第22話 停戦交渉

 オリガの話は奇天烈きてれつなものだった。


「一昨日、フチンのアンドレ外務大臣から連絡がありました。確固たる人道回廊を保証する準備はあるが、それには条件がある。アテナを停戦協議団に加えろ、というのよ」


 アテナは面食らい、思わずドミトリーの顔に眼をやった。フチン語を強要されていた高齢者と違い、ユウケイ民主国が独立してから生まれたので、フチン語は日常会話程度しか解さない。政治的な難しい言葉や言い回しはよくわからないし、まして読み書きは、ほぼできないといっていい。


 当然、オリガから聞いて知っているのだろう。ドミトリーはアンドレが出した条件に驚くことなく、壁面の地図をじっと見ていた。


「どうしてアテナを?」


 カールがオリガに訊いた。


「それはわからない。ただ、彼女が参加することで、協議は前進するだろうと言うばかりなのよ……」


 納得できないのか、あるいはアテナを案じてのことなのか、カールは顔をしかめた。


「何のためにアテナを……、何か、裏があるのではないですか? 第一、フチンの言うことが信じられるのですか?」


「信じられるものか……」ドミトリーが憤りを吐き捨てる。「……しかし今は、可能なものは何でも試してみる必要がある。フチンは信じられないが、そこに一縷いちるの望みがあるのなら……、それを拒む状況にない。毒を食らっても、ひとりでも多くの国民を救いたい」


 振り返った彼がアテナを見つめていた。戦禍に苦しむ同朋を助けたい。それはアテナも同じ気持ちだった。


「わかりました。でも私、フチン語はよくわかりません。何をすればいいのでしょう?」


「私たちにもわからないのよ。とりあえず協議団の端に座って、話を聞いていてちょうだい。必要があれば記録係が、通訳なり、解説なり、対応するようにしておくわ」


 オリガの表情が緩み、声には明るさが戻った。交渉の進展を信じているのだろう。彼女の期待が、アテナには重荷に感じられた。


 ユウケイ民主国の停戦交渉団は大統領府事務官のボロゾフを団長に、上院議員のカテリーナ、統合参謀次長のアントロフなど8名で構成されていた。そこにアテナが加わることになった。


 アテナに真新しい軍服が支給された。それには本来あるべき2等兵の階級章がなかった。不思議に思って尋ねると、私の代理で行くのだから、とドミトリーに説明されて胸が熱くなった。


 交渉団が乗ったバスが出発してから、2等兵を国際会議に出席させるわけにはいかないからな、とアントロフが言った。……なるほど、と思った。


 停戦協議は、ユウケイ民主国とフチン共和国の両国に国境を接するヴァンベルト共和国で開かれていた。


 その国は、表向きは中立国だが輸入した天然ガスの支払いが5年分も滞り、実質的にはフチン共和国に従属的な状態にあった。ヴァンベルト軍はユウケイ民主国の侵攻に加わってはいないが、フチン軍の後方から食料や燃料の補給を担っている形跡があった。


 そのようなヴァンベルト共和国で停戦協議が開かれるのは、そこでなければ、フチン共和国が協議に応じないというからだ。フチンにとってはホームゲーム、ユウケイにはアウエーといえる。そうした条件を呑んでまで停戦協議を開かなければならないのは、戦況がユウケイ民主国側に不利だからだ。


 その日の停戦協議会場は有名なスキーリゾートのホテルだった。飛行機なら2時間で行ける場所だが、国境の空はフチン軍に支配されている。移動はバスを使うしかなかった。結果、戦地を避けて走るバス移動は、20時間を要する過酷なものだった。バスを降りた時、誰もが背中や腰の痛みを訴えた。


 会場のホテルは貸し切りで厳しい警備が敷かれていた。ロビーには世界各国のメディアが集まっていて眼が眩むほどのフラッシュを浴びた。アテナは、場違いな自分の存在に緊張感で身体をすくませ、長旅で覚えた筋肉痛を忘れた。


