第7話 ……お久しぶりです

 ――次の日の朝。


「はぁ……」


 目が覚めてから、もう三十分くらいは経っただろうか。


 さっきまでぼんやりとしか見えていなかった天井が、今では、はっきりと見えている。


「…………」


 このぼーっとする時間が、実は好きだったりする。なんというか、『無』になれるから。


 そんな状態が数分続いた後、俺は枕元のスマホを手に取った。


 目覚ましが鳴る、ちょうど五分前。


 朝に弱かったはずなのに、ここ数日はスッキリと起きられるようになっていた。


 高校生になったのだから自分で起きろ。という教育方針の元、誰かが起こしに来ることはなくなった。


 そのせいで、一年生のときに何度遅刻したことか。


 宏也ひろやに“遅刻常習犯”と言われる理由がここにある。


(……未奈あいつも朝に弱いから、いずれ同じ道を通るんだろうな……)


 頑張れ、妹よ。お兄ちゃんは応援してるぞっ。


『はっくしゅん!!』


 ……ん? まあいいや。


 俺はベッドから起き上がると、一度伸びをしてからカーテンを開けた。


「うっ……」


 すると、眩しい日差しに顔を腕で覆った。


 まさか、朝がこんなにも待ち遠しいなんて……とてもいい気分だ……っ。


「……よ~~~しっ!!!」


 それからの俺の行動は早かった。


 まず洗面所で顔を洗い、その後、いつものように制服に袖を通して鏡の前でチェックすると、軽い足取りでリビングへと向かった。


「母さん、おはよっ!」

「あらっ、制服に着替えたりなんてしてどうしたの? 今日、学校でなにかあるの?」


 と、母さんの口から意外な言葉が飛んできた。


「ん? なにかって、普通に授業だけど」

「え? 今日は休日よ?」

「…………へっ?」


 思わず素っ頓狂な声が漏れてしまった。


(? ……あ、もしかして……っ)


 慌てて、リビングの壁にかけてあるカレンダーを見た。


(月、火、水、木……金…………土………………)


 あ、あれ~? 今日って……土曜日なのか? 思いっ切り金曜日の感覚だったんだけど……。


 母さんの方を見ると、ニコッとした笑顔が返ってきた。


 ということは、そういうことか。なんだか、得した気分だ。


「……って、そういえば、未奈は?」


 こういうときに毎回ウザ絡みしてくる妹の姿がなかったのだ。


「未奈なら部活よ。帰って来るのは夕方って言っていたかしら」

「そっか」


 未奈はバスケ部に入っていて、なんとキャプテンをしている。


 後輩たちから慕われているようだが、最初はそれが信じられなかった。


 あるとき、母さんと一緒に試合を見に行ったことがあるのだけど。家にいるときとのギャップがあり過ぎて、俺は目を疑った。


 家でのあいつは……


『お兄ちゃ~ん、アイス買ってきて~っ』

『自分で買って来い』

『お兄ちゃ~ん、未奈動けないから部屋までだっこして〜♪』

『お前重いから――――ぐはっ……!!』

『お兄ちゃ~ん、私の代わりに宿題やって~っ。チューしてあげてもいいから~っ♡』

『それくらい自分でやれぇ~いっ!』


 ………………。


 妹が兄に『チュー』とか気軽に言っていいのか?


 ふと頭に浮かんだ疑問について考えていると、


「あっ、言い忘れていたんだけど」

「ん?」


 前置きをしてから、母さんは言った。




 ――彼女の名を。




「“つぐみちゃん”。今日来るみたいよっ♪」

「……っ!! つぐみ……」

「未希人? どうかしたの?」

「いっ、いや、なんでもない……。顔洗ってくる……」


 リビングを出て洗面所に来ると、手のひらに貯めた冷水を顔に当てた。


 とっくに目は覚めていたけど。なんとなく、そうしたい気分だった。


 バシャ……バシャ……。


 ……怖がっているのか。彼女に会うことを……。


 バシャ……バシャ……。


「………………………………………………………………」


 水を止めて顔を上げると、鏡に自分の顔が映った。


 ………………怯えている顔だ、俺は。




 それから、数時間。


 昼食を食べ終えて部屋のベッドに横になっていると、


 ピンポーン。


(……来た)


 玄関の方からインターホンが鳴ると、


「はぁ~いっ」


 扉の向こうから、廊下を通って玄関に向かう母さんの声がした。


 今日来るのは、母さんが学生の頃からの付き合いで、大親友の沖原おきはら梨恵りえさん。


 と、もう一人…――


 コンコンッ。


 ノックされて扉を開けると、




「……お久しぶりです」




「……っ!!」


 ……彼女が立っていた。


 沖原おきはらつぐみ。


 俺が……中学のときに“付き合っていた”女の子だ。


 年は、凛々葉ちゃんと同じで一つ下。


 整った顔立ちと、彼女の特徴と言っていいツヤのある綺麗な黒髪。


 今はショートだけど、あの頃はロングだった。


 髪の長さが違うだけで、パッと見たときの印象って変わるんだな。


 そんなことを考えている間、


「…………」


 真っすぐな瞳が向けられていた。


「!? ……ひっ、久しぶりっ。元気だったか……?」

「はい。先輩は……?」

「俺の方は、まぁ……ぼちぼちってところかな……」


 本当は絶好調なのだけど……。


 さっきだって、今日が休日だと気づかずに、制服に着替えちゃったし……。


「先輩」


 すると、彼女は徐に顔を近づけてきた。


 それによって、彼女の髪からフワッといい香りが――




「新しい彼女、できたんですか」




「え? …………ッ!!!???」


 いきなり、なんだ……!?


