第一章 食料戦士の名の下に 1.敗戦、そして(3)

3.一等輸送艦奮戦す

 鯨を取るのにそんなに大きな船は要らない、こんな格好をした船だと説明すると、「その船なら横須賀にいる」と紹介された。翌日早速探しに行ったが、それらしい船は見当たらない。折悪しく、ちょうどその前日に入渠修理のため呉に回航されていたのである。

 こうして白羽の矢が立ったのが特別輸送艦第十九号こと、元一等輸送艦(*4)第十九号である。一等輸送艦はガダルカナルの戦訓を元に、敵制空権下での島嶼への強行輸送を目的として建造された高速重武装の輸送艦で、搭載する大発(*5)4隻を短時間で降下させるため艦尾にスロープが設けられていた。これを捕った鯨を引き上げるスリップウェイの代わりに使い、甲板上で解体作業を行なおうというものである。

 昭和20年5月16日に竣工して以来、戦争中は瀬戸内海で回天の輸送、戦後は武装を撤去して復員輸送に従事していた十九号は、元海軍軍人の艦長以下全乗組員80名が、艦もろとも大洋漁業に貸与されるという前代未聞の事態を迎えることになった。何しろ前例のないことであり、元軍艦であるから検査証書もない、救命設備もない、総トン数も分からないという状態でのスタートであった。


 それでも十九号は翌昭和21年(1946)1月下旬から呉の旧海軍工廠で改装を開始、どうにか捕鯨母船の形を整えて、2月半ばには下関唐戸に入港し燃料を搭載した。当時、燃料事情は極度に逼迫しており、C重油の入手は困難であったため、魚油、大豆油、クレオソート、コールタールなどを混入したものを使用したという。そして2月24日、マストに大洋の社旗と軍艦旗を掲げた急造の母船は、進軍ラッパを高らかに吹き鳴らし、日新丸行進曲と軍艦マーチを流しながら漁場に向けて出港した。当日の新聞は『回天鯨取りに行く』との大見出しで報じたが、『帝国海軍のなれのはて』と余計な一言を書いて十九号乗組員の怒りを買った。


 一方、船団を構成する各船も相次いで各地を出港し、小笠原諸島の母島付近で母船と合流、捕鯨船団を組んだ。文丸(359t)、第二関丸(359t)の2隻の捕鯨船と、70~80tの木造鯨肉運搬船新生丸級5隻、処理船第35播州丸(998t)の計8隻という小所帯で、船団長はこれを『おもちゃのような船団』と評している。こうして、世界捕鯨史上初の小型母船式捕鯨が開始されたのは3月1日のことであった。


 この時期の小笠原近海はうねりが高く、北東の季節風が吹き荒れていた。母船は燃料節約のため常に母島付近で漂泊していたが、平底のためか波に叩かれる振動が激しく、まもなくジャイロコンパス、ついで撤去されずに残っていた二二号電波探信儀が壊れてしまった。武装を下ろしたため喫水が浅くなっており、潮流によって捕鯨船よりも早く流され、捕鯨船と母船が互いの位置を見失うことも多かった。


 捕った鯨は塩蔵にして運搬船で東京にピストン輸送されたが、何しろ木造船である。第一新生丸は母船の四角い船尾に接触、機関室に大穴を開けられ大破した。魚箱の蓋とキャンバスで応急修理の後、僚船の第七十六新生丸に付き添われて東京に向かったが、これが小笠原捕鯨で得られた鯨肉の内地向け第一便となった。本来第一便となる予定だった第三新生丸の如きは、同じく接舷時の衝撃で「撃沈」されてしまっていた。残りの運搬船も母船との接舷時に受けた損傷であちこちが小破し、満身創痍の見るも無残な姿であったという。

 また、母船の狭く傾斜した甲板の上での解体作業は困難を極めた。剥き出しの鉄板は太陽に熱せられ、その上で処理するため鯨肉が腐って異臭を放ち、倒れる作業員も出た。さらに燃料や清水を消費するにつれて重心が上昇し、ローリングが激しくなった。52フィート(15.8m)のマッコウ鯨1頭を引き上げるのに、何回も転げ落ちて半日以上かかったこともあったという。


 そして4月18日、燃料欠乏のため捕獲頭数113頭、油肉その他の生産量1,005トンをもって操業は切り揚げとなった。八丈島で作業員を捕鯨船に移して捕鯨船はそれぞれの母港へ向かい、十九号は下関を出港してからちょうど2ヶ月後の4月23日、東京へ帰港した。『ボロ雑巾のような』と酷評されたものであったが、東京ではこの塩蔵鯨肉が臨時配給され、食糧不足の中では貴重な蛋白源となった。


 翌昭和22年(1947)、大洋漁業は十九号に加え、十六号も動員して小笠原捕鯨を開始する。前年の「戦果」に懲りたのか、一方が母船となって操業している間、他の一隻は運搬船となって東京に鯨肉を輸送するという方法を取っていた。

 この年は極洋捕鯨も十三号を捕鯨母船に改装、日本水産と共同で捕鯨船団を仕立てて小笠原捕鯨に加わった。この頃撮影されたと思われる写真に、船尾のスロープ端部に「ハ」の字型のガイドを設け、スリップウェイ代わりとした一等輸送艦が写っている。


 しかし、敗戦国である日本は、残存した海軍艦艇を戦勝国である連合国4ヵ国(アメリカ、イギリス、ソビエト、中国)に引き渡すか解体処分し、海軍そのものを解体する戦後処理を行う必要があった。復員輸送と掃海任務にほぼ目処が立った21年夏以降、特別保管艦の指定を受けた駆逐艦以下の元海軍艦艇150隻が各地に集結を開始した。そして翌22年の7月から10月にかけて、最終集結地の佐世保からそれぞれの引渡し場所に向かって出港していった。

 捕鯨に従事したこれら元一等輸送艦もその例に漏れず、九号がアメリカ、十三号がソ連、十六号が中国、十九号がイギリスに引き渡された。ソ連と中国はそれぞれ自国の海軍艦艇として使用したが、アメリカとイギリスはスクラップとして日本の造船所に売却、十三号が昭和22年(1947)12月、九号が翌23年6月に解体されている。なお、昭和23年の小笠原捕鯨は、大洋漁業が賠償艦の指定を受けた九号を母船として行っている。


 こうして、一等輸送艦を母船とした小笠原捕鯨は終わりを告げた。戦後に残存した一等輸送艦6隻のうち、復員輸送中の21年9月に台湾の澎湖諸島で座礁放棄された二十号と、未成のまま解体された二十二号以外の全艦が捕鯨母船として捕鯨事業に従事したことになる。終戦直後の食糧難を支えた彼女達の活躍はほとんど知られていない。




-***-


*4…一等輸送艦要目

排水量:1,800t

全長/全幅/喫水:89m/10.2m/3.6m

主缶:ホ号艦本式2基

主機/軸数:蒸気タービン1基1軸

出力:9,500hp

最大速力:22kt

武装:

 40口径12.7cm連装高角砲1基

 25mm機銃3連装2基、連装1基、単装4基

荷役装置:

 前檣:5tデリック2基(後位)

 後檣:13tデリック1基(後位)、5tデリック2基(前位)


*5…大型発動機艇の略。全長14.6m、全幅3.35m、排水量約20t、搭載量10t、速力約8kt。第二章の「三 極光の下に日の丸揚げて」注6参照。

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