第2話

(最悪! 最悪!! 最悪ッッッ!)

 何度も心の内で繰り返しながら、千世は激しく後悔していた。

(すぐに逃げるんだった……!)

 つい話を聞いてしまった。

 きっと、この異常な空間のせいだ。澱んだ空気と奇天烈な格好をした人ばかりの交差点で、異質な存在の自分も受け入れてもらえたような気分になってしまっていた。

 どれだけ奇抜な格好や化粧で姿を変えたところで、人間は人間だ。自分とは決定的に違うのに……。

(あいつ、棒を握ってた……! 襲ってくるかも……)

 正体を知って怯えた顔をした人間が次にとる行動なんて、だいたい同じだ。

 「化け物」と叫びながら、棒や猟銃を持って追いかけてくるか、もっと凶悪な仲間を集めて狩ろうとするか――、どちらにしても、危険しかない。

(だから嫌いなのよ……! 人間が集まる場所なんて……!!)

 ごった返す仮装集団の隙間を縫うように駆け抜け、時々後ろを確認する。

 途中で、何人かの「お化け」から声をかけられた気がするが、知ったことではない。

(よかった、追いかけてきてない……)

 あのショーウィンドウの店がすっかり人の向こうに消えた頃、ようやく足を止めた。しかし、封鎖された車道を見回せば、至るところにメガホンを手にした警察官の姿がある。

(人が多いところはマズそう……)

 明々とした店の隣に暗い路地が続いているのを見つけ、逃げるように飛び込んだ。

 お祭り騒ぎから切り離された路地は暗く、異界に迷いこんだような錯覚さえ抱く。

(あ~~! 落ち着く~~!)

 両腕を伸ばし、ぐんっと反り返った。

 暗いショーウィンドウに、風呂敷の包みを背負った黒猫が映るのを横目で見やり、軽い自己嫌悪に陥る。

(迂闊だったなあ……)

 人の姿で、人が集まる場所に行くことなんて、滅多にない。

 この姿で夜に一人で歩いていると、ああいう職種の人間が声をかけてくるのを失念していた。

(ここから一旦離れて……!?)

 路地の先の歩道を仮装した集団がゾロゾロと歩いていくのを見つけ、サッとビルの陰に身を潜める。

 向こうの交差点ほどではないが、あちらも人が多そうだ。彼らを誘導しているらしく、メガホンを手にした警察官が忙しなく行ったり来たりしているのが見える。

「はあ、ホントに最悪……」

 ここまでくると、諦めるしかない。

 狭くて暗いのが幸いしてか、周りに人の姿はない。防犯カメラの死角に入り、固く舗装された地面を蹴った。

 二階の非常階段に音もなく着地し、屋上を目指して駆け上る。

(なんなのよ、もう……!)

 これまでも人が集まる場所を巡ってきたが、こんなに人間がひしめき合って、騒いでいる町はなかった。

(暫くは動かないほうがいいよね……)

 外側の壁を駆けあがり、屋上へ飛び移る。

 明日の朝になれば、さすがにこの騒ぎも落ち着いているだろう。

 気は進まないが、早朝ならば人も少ないはず。夜明け前に起き出して探すしかない。

 それまで、「あれ」が誰にも拾われないように願うしかなかった。

「あーあ、ホントに今日はツイてな……、寒っ」

 コンクリートの屋上を吹き抜ける風に震える。十月も末になると夜は冷えるし、風も冷たい。だからといって、闇雲に降りるのは危険だ。

 風避けになるものを探して屋上を見渡し、この場にあるはずのない姿に心臓が跳ね上がった。

(ウソ……、どうして……)

 上がってくる途中も確認したが、ビルの明かりは全て消えていた。非常階段も、屋上に出るドアも鍵がかかっていたのに。

 ――どうして、人がいるの!?

 人間が一人、こちらに背を向け、柵にもたれるようにして地上の喧騒を見下ろしている。空色の上着に黒いズボンといった普通の格好、両方の手首につけた水晶の数珠が下からの明かりにキラキラと光っている。背丈と気配から、少年だろう。

 祭りの参加者ではないようだが、警察でもなさそうだ。そして、幸いなことに、まだこちらに気づいていない。

(今のうちに……)

 振り向かないように祈りながら、ソロソロと後ずさる。

 少し強い風が吹き、彼の上着を揺らした。

 ――え……?

 先程とは別の理由で心臓が跳ね、思わず足を止める。

(あんな感じの色……、だっけ……)

 冷たい夜風に煽られた空色の丈の長い上着に、あの青年が気に入っていた水色の羽織が重なった。懐かしさと寂しさが込み上げ、じわりと空色が滲んだ。

「本当に賑やかだよねえ。邪が逃げてくれるならいいけれど、逆に引き寄せちゃうからなあ……」

 風が声を運んだ。

 感傷も吹き飛んで、その背を凝視する。

 交差点を眺めているらしいのは変わらない。

 だけど、間違いなくこちらに話しかけていた。

 ――気づかれてた……!?

 爪を伸ばして身構える。全く警戒する素振りもなく、少年は振り向いた。

「こんばんは?」

 琥珀色の瞳がにっこりと笑った。

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