第二章 輝く南十字星 4.復興なって(3)

3.南の涯に

 前年までと同じ2船団ながら、新しい母船と捕鯨船によって格段に強化された日の丸捕鯨船団は、勇躍第六次南氷洋捕鯨(1951/52年漁期)に出漁したが、南氷洋には文字通り暗雲が漂っていた。


 昭和25年(1950)6月25日未明、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍が国境である北緯38度線を突破、いわゆる朝鮮戦争が勃発した。この影響で「朝鮮特需」「動乱ブーム」と呼ばれる好景気が生まれ、敗戦とそれに続くインフレで壊滅状態にあった日本の産業は活気を取り戻した。鯨油価格も世界市場においてトン当たり12万円から16万円と30%以上の値上がりを見せ、第五次南氷洋捕鯨(1950/51年漁期)には捕獲頭数こそシロナガス換算1,301頭と減少したものの、利益は大いに上がった。日水は捕鯨部門の売上高が前年比33%増の約38億円に上り、総売上に占める割合は66%となって戦前戦後を通じ最高水準となっている。


 しかし、この年の南氷洋は濃霧と時化が続き、第六次の捕獲頭数はシロナガス換算1,547頭と伸び悩んでいる。さらに、昭和26年6月頃から戦争は終結に向かい、この好景気にも終止符が打たれた。世界市場の鯨油価格はトン当たり8万円と半値に下落し、国内向けの鯨肉もだぶつきを見せ始めた。日水の捕鯨部門の売上高は約23億円まで落ち込み、総売上に占める比率も44%まで低下している。生産された3万5千トンの鯨油はほとんどがストックとなって眠ることになり、日水、大洋両社とも銀行から借り入れた資金の返済猶予を受けたほどである。


 翌昭和27年(1952)の第七次南氷洋捕鯨でも鯨油価格は低調で、油槽船の傭船価格上昇もあって捕鯨船団の気勢は上がらなかった。操業も順調とは言えず、年が明けても鯨影を求めて漁場を転々とする日々が続いた。


 3月に入ると、やがて冬を迎える晩秋の南氷洋は蓮の葉状の海氷が浮かぶようになり、夜も長くなって天気の良い日にはオーロラが見える。冬にかけて発達する亜熱帯高圧帯から流れ込む暖かい空気が寒冷前線を活発化させ、暴風圏はまさにその名の通りの様相を呈し始める。

 操業日数をあと数日残すのみとなった昭和28年(1953)3月上旬、日本水産の図南丸船団は鯨群を追って、危険を冒して結氷間近のロス海に突入していた。付属冷凍工船摂津丸(9,329t)はまだ満載に程遠い状況だったが、日を追って季節風が強まり、船団は時化で休漁となる日が多くなっていた。


 そして、3月7日午前10時頃、摂津丸の機関室で大事故が発生した。バルブの修理中に見習い機関員の手で誤って海水吸入口のキングストン弁が開放(分解)され、猛烈な勢いで海水が噴出し始めたのである。

 キングストン弁(*4)は、主機や補機の冷却水として用いる海水吸入の元弁である。直径8インチ(約20センチメートル)のパイプから噴き上げる零下の海水は、機関室中段の天井にまで達した。手でボロ布や毛布を抑えつけた程度で防ぎきれるものではなく、丸太で作った木栓を打ち込もうとしたが猛烈な水圧に阻まれて失敗した。船底の海水吸入口を塞ぐため、防水蓆(せき)(*5)を展開しようと試みたがこれも上手くいかなかった。船底の調査のため氷点下に達する海水中に潜水夫が降ろされたが、折からの荒天で動揺が激しく水中での作業は不可能だった。


 浸水量は排水能力を上回り、まずボイラーが、ついで発電機が海水に浸かって機能を停止した。電源が断たれたためポンプはもとより照明も消灯し、この時点で摂津丸の運命は定まった。まもなく主機のディーゼルも動かなくなり、摂津丸の幹部は浸水を防ぐことが絶望的だと判断、防水作業を中止して一般船員と作業員を退船させることにした。この日は南氷洋の3月には稀な晴天で海は凪いでおり、全乗員は無事に退船できた。

 幹部船員は摂津丸の船橋で今後の処置を話し合っていたが、一等航海士の計算では沈没は12時間以内ということだった。冬の足音が近づく南氷洋の夕暮れは早く、船長が総員退船の命令を下した時、すでに周囲は闇に溶け込もうとしていた。


 摂津丸は戦争中に日立造船因島で建造された戦時標準船であるが、陸軍特殊船として建造されたためかロイド検査にも合格するほどの堅牢な船だった。船内の七千立方メートルに及ぶ冷凍貨物倉も浮力体の役目を果たしていたものと思われるが、一等航海士の予想に反して三日経っても四日経ってもまだ浮いていた。川崎船が船尾に張り付き、船内に残されたものを少しずつ運び出していた。

 船体中央に船楼を持つ三島型の船で機関室も中央部にあったため、浸水は均等に進行していた。監視にあたっていた船団の随伴タンカー玉栄丸の乗員は、摂津丸舷側の甲板やや下あたりに引かれていた白線を見て沈み具合を計っていたという。


 キングストン弁事故から一週間が経過した3月13日の寒い時化の早朝、摂津丸に最後の時が訪れた。監視にあたっていた玉栄丸は汽笛を吹鳴しながら沈みつつある僚船の周囲を旋回し、全乗員が甲板に整列して見守る中、摂津丸は波飛沫を吹き上げて船尾から沈み始め、やがて船首を上にして船体を垂直に立てると、引きずり込まれるように海面から消えていった。後に残ったのは、僅かな油膜と白く湧き立つ大きな渦のみであった。時間は午前6時44分、沈没位置は南緯67度08分、東経162度47分、スコット島の東北東約750キロメートルであった。


 こうして摂津丸は積荷の鯨肉3,800tと共に失われた。この事故の責任を取って船団長は引退、船長、機関長や船団幹部は減俸処分となった。しかし、日水はすぐさま摂津丸代船の建造に着手し、この年の11月に冷凍工船宮島丸(8,964t)を竣工させた。同船は最高速力17.3ノットを誇り、冷凍処理能力も摂津丸を上回って船団の能力向上に一役買った。まさに災い転じて福となす、である。

 そして翌々年の第九次南氷洋捕鯨(1954/55漁期)において、日水の図南丸船団は後塵を拝し続けていた大洋の日新丸船団にシロナガス換算61頭の差をつけ、初めて生産量でライバルを上回ることができたのである。




-***-


*4…船舶の海水取水弁に持ちいられるバルブの通称。その由来は複雑な経緯を持つが、キングストン社の製品が有名だったこともあって、こう呼ばれることが多いようだ。


*5…キャンバスにロープをつけたものが代表的で、軍艦ではあらかじめ準備されている場合があるが、通常はありあわせの材料で応急的に作成される。破孔など浸水箇所の外板にキャンバス部分をあてがってロープで固定すると浸水量の減少が見込めるため、防水処置として古来より用いられる手段。

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