第23話 フチン共和国へ

 停戦交渉協議団はそれぞれのバスに乗り込んだ。アテナは震える足で、ヴァンベルトの用意したフチン側のバスのタラップに足をかけた。荷物は着替えを入れた肩掛けカバンひとつ。


 アテナがフチン側のバスに乗ったことに気づいた一部のメディアがどよめいた。彼らはインタビューのために動き出したが、その時は既に、バスは走りだしていた。


 1時間後、アテナはフチン共和国の政府専用機の中にいた。飛行機に乗るのは初めてだった。フチン共和国へ向かう緊張感と、足元に地面がないという不安が一緒になって、しばらくキャビンアテンダントの様々な説明や注意も頭に入らなかった。アデリーナをはじめ協議団の面々はよそよそしく、声をかけてくることがなかった。


 飛行機が水平飛行に入り目の前にホッとコーヒーを置かれて初めて、それまで凍り付いていたアテナの脳が思考を始めた。飛行機の設備に目を走らせ、分散して座る協議団員のいくつかの顔を観察した。


 それから窓の外に広がる景色にも目を向けた。窓の外に広がるのはどこまでも真っ青な空間。眼下には綿雲……。それとユウケイ民主国の空とどこが違っているというのだろう。エアルポリスの郊外の森で見上げた灰色の空を思い比べた。


 セントバーグからヴァンベルトまで戦地を避けて隠れるように移動したというのに、フチンの協議団は大空を悠々と飛んで来たのだと思うと釈然としないものを感じた。


「大統領には、失礼のないようにするのですよ」


 飛行機の中でアテナに掛けられた言葉はそれだけだった。トロイアの空港に着陸した飛行機が駐機場に移動するときのことだ。


 飛行機を降りると男女4名の警備兵がいて、アテナだけが空港の建物の一室に連行された。


「武器なんて持ってないですよ」


 そう主張してもアテナは裸にされ、身体の隅々まで調べられた。肌に触れるのは女性の兵士だが、それでも犯されているような屈辱を覚えた。男性の兵士はアテナの肩掛けカバンと衣類のポケットを調べながら、時折、裸のアテナを見てニヤニヤしている。殺してやりたい、と思った。


 検査の後にカバンは返されたが、パスポートとIDカード、スマホは奪われた。帰国時に返還するということだが、信じることはできなかった。とはいえ、フチン共和国内にいる以上、彼らに従う以外の選択肢は思い浮かばなかった。


 もう帰ることはできないのだ。……そんな覚悟をここ数日で何度しただろう。あまりにも多すぎて、数えることもできなかった。


 空港のロビーには乗降客やスタッフが大勢いた。その様子はヴァンベルトの空港と同じで、まるで戦争などしていないような穏やかなものだった。ミサイルや砲撃で破壊され、遺体さえ散乱しているユウケイ民主国の街々とは全く違った。子供がキティーちゃんのぬいぐるみを抱いているのが目に入ると娘の愛くるしい姿を思い出し、胸が刺されるように痛んだ。改めて怒りと憤り、憎しみを覚えた。


 空港ロビーにメディアは皆無で、警備兵に取り囲まれて歩くアテナの姿に不信の目を向ける者もいなかった。その状況から、フチン側での停戦協議への期待の低さに気づいた。いや、と思う。一般国民は自分の国が戦争をしていることさえ知らないのではないか?……そう考えると絶望に近いものを覚えた。


 ロビーを出る前にアテナはコートを羽織った。コートを持たない護衛兵たちは、建物を出ると3月の風に身を震わせた。「さっさと歩け」とアテナの背中を小突き、冷気に対する不満をぶつけた。


 囚人護送車にでも乗せられるのではないかと想像していたが、意外にも用意されていたのは立派なリムジンだった。とりあえず収容所に送られるわけではないらしい。そう思うと緊張が緩んだ。


「乗れ」


 警備兵の手で、後部座席に押し込められるようにして乗り込んだ。直後、隣に仕立ての良い黒いコートとスーツを身につけた男性が座った。助手席にも似たような服装の女性が乗った。彼らは秘密警察官だと自ら名乗った。