「安心して。私に着いていらっしゃい」


 カテリーナの申し出はとても心強かったが、それでも膝の震えは止らない。彼女の後を、生まれたばかりのヒヨコのように追った。


 フチン共和国の代表団は遅れてやって来た。総務庁長官のアデリーナを団長とする8名だ。


「あなたがアテナね。アテナは愛と戦いのギリシャの女神……」


 協議の冒頭から、アデリーナがアテナに鋭い視線を向けた。


「……来てくれて助かったわ。あなたには、人道回廊の安全を保障する条件として、フチン共和国に来ていただきたいのよ。特使としてね」


「特使?」


 突然のことに、アテナはもちろん、ユウケイ側の代表団は皆ぽかんとしてしまった。そんな代表団を一瞥いちべつし、アデリーナが話しを続けた。


「アテナの活躍は、わが国でも良く知られています。特に若者の間で……。それで是非、彼女の声をフチン国民に聞かせたい。そうイワン大統領が望んでおられるのです」


 唐突で奇妙な申し出だった。


 正気を取り戻したように、ボロゾフが口を開く。


「アテナを同道するのが、人道回廊の安全を保障する条件だったはずだ。だからこうして彼女はここにいる。すでに条件は満たしたはずだ」


「アテナをここに呼んでもらったのは、彼女の意志を確認するためです。安全保障条件のワンステップに過ぎないのですよ」


 アデリーナが切り捨てるように言ってアテナに眼を向ける。緑色の瞳がペットでも見るように笑っていた。


「どうです、アテナ。我が国はあなたが発言するステージを設けて待っているのです。来ていただけますか?」


 彼女の口調は穏やかなものに変わっていた。


 アテナは当惑した。フチン共和国に対する怒りや憎しみはあるが、それを彼らが用意するステージで言葉にできるとは思えなかった。何よりも、フチン共和国が発言する場を設けるという意図がわからない。ブロゾフやアントロフも同じなのだろう。アテナの瞳に映る彼らの表情にも困惑と疑問しかなかった。


「……アテナに何を話させようというのです?」


 ブロゾフが尋ねた。アテナが敵のプロパガンダに利用されると考えているのだ。


「もちろん、ひとりの英雄として、平和への思いを」


 アデリーナが澄ました顔で応じた。


「馬鹿な」


 ブロゾフが吐き捨てる。その行動にフチン代表団が色めき立った。


「馬鹿ですと? イワン大統領を侮辱するのか!」


「いや、そうではない……」


 ブロゾフが動揺していた。アテナも同じだった。こんなことで停戦協議が頓挫とんざしては困る。


 その時、アントロフが立った。


「ブロゾフ団長の非礼は私からお詫び申し上げる」


 その堂々とした力強い声で、フチン代表団が口を閉じた。


「とはいえ……」アントロフが続けた。「……アテナが貴国へ渡り発言するなど、この場で決められることではない。彼女にはそうした外交的権限など一切ないからだ。その件は持ち帰り改めて……」


「待て……」アデリーナが片手をあげて、彼の発言を遮った。「……アテナが発言する権限についてだが、すでに外交ルートでオリガ大臣の許可を得ている。ドミトリー大統領も同意していると聞いているが、異なるのか?」


 予想外の指摘に、ユウケイ側の協議団に緊張が走った。


「許可は得ています」


 突然、そう発言したのはカテリーナだった。彼女を見るアントロフが、眼を瞬かせた。


「議員、本当ですか?」


 訊いたのはブロゾフだった。


「あまりにも意外なことで私も釈然とせず切り出せなかったのですが……。何を言うも、何をするも、すべて、アテナに任せるということでした」


 そう言うと、カテリーナはアテナに眼を向けた。他の参加者も彼女の視線を追ってアテナを見つめた。


 アテナはただ驚くばかりで、頭の中が白くなり言葉を失っていた。


「そういうことです。疑いがあるのであれば、この場から連絡を取られるがよいでしょう。……それで、アテナ。どうします。来ていただけますか?」


 勝ち誇ったようなアデリーナの声でアテナの脳が働き出した。突然突きつけられた選択の難しさより、交渉団の意思の不統一に……、なによりも、ドミトリーやオリガが自分に何も教えてくれなかったことに不信と不満を覚えた。


「……安全は私が保証しますよ。一緒に来ていただけますね?」


 アデリーナが回答を迫る。


 ――フチンの言うことなど信じられるものか。……脳裏でカールの、そしてドミトリーの声がした。が、そのドミトリーに、今は騙されたような気持ちだ。


 ――フチンは信じられないが、そこに一縷の望みがあるのなら……、毒を食らっても、ひとりでも多くの国民を救いたい――、そんなドミトリーの言葉や地下壕から這い出してくる痩せ細ったエアルポリス市民の姿が、頭の中で渦巻いた。


 どうしたらいいだろう?……助言を求めてブロゾフやアントロフらに目を走らせた。そして失望した。彼らもまた答えを持たず、何かを期待するようにアテナを見つめていた。


「どうするのです? あなたがフチンへ足を運べばエアルポリスの市民が街を出られるのですよ……」


 アデリーナは、エアルポリス以外にもいくつか占領下の街の名を並べた。フチン語呼びの街の名はアテナには聞き取り難かったが、〝ミール〟の街の名だけは耳に残った。


「わかりました。フチン共和国に伺います」


 アテナは決断した。


 驚くべきことに、その日の交渉はそれだけで終了した。フチン交渉団によれば、交渉の進展は、イワン大統領とアテナの交渉次第だというのだ。


「ふざけるな!」


 ブロゾフがテーブルをたたいた。


「大丈夫。アテナが大統領の逆鱗げきりんに触れない限り、人道回廊の安全は守られるでしょう」


 落ち着いた様子でアデリーナが立ち上がり、フチン交渉団が続いた。そのメンバーのうちの2人がアテナの両側に立った。


「止めろ。いくらなんでも急だろう」


 アントロフが抗議したが無駄だった。彼もブロゾフも、ヴァンベルトの警備員の手によって動きを封じられた。


 ロビーに出ると、1時間もせずに協議が終了したことを疑問に思うメディアに、協議団は取り囲まれた。彼らの質問にはアデリーナが応じた。


「短時間で終わったのは協議が順調に進んだからです。人道回廊の安全をフチン軍が保証することになるでしょう。正式な発表は帰国後、大統領からあるはずです」

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