戦標船南氷洋を行く -日の丸捕鯨船団の戦い-

天翔

第一章 食料戦士の名の下に 1.敗戦、そして(1)

昭和20年8月15日の開戦


 昭和20年(1945)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾、太平洋戦争は終結した。この日、日本の主義主張を賭した戦いは終わり、日本が生き延びるための戦いが始まった。


1.終戦直後の食糧事情

 敗戦の衝撃を日本人の心に刻み、昭和20年の夏は終わりを告げた。しかし、収穫を祝うべき実りの秋はやってこなかった。生産設備の軍需転用や戦災による肥料の供給不足、徴兵による労働力不足に加え、夏には冷害と風水害が日本列島を襲い、稲作、畑作共に明治38年(1905)以来40年ぶりの凶作となった。冷害の原因は親潮の南下といわれており、イワシやサバなど大衆魚の魚影も沿岸を遠く離れ、漁船と労働力の徴用、戦災や燃料油不足で水産業が弱体化していたこともあって、漁獲高は大きく減少した。

 さらに、総計650万人を数える海外からの復員と引揚が始まり、流入する人口が食糧不足に追い打ちをかけた。日本は戦前でさえ年間の食料消費量のうち、およそ2割を植民地や海外からの輸入に頼っており、敗戦によってこれらが絶たれた今、食糧危機は、現職の大蔵大臣が新聞紙上で餓死者1,000万人の可能性を公言する事態に至っていた。


 終戦当時、主食の配給は1人1日に米2合1勺(*1)(297g)と定められていた。この年の7月、食糧不足からそれまで2合3勺(330g)だった配給を、1割減配としたものである。この2合3勺という数字ですら、昭和16年(1941)4月の配給制度施行時に、当時の米の供給量を基準に1人当たりの割当量を算出したもので、必要カロリーを考慮した数字ではなかった。前年の昭和15年における1人当たりの米の消費量は約3合(約450g)であり、およそ3割の減少である。当初は各家庭で副食を購入することで補えたものの、戦況が厳しくなるにつれて食料を手に入れることが困難になり、配給への依存度が高くなってくると、摂取カロリーの問題が露呈し始めた。

 米はつき減り防止のため七分づき玄米とされていたものが、やがて五分づき、二分づきと次第に黒くなり、総合配給と称して麦、とうもろこし、大豆、さつまいもなどの雑穀が代替食糧として配給されるようになった。これら代替食糧がカロリーではなく、米との重量比を基準に配給されたこと、戦争末期には大都市における配給の半分以上が代替食料となっていたことが、摂取カロリーのさらなる低下を招いた。遅配欠配も日常茶飯事であり、この年の東京における主食の平均遅配日数は18.9日であった。


 戦前に厚生省が発表した「日本人栄養要求量標準」によれば、『日本人平均一人一日栄養要求標準』は熱量2,000Cal(*2)、蛋白質70gとされ、標準的な労働者はそれぞれ2,400Cal、80gが必要とされていた。しかし、昭和20年の国民一人当たりの栄養摂取量は1,793Cal、65.3gと、その数字を大きく割り込んでいた。 しかも、配給食糧だけで得られるカロリーはその半分強でしかなく、人々は闇物資で糊口をしのいでいる有様だった。




-***-


*1…米1合=10勺=約150gで数値が一致しないが、メートル法で算出した数字に尺貫法を適用したため。依然尺貫法が市場で通用していたための措置であろう。


*2…現在と単位が違うように思えるが、かつては1文字目を大文字"C"で表記した場合kcalを意味していた(大カロリー,1Cal=1kcal=1,000cal)。紛らわしいとの理由で使われなくなったが、確かにカタカナ表記がなされるとどちらの意味か分からなくなる。

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