第29話 愛国者たち ⅲ
観衆が静まり、イワンがアテナに向き直る。
「幸福か? 死か? 選びなさい」
フチン国民が皆、彼女の返事を待った。
茶番だ。答えがどちらであれ、イワンは彼女を殺すに違いない。……ユーリイは思った。
アテナの唇が震えていた。それが開くと明瞭な言葉がこぼれた。
「死を……」低い声を、マイクは拾った。
イワンは目を瞬かせ、スタジアムのあちらこちらでため息が漏れた。
アテナがイワンに向かってツバを吐きかける。彼はそれを手の甲で拭い、観衆に向いた。
「愛すべきフチン国民諸君! 聞いての通りだ。彼女は死を選んだ」
さも残念そうに首を左右に振ってみせた。
「ジャンヌダルクに死を!」「殺せ!」方々で同じ声が上がり、やがてそれは音楽の合いの手のように共鳴していく。
「殺せ……、殺せ……」
興奮した観衆は足を踏み鳴らし、その声はひとつになった。そうした行動に顔をそむける者もいたが、それは極わずかだ。
――殺せ……、殺せ……――その声はスタジアムの高い壁を越えてそれを取り巻く群衆をも揺るがした。そしてテレビを視る者たちを巻き込んでいく。
――殺せ……、殺せ……――
闘争本能を弱者に向ける大衆に、ユーリイは吐き気を覚えた。
「愛すべき国民諸君!……」
イワンが右手を掲げると、スタジアム内の声が止んだ。皆、イワンの次の言葉を待った。
「……平和維持軍の兵士を殺した彼女は万死に値する。……しかし、私は彼女を許そう。慈悲を与えよう。……彼女はドミトリーにそそのかされ、悪党どもに騙されてここに来たからだ」
――ウォー……、イワンの宣言にスタジアムが揺れた。
「神はのたまう。哀れな子羊を許せ、と……。私の決断に異議のある者はその場で立ち上がれ。賛同する者は、賛同の声をあげよ!」
イワンの声の後に、ましてや神を引き合いに出して慈悲を理由にするイワンに、堂々と異議を唱えることができる者などなかった。スタジアムが水を打ったようになったのは一瞬のこと、すぐに「賛同」「賛成」の声が方々から上がり、イワンの優しさを賞賛する拍手でスタジアムが満たされた。
「ありがとう、フチン国民諸君。フチン民族の包容力の深さに私は感謝する。私は哀れなアテナを許し、彼女の献身を尊び、苦境下にあるユウケイの民も救おう。平和維持軍の軍事行動を3日間停止し、エアロポリスやその他の街の地下壕で怯える市民を安全な大地へ退去させよう」
彼が指を鳴らすと親衛隊が現れ、アテナの
「正義は我らにあり、大フチンに栄光あれ!」
イワンが声を上げると、観衆も叫んだ。
――正義は我らにあり、大フチンに栄光あれ!――
大フチンだと。……ユーリイはイワンの意図を知っている。だからこそ、目の前で繰り広げられる茶番劇に罪の深さを覚えた。かつて経験したことのない感情でめまいを感じたほどだ。何かが間違っている。そんな気がした。
「我々はフチン聖教の教えに学ぼう」
イワンが手を上げ大司教を呼んだ。今の大司教は、セントバーグはフチン聖教が生まれた聖地であり、大フチン帝国の版図は神がフチンの皇帝に授けた領土だと主張している。
神や大司教に関心のないユーリイは、ドルニトリーの席に足を運んだ。
「ユーリイ、どうしました?」
「ドルニトリー、先ほど連れていかれたユウケイの女だが、諜報部では彼女の経歴をつかんでいるのか?」
彼が顔を曇らせた。
「いいえ、もともと一般市民らしく、これといった情報はないのですよ。あるのはユウケイ側が国民向けに動画で公表したものだけです。それを信じるかどうか、というところだが、私はおおかた信じていいと考えています」
「アテナの身柄は親衛隊が管理しているのか?」
ユーリイはドルトニーに尋ねた。
「今日からはそうです」
「今日から?」
「それまでは秘密警察が管理していたのですよ。このイベントのために、親衛隊に移されたのです。大統領が練った企画に、彼女を登場させるためです」
「なるほど……」
親衛隊なら顔が利く。ひとつアイディアを思いつき、ミカエルに声をかけた。軍事作戦が上手くいかず焦っている彼に取引を持ち掛けたのだ。ユウケイ戦争を終わらせるための大胆な取引だ。
ミカエルの目に一瞬喜色が浮かんだのをユーリイは見逃さなかった。しかし彼は顔を石のように固めて、「少し考えさせてくれ」と返事を渋った。
「今のままでは、勝っても負けても、君にとって良いことはないだろう」
ユーリイはささやき、自分の席に戻った。
大司教の説教が続いている。それを横目に、親衛隊長に電話を掛けてアテナの処遇を確認した。イベントの後、彼女を利用したメッセージビデオを作るらしい。
「ありがとう。私もビデオ作りに参加させてもらうよ」
電話を切ると、ドルニトリーが話していた動画を探した。
一般国民には遮断されたインターネットサイトも、秘密警察に籍のあるユーリイはその権限で視ることができる。目的の物はすぐに見つかった。ユウケイ政府が国民向けに、アテナ自信に語らせたものだ。
アテナは、生まれ故郷のミールが戦争の初日にミサイル攻撃の被害にあい、両親と子供を失ったと話していた。防衛軍に志願した夫も東部戦線で戦死したらしい。とつとつとユウケイ語で話す彼女の顔や口調に懐かしいものを覚えた。50年以上前に別れ離れになった母親の面影だった。
アテナの家族の話はともかく、侵攻の初日にミールの町にミサイルが撃ち込まれた事実は、ユーリイが持つ情報と一致していた。彼女の話は信用していいのだろう。
「ミールか……」
眼を閉じて幼いころの記憶を開いた。大フチン帝国の圧政下、地方の共和国はどこも貧しかった。餓死する者がいたほどだ。ユーリイの家も貧しく、そのために彼は5歳の時にフチン人の商人に売られた。最後に見た母親の顔を思い出す。それがアテナのそれと重なった。
「……フチン正教の聖地であるセントバーグは、フチン共和国の一部なのだ……」
現実離れした大司教の説教が、右の耳から左の耳へすり抜けていった。
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