「ど、ど、どうしてそんなこと聞いてくるんだっ!?」


「……女のかんです」

「かっ、勘?」


 なんだよ、まったく……。びっくりした……っ!!


 ……でも、女の勘ってあなどると痛い目に遭う気がするのは……気のせいだろうか。


「その様子だと、できたんですね……」

「!!? えーっと………………うん」

「そう……ですか……」


 ……どうして、そんな悲しそうな顔を…――


「二人とも~っ。美味しい和菓子があるから、一緒に食べましょうーっ」


 リビングの方から聞こえてくる、俺たちを呼ぶ声。


「……行くか」

「……はい」


 つぐみを連れてリビングに来ると、テーブルを挟んで向かい合うように座った。


「二人でなにを話してたのー?♪」


 ……母さん、そこには触れないでもらえると大変ありがたいのだけど。


 ここだけの話。親たちは、俺たちが昔付き合っていたことを知らない。


 二人が知ったら大喜びする姿が想像できるが、お互いに初めてのお付き合いということもあって、周りにはバレないように心がけていた。


 今思えば、単純に恥ずかしかったのかもしれない。


 恋愛をしている自分たちを見られることが……。


「えへへ~っ」


 あ。


「り、梨恵さん、いらっしゃい」

「未希人くんっ、久しぶりだね。また大きくなった?」

「そんなにすぐ背が大きくなったりしませんよっ」


 今年の年始に会って以来なのだから。


「そうじゃなくてっ! なんというか、余裕があるみたいな?」

「え?」


 余裕があるって、どういうことだ?


 梨恵さんは袋から箱を出すと、テーブルの真ん中に置いた。


「はい、これっ。ここのおまんじゅう、未希人くん好きでしょ?」

「あっ、はい」


 さっきから内心ドキドキだが、これは素直に嬉しい。


 ここのまんじゅう、美味しんだよなーっ。


「えっと、いただきますっ」


 と言って箱の中に手を伸ばしたとき、


「「あっ」」


 つぐみと軽く手が触れた。


 どうやら、取ろうとしたまんじゅうが同じだったらしい。


「……どうぞ」

「いやっ、どうぞ、どうぞっ」

「……先輩の方が早かったです」

「っ……じゃっ、じゃあお先に……」


 俺が一つ取ると、彼女は別のまんじゅうを取って食べ始めた。


「………………」

「………………」


 隣で和気あいあいと喋っている親たちを余所よそに、二人の間にぎこちない空気で漂っていた。


 すると、それを察したのか、梨恵さんが話を振ってきた。


「未希人くんっ。つぐみ、この日のためにイメチェンしてきたんだけど。どうかなー?」

「……お母さん、今そんなことを話す必要ない……」

「いいじゃ~んっ。せっかくの初お披露目なんだからさ~♪」

「…………」


 つぐみは顔を俯かせたが、その頬が若干赤く染まっているような……


「ねっ、ねっ! 感想を教えてぇ~」


「っ……えっと……にっ、似合ってるんじゃないか……?」

「だって♪ 切った甲斐があったわねっ」

「…………」


 二人が実の親子と言っても、初対面の人は正直信じないだろうな……。


 それぞれの反応が月と太陽かってくらい違うのだから。


 ブゥウウウーッ。


(…………ん?)


 ポケットの中でスマホが揺れたので、テーブルの下でこっそり画面を点けると、メッセージの相手は凛々葉りりはちゃんだった。


『先輩、今から会えますか?』


 おぉ……っ!! ここから出る、絶好のチャンス!!


『いいよ。待ち合わせ場所はどこにする?』


 それからやり取りを終えて、そっとスマホを閉まった俺は、徐にイスから立った。


 すると、三人の視線が一斉に向けられた。


「未希人、どうしたの?」

「……じ、実は、これからちょっと予定があるんだ。だから……出かけてくる」

「え、そうなのー?」

「あら、残念〜っ。もっといろいろ話したかったのにっ」

「あはは……じゃあ俺はここで……っ」

「しょうがない。未希人くん、またね」

「梨恵さん。おまんじゅう、ごちそうさまでしたっ」


 きちんとお礼を伝えてから、俺は扉へと体を向けた。


「………………………………………………………………」


 つぐみのじーっとした視線を感じながら、俺は足早にリビングを後にした。


(はぁ……)


 それは、元カノに見送られながら今カノに会いに行くという、なんともいえない状況なのだった。

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