないものの、橋立丸、第一日新丸の1日当たりシロナガス鯨15頭程度という処理能力が劣っていたことは間違いない。随伴の捕鯨船が6隻いたとして、1日1隻あたり2頭しか捕獲できないのである。

 そんな中、大洋漁業と日本水産は貧弱な持ち駒をわずかでも強化すべく、それぞれ母船の改装を行っている。ボイラーの汽醸能力不足で痛い目を見た第一日新丸は、第一次南氷洋捕鯨終了後、これを補うべく船団付属の塩蔵工船天洋丸から主缶一基を移設し、翌年には主機をタービンからディーゼルに入れ替えている。橋立丸は同じく第一次南氷洋捕鯨終了後、不足していた鯨油製造能力の強化を図って解剖甲板を新設、工場設備の充実を図り、船橋構造物の移設、固定バラストの搭載を伴う大改装を行った。

 それでも戦標船からの改造母船では能力に限界があり、これを代替する新しい捕鯨母船が求められていた。


 昭和26年(1951)9月9日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、約6年間に及ぶ連合国による占領時代は終わりを告げた。調印2ヶ月前の7月には、戦前からの懸案事項であった国際捕鯨条約への加入を果たし、日本は国際社会における捕鯨国としての位置付けを確保した。もっとも、後にこれが苦難の道程になることは夢想だにしなかったであろう。




-***-


*1…"Balaena"、昭和21年(1946)竣工。昭和35年(1960)、極洋捕鯨が購入し第三極洋丸となる。

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