第30話 愛国者たち ⅳ
大司教がステージをおりると、代わってミュージシャンがステージに立った。それから1時間ほど音楽イベントが続いた。ユーリイは幼いころを思い、ミールを思い、ユウケイ戦争に気持ちをはせながら悶々と時を過ごした。
イベントが終わってもユーリイは席を立たなかった。ただ貴賓室を出ようとするミカエルに「君の決断にフチンの未来がかかっているぞ」と念を押すことは忘れなかった。
貴賓室にユーリイひとりきりになると、秘密警察官が3人やって来た。
「ユーリイ最高顧問、お待たせしました」
そう言ったのはアリシアだった。
「呼び出してすまないな。もう少しここで待ってくれ」
ユーリイはスタジアムに視線を向けた。外に出ようという観客が、まだ列を作っていた。スクリーンには平和維持軍の勇姿が映されている。
最後の観客が去ると、スクリーンの映像とステージ以外の照明は消された。ひっそりとしたステージ上に立つのはイワンとアテナ、それと親衛隊員が5人、その内のひとりはカメラを手にしていた。
先ほどとは異なり、アテナは
ユーリイはアリシアにひとつ指示を出し、彼女が暗い廊下の中に消えるのを確認してから、残りの秘密警察官を連れて薄暗いアリーナ席に入った。
ヨハンが座っているのを見つけ、その真後ろに腰を下ろす。それに気づいた彼が立とうとするので、その肩を抑え「私だ……」と伝え、その場から動かないように命じた。
ステージ上ではイワンが芝居に夢中のようだった。
「……愚かなドミトリー、そしてユウケイの国民たちよ、お前たちが女神と
イワンの声が無人のスタンドに反響した。
「……3日待ってやろう。ドミトリーよ、ユウケイ国民よ、賢明であれ。降伏、君たちに残されているのは、その道だけだ」
彼は十字架の周囲をゆっくり歩いた。
「……ドミトリー、降伏しなければ、お前が見るのはジャンヌダルクの最後の姿だ。己の命惜しさに
イワンが十字架上のアテナを見上げた。
スポットライトに照らし出された舞台を見ていたユーリイは、思わず笑い声をあげそうになった。それを抑えるために身体を前傾し、ヨシフの肩を抑えて耳元に顔を近づけた。
「自分が人を
ささやくように言った。
ヨシフは凍ったように動かなかった。イエスと応えればイワンを笑ったことになるし、ノーと応じればユーリイを否定したことになる。
「どう思う?」
肩を握る手に力を込めた。
ヨシフは何も言わなかったが、頭を縦に振った。
「よろしい。心配するな。イワンには話さない。本当に怖いものは何か、……誰かではない。何か、それを考えることだ」
そう告げて、彼の肩から手を離した。
背後の直接的な暴力に屈するのは、人間の自然な反応だ。それに
イワンは、なぜユウケイの地がフチン共和国の一部であるのか、フチン聖教の論理をもとに延々と語っていた。
「……従順なユウケイ国民にフチンの神は寛大である。大フチンに祝福あれ」
まるでイワンが神のようなストーリーで彼の舞台は終わった。
――パチパチパチ……、ユーリイは拍手を送りながら立ち上がる。
「イワン、イベントは大盛況だったな」
「ユーリイか……」
イワンが親しげに応じた後、「降ろせ」と親衛隊員に命じた。
「ジャンヌダルクを引き取りに来たよ」
話しながらステージに近づく。背後にふたりの秘密警察官が従っていた。
「面白くない……」イワンが苦々しげに言う。「……本来なら今日は、ユウケイ併合の式典になるはずだった」
「ミカエルは失敗した。そうだろう?」
「ああ、あいつは無能だ」
「まあ、そう言うな。人生、上手くいかない時もある。30年前を思い出せ。我々も失敗した。100年前の大フチン皇帝もそうだ」
話しながらステージに上がった。
楽屋側の通路からアリシアが車イスを押して入ってくる。ユーリイはアリシアと並んでステージの中央に向かった。
「思い出したくもない」
イワンが吐き捨てるように言った。
「思い出したくもない過去が、今の君を作ったのだ。大切にした方がいい」
「ユーリイは哲学者だな」
イワンが苦笑し、十字架から降ろされたアテナに眼をやった。彼女は瞳に憎しみを浮かべてイワンを睨みつけていた。
「怒った女性も美しいものだ。手放すにはもったいないが、君にかまっていられるほど暇ではないのでね」
イワンはそう告げるとユーリイに向いた。
「処分してくれ」
「ああ、そう言うと思ったよ。任せておけ」
「持つべきものは友、いや、よき参謀だ」
イワンが親衛隊を従えてステージを下りた。
アテナには手錠がかけられ、猿轡がされたままだった。ユーリイはアリシアにそれらを外させた。翼でもない限り、仲間のいないユウケイ人がこの国から逃げることなど不可能だ。
「私は秘密警察最高顧問、ユーリイだ。大統領から君の処分を託された。悪く思わないでくれ」
挨拶がてら、アテナの顔をまじまじと観察した。動画で見たときは母親に似ているような気がしたのだが、近くで見るとそれほど似ていない。
「フチン軍は無垢の一般市民を殺害している。それをあなた方は……」
彼女の瞳が怒っていた。良い眼だ、とユーリイは思った。
「恨んでくれてかまわん。命が惜しいか? それとも、ユウケイに帰る翼が欲しいか?」
念のために訊いてみた。
「いいえ、平和を」
彼女の声は誰もいないスタジアムに波紋のように広がった。
「そうか……」
ユーリイは、彼女を移送するようアリシアに命じた。
「アテナ、私の言うとおりにしてください」
アリシアが彼女を車イスに座らせ、頭から黒い布製の袋をかぶせた。
車イスを押す秘密警察官を先頭にユーリイたちはステージを下りた。後には輝く十字架だけが残った。その光景を、アリーナ席のヨシフが身動きもせず見ていた。
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