第一章 食料戦士の名の下に 1.敗戦、そして(2)

2.「長門」貸します

 戦後の深刻な食糧危機の解決方法として、当時もっとも有力視されていたのが捕鯨であった。戦前から日本人の蛋白摂取量のほとんどは水産物によるものであり、飢えた国民に蛋白質を供給できる見通しが立つ唯一の方法でもあった。

 しかし、戦争終結直後の昭和20年9月に連合軍総司令部(GHQ)が出した「日本の漁業、捕鯨業の認可された区域に関する覚書」によって、日本漁船に許可されていたのは日本近海の一定水域内における操業のみであった。通称『マッカーサー・ライン』の設定である。捕鯨船やトロール船のほとんどが特設特務艇として徴用され、全滅に等しい被害を受けていたこともあって、日本の遠洋漁業は文字通り手も足も出ない状態だった。


 まず動き出したのは大洋漁業である。戦前は「まるは」の林兼商店として名をはせ、南氷洋捕鯨専門の大洋捕鯨を設立して南氷洋捕鯨の立役者となった。戦争中の漁業統制には最後まで抵抗し、昭和18年(1943)に林兼商店の内地水産部門と大洋捕鯨などを統合して西大洋漁業統制株式会社となった後、戦後水産統制令が撤廃されると西大洋漁業株式会社と名を変え、最後に「西」を取って大洋漁業の社名に落ち着いた。

 大洋漁業は統制会社設立の際、冷凍・冷蔵設備の買収に応じず、水産物の販売に対しても介入を許さなかったため、戦後の経営の立ち直りは比較的早かった。一方、戦前捕鯨のもう一人の立役者である日本水産は、戦争中「食料報国」の社是の下、経営の要である冷蔵・冷凍、加工・販売部門を統制会社に譲渡しており、戦後は占領政策による自主経営の大幅な制限を受けたため、再建に一歩遅れを取っていた。


 大洋漁業は戦前の実績と経験を元に、小笠原捕鯨の基地捕鯨の許可をGHQに申請した。そして、昭和20年(1945)11月3付で日本本土の捕鯨基地を利用した近海捕鯨の許可を得た。11月30日には小笠原諸島を含む三万平方海里において操業する特別許可を得ることができたが、捕鯨海域はもとより、そこに到達するまでの航行区域までもがGHQによって定められていた。さらに、当時日本の領土ではなかった小笠原諸島の「領海」3海里(*3)以内に入ってはならない、との条件がついた。期間はこの年の12月1日から翌21年3月末までとされた。


 大洋が小笠原の母島に持っていた戦前からの捕鯨基地が利用できないとあっては、捕獲した鯨を処理するために捕鯨母船を持っていかなければならない。当時、大洋漁業をはじめ日本水産、極洋捕鯨の捕鯨三社は戦争で母船をすべて失い、手元にはわずかな数の捕鯨船を残すのみとなっていた。

 社内ではさまざまな母船の案が検討され、大きな筏の上で解剖する、捕鯨船を空母のように改造し甲板の上で解剖するなど、奇想天外な方法が真剣に議論された。最終的に、捕った鯨を舷側に吊り下げて解体する方法が検討され、現状ではこれが最適ではないだろうかという話にまとまりかけていた。もっとも、舷側解体はかつて19世紀にアメリカの捕鯨船が行っていた方法だが、鯨油の採取に主眼を置いたものであるから、鯨肉を食用にしたい日本には適さないというのが実情であった。


 ちょうどその時、横浜の浅野ドックで修理中の捕鯨船の隣にスリップウェイのついた軍艦がいる、という情報が持ち込まれた。それは都合がいい、何とかしてそいつを借りられないだろうか、ということになり、早速第二復員省(元海軍省)の軍務第三課に話を持ち込んだ。「鯨を取るから軍艦を貸して貰いたい」との申し出は、戦争中は元よりおそらく大日本帝国海軍始まって以来のことであり、請われた方は突拍子もない話に驚いたことであろう。


 しかし、「よし、何でも貸してやる」と示されたリストを見て、申し出た方も仰天した。なんと第一行目に『バトルシップ・ナガト、三万三〇〇〇トン、八万馬力、ダメージ』と記されていた。年明けて昭和21年(1946)1月のことである。




-***-


*3…上陸を禁止された、12海里(12kmの誤りか?)など資料によって異なる。


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