第4章  『正しいこと、の連鎖』⑧

 HR特別室の入った雑居ビルを出て、新橋駅に向かって歩く。


 午後七時少し前。


 既に居酒屋にはたくさんの客が詰めかけ満員状態だ。道路にはみ出た“テラス席”で、サラリーマンやOLがもつ焼きをつまみにビールや焼酎を飲んでいる。


 ビールケースに薄い座布団を載せただけの椅子、店外までもくもくと吐き出される煙、掛け合いのように至るところから聞こえてくる誰かの笑い声。


 路地を抜けて表通りに出ると、いよいよ人の数は増える。


 まるで水道管の中の水のように、人間の塊がひとつづきになって駅に向かって移動している。俺もその流れに体を滑り込ませる。


 歩いているというより、やはり流れているという感じの遅い歩みの中、なんとなく視線を上げた。


 その先には、古びた陸橋の上に乗っかった線路。そこからさらに向こうを仰げば、電通本社や汐留の高層ビルが薄暗い空のなかに浮かんでいるのが見えた。この時間、まだビルには煌々と明かりが灯っている。


 なんとなく、正木のことを考えた。


 正木はきっと、まだ働いているに違いない。六本木のあのビルで、不自然な笑顔を浮かべたまま。


 奇妙な焦燥感がふっと湧いた。これでいいのか? 俺はこのまま家に帰っていいのか?


 高橋は結局、俺に対して何の指示もしなかった。これからどうするのか、何も教えてはくれなかった。もちろん俺はBAND JAPANの担当営業ではない。研修の一貫として高橋についていっただけで、この案件に何かしらの役目を負っているわけではないのだ。


 そう。だから、別に俺が何を気にすることもない。いつものように烏森口改札から駅に入って、JR総武線快速に乗って家に帰ればいい。周囲の人間の流れも、それを肯定するように駅へとまっすぐ進んでいく。


 ――でも。


 無表情で改札へと向かう周囲のサラリーマンたち。そのロボットのような顔を見ながら、自問自答する。心の奥の方に、何かが引っかかっている。小さな魚の骨のようなもの。一度その存在に気づいてしまうと、何をしてても気になってしまうようなもの。


 なんだ。俺は何を気にしている?


 ……正木が自分と同年代だったからだろうか。それとも、憧れの企業だったBAND JAPANが、想像と違っていたからだろうか。高橋から聞いた、脅迫と洗脳の話が気になっているのか。


 確かにそれもあるだろう。だが、そうではない。もっと個人的な感覚、クライアントではなく、自分自身に関係あること。


 そう。


 HR特別室のメンバーなら、どうするのだろう?


 俺はそう考えていた。クーティーズバーガーの件も、中澤工業の件も、HR特別室の人間は、俺には絶対に思いつかないような方法で「解決」した。いや、受注こそ「成果」だと考えている俺と彼らとでは、そもそも想定している「解決」が違うのだ。


 そして高橋のBAND JAPANだ。いま高橋が何を考えているのか、俺にはさっぱりわからなかった。


 俺は多分、それが、悔しいのだ。


「くそ……」


 俺は、改札へとまっすぐ進んでいく人の流れから出た。そしてJRではなく、都営地下鉄の新宿線ホームの方へと向かったのだった。


約30分後、俺は今朝と同じスターバックスにいた。


 既に七時を過ぎているが、客は少なくない。今日二度目のアイスコーヒーをカウンターで受け取ると、ビルのエントランスが見える席に座る。


 ……何をやってるんだ、俺は。


 答えは明確なようでもあり、全くわからなくもある。


 俺がここに“戻って”きたのは、まだ働いているに違いない正木を、「出待ち」するためだ。それは自分でもよくわかっていた。だが、なぜそんなことをしているのか、仮に正木に会えたとして何をどうしようとしているのか、それはわからない。


 わからないまま、俺はぼんやりとエントランスを眺め続けた。今朝キレイな女が座っていた総合受付はもう閉まっているが、ちょうど退社時間なのだろうか、人通りはかなり多い。


 もっとも、新橋駅前とは雰囲気がまるで違う。


 ロボットのような無表情で駅へと吸い込まれていく人間の塊ではなく、ここを出入りするのは、小奇麗な格好をしてた「ビジネスマン」たちだ。


 仕事ができるかどうかと容姿は関係ないようでいて、実はそうでもない。いい企業にいる奴はだいたい格好がいいし、女は美人が多い。あるいはそれは、自分はエリートであるという自信が容姿に現れた結果なのかもしれない。


 考えてみれば正木だって、BAND JAPANという有名企業の正社員として働いていて、実際、モテそうな容姿をしていたではないか。


 高橋の言うように、仮に正木が本当に“洗脳”されているのだとして、それで彼は本当に、不幸せなのだろうか。


 そんなことはないのではないか、という気がした。というより、サラリーマンというのは大なり小なり“洗脳状態”にあるのではないか。会社や上司という「絶対的な強者」に従うことを、自ら選んだ人間なのだ。


 わからない。


 いろいろなことがわからなくなる。


 店について30分ほどした頃、俺はエレベーターを降りてきた正木を見つけた。


 慌てて立ち上がると、既に空になっていたカップをゴミ箱に捨て、正木に気付かれないようにその後ろにつく。


 正木はきちんとジャケットを着て、手にはビジネスバッグを持っている。取材時にはよくわからなかったが、背も俺と同じかそれ以上には高く、スタイルもよくて、後ろ姿もキマっている。正木の少し前を白人のビジネスマンが歩いているが、その男と比べても遜色ない。


 あらためて、俺は一体何をしにきたんだと考える。


 冷静に考えてみれば、有名企業に正社員として雇用され、年収も高い正木の境遇は、羨ましがられこそすれ、同情されるようなものではない。


 正木に続いてビルを出て、溜池山王方面に歩いていくその後ろ姿を追いながら、それでも俺はなぜか、“尾行”をやめられなかった。それは、正木ではなく「俺自身」の問題のせいなのだと、俺はいい加減理解しつつあった。


 HR特別室のメンバーなら、どうするだろうか。


 頭の中に、その問が残っている。保科にしろ、室長にしろ、そして高橋にしろ、最初は頭がおかしい人間だとしか思えなかった。少なくとも、俺がAAの営業一部で一緒に仕事をしてきた人たちは、客をバカ呼ばわりしたり、採用ニーズを自ら潰したりはしなかった。だが、俺はどこかで、彼らの「仕事」に対する向き合い方に、惹かれてもいるのだ。


「クソ……」


 言い訳のように、小さく悪態をつく。すると、それが聞こえたわけではないのだろうが、十メートルほど前を行く正木がふと立ち止まり、あっと思う間もなくこちらを振り返った。


「……」


 正木はそこに俺がいることをわかっていたかのように、俺の顔を真っ直ぐに見ていた。


 まずい。俺は咄嗟に視線を地面に落とし、正木には気付いていない風を装って、足を進める。ポケットからスマホを取り出し、適当に操作しながら、立ち止まったままの正木の横を通り抜けた。


「ちょっと」


 背後から声をかけられて、今度は俺が立ち止まった。


 ゆっくりと振り返る。


 そこに、昼間見たのとはまるで違う、泣きそうな顔をした正木の顔があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る