「フチン共和国では、秘密は秘密でないのですね」


 片言のフチン語で嫌味を言う余裕があった。


 アテナの嫌味は無視された。それが嫌味だからではないだろう。彼らは、目的地に着くまでひと言も話さなかったのだから。


 リムジンは美しいトロイアの大通りを走った。その景色は戦争前のセントバーグに似ていた。


「どこに行くのですか?」


 尋ねたが、秘密警察官も運転手も返事をしなかった。


 ほどなくイスラム教のモスクに似たグリム宮殿が現れる。アテナは、その建物に見覚えがあった。雑誌で見たのか、テレビで視たのか、それはわからない。もちろんそれがフチン共和国の大統領府、グリム宮殿ということも思い出せなかった。


 リムジンは滑るようにグリム宮殿に入り、まだ冬ごもりの樹木ばかりの庭園を通り過ぎて建物の地下に入った。煌々こうこうと照らされた出入り口の前にそれは停まった。


 扉の前にスーツ姿の男性が3人整列していた。彼らも秘密警察だろうか?……そんなことを考えながらアテナはリムジンを下りた。


「お待ちしていました。ユウケイのジャンヌダルクさま」


 先頭の男性が皮肉めいた言い回しで大統領秘書官のヨシフだと名乗った。彼の職業から、そこが政府の何らかの施設だと判断したが、大統領府だとは思わなかった。ユウケイ民主国のそれと比べたら、あまりにも巨大で贅沢なつくりをしていたからだ。


 アテナは、秘書官がどのような仕事をしているのか想像しながら、……いわゆる企業の秘書のようにスケジュールの管理などの雑用をしているのだろう、と高をくくり、彼の後に従って建物の奥に進んだ。


 通路は床も壁も大理石製で、至る所に豪華な照明器具や調度品、絵画が並んでいた。カッカッカッと秘書官たちの足音が反響する。アテナの靴はゴム底で音を立てなかった。


 地下から上がるために使ったエレベーターも豪華ホテルの寝室のようだった。それがふわりと上昇する。自分の強張った息遣いが聞こえそうだ。


 案内されたのは、3階にある大統領専用会議室だった。


 ここが、私が発言するために用意されたステージなのか。……アテナは足を止め、アデリーナの言葉を思い出しながら会議室を見回した。壁面は白い漆喰しっくいで、床は毛足の長い絨毯で覆われていた。ドアは4カ所。不思議なことに窓はひとつもなかった。


「こちらでお待ちください」


 ヨシフが20メートルもあるテーブルの端の椅子を引いた。


「ありがとうございます」


 素直に礼を言って腰かける。その椅子は、彼女の体重を静かに受け止めた。あまりの座り心地の良さに、以前からそれが身体の一部だったような気がした。


 ヨシフが出ていくと、入れ替わりにメイド姿の女性がやってきて紅茶を置いていった。大統領が来る前に手を付けるのは無礼だと思い、手を付けずに待った。いや、実際は、それに毒が入っている可能性を疑っていた。


 会議室には、窓だけでなく調度品もなかった。あるのはテーブルとマイク、椅子、照明器具。他には天井からぶら下がったプロジェクターだけで、眺めて時間をつぶせるようなものではなかった。スマホは取り上げられていたし、本や雑誌もない。そうした状況でじっと待つのは拷問も同じだった。


 もしかしたら、嫌がらせ?……考えるとイライラが募っていく。


 アテナは立ち上がり、テーブルの周りをぐるぐる回った。ゆっくりと大股で……。3周、5周と回るごとに足が早まり、やがてジョギングでもするような速足で回った。


 1周が約50メートル。それを25周回ったところでドアが開く気配がした。慌てて自分の席に走る。座るのは間に合わないので、たった今立ち上がったふりをした。


 開いたのは、アテナが入ったのとは別のドアだった。姿を見せたイワンと目が合う。アテナは、息を整えながらぎこちない笑みを作った。


 イワンの後から2人の男性が入室してドアを閉めた。ひとりはヨシフだった。彼らは似たような黒い鞄を持っていた。

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