第1話

 現代 十月三十一日。渋谷。

 ハロウィンの夜のスクランブル交差点は人で溢れかえっていた。

 ゾンビに魔女、吸血鬼といった定番の仮装に始まり、ゲームや漫画のキャラ、更には何故か実在の人物のコスプレが混じっている。

 陽が暮れ、夜が満ちると、あたりはますますカオスの様相を呈し始めてきた。

 日常から離脱した「お化け」達が押し合っている交差点で、千世ちよは深い溜息をついた。

 耳の下で結んだ肩まで届く黒髪が、気持ちを代弁するように揺れる。黒いゴスロリ風のワンピース、背中に背負った黒い蝙蝠型のリュックサックに黒い靴。

 一見すると、魔女のコスプレをしてハロウィンに参加しに来たように見えるが、少女の薄茶色の目は足元のアスファルトをうろつくばかり。イベントには興味がありませんと、その態度が主張している。

 黒い靴がアスファルトを踏むたびに、カボチャのように膨らんだスカートと、髪を結ぶ水色の飾り紐が揺れる。人形のように可愛らしい十才前後の少女は嫌でも周りの注目を引いた。

「ちょっといいかい?」

 近くでメガホンを手に誘導していた警察官が近づき、人の流れから護るように千世を歩道の隅に促した。

 迷惑そうに顔をしかめたものの指示に従い、少女は若い警察官の顔をまじまじと見上げた。

「お父さんとお母さんは? はぐれたの?」

 二十代半ばくらいの警察官は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「それともお姉さんやお兄さんと一緒なのかな? お名前は……」

 ふと、警察官は少女の後ろのショーウィンドウに目を留めた。その目が驚愕に見開かれ、咄嗟に手が警棒へと伸びる。

「え……?」

 かろうじて悲鳴を飲み込んだ警察官の顔に赤い筋が走った。

 何が起きたのかわからず、呆然としている警察官に背を向け、千世は一目散に駆け出した。

 周りは仮装した人ばかり。血糊を顔や体に塗りたくったゾンビメイクも珍しくない。

 歩道の片隅で、黒い服の少女の手から鋭い爪が伸びていようが、その爪の先が赤く汚れていようが、誰も気に留めない。仮に、その爪と赤がやたらとリアルだと気づいた者がいたとしても、この異様な夜の中では、次の瞬間には忘れている。

「待っ……」

 我に返った警察官が呼び止めようとした時には、黒いワンピースの少女の姿は人混みに紛れていた。

 青ざめた顔で、彼は無線を手に取った。

 現場ではまだ一度も使ったことのない透明のボタンを押し、専用チャンネルに呼び掛ける。

「ち、『蝶』を発見! スクランブル交差点からっ、北に逃走中……」

 無線を持つ手がガタガタと震えた。

 怪異や心霊現象とは無縁の世界で生きてきた彼にとって、初めて遭遇した「あれ」は凶器を持った殺人犯と鉢合わせたほどの衝撃だった。

(頼む! 早く! 早く応答してくれ……!)

 相手が「人間」ならば追うことができる。

 だが、「あれ」は違う。自分達ではどうすることもできない。

(誰か……!)

 祈るような気持ちで繰り返しても、応答はない。

 このチャンネルを使う専門の対策チームも今夜はこの付近の警備に当たっている。だが、早くも問題が起きて対応に向かっているらしい。

 ほんの三十分ほど前に定時連絡で聞いていたが、有名事故物件でも何も感じない、霊感ゼロの自分には、どこか遠い話だった。

 それが、まさか、こんなに普通に出くわすなんて……!

『了解した。直ちに向かおう』

 ややあって、どっしりと太い声が応えた。無線越しに人間のものとは思えない悲鳴が聞こえたが、質問するだけの気力はない。

『君のほうは負傷はないか? すぐに確認してくれ』

「え……、は、はい……」

 ヒリヒリと痛む頬に、彼は慌て近くのショーウインドウで自分の顔を見た。

 頬にできた三本の赤い筋から、じわりと鉄の臭いが滲んでいた。

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