第4章  『正しいこと、の連鎖』⑨

 腰よりも高いスツール、正方形の小さなテーブル。その中央には今流行りのカフェ風のデザインで作られたメニューが置かれ、ナイフやフォークの入った籠で重しがしてある。


「いらっしゃいませ」


 黒いTシャツに黒いサロンの店員がやってきて言う。いかにもこういう店で働いていそうな、痩せた長身の優男だ。


「当店2時間制をとらせていただいていますが、よろしいでしょうか」


 そう聞かれ、俺は思わず向かい側に座る正木の顔を伺った。


 俺の視線を受け止めた正木は、なんで俺に聞くんだというような顔をして、俯いた。その様子を見て、俺も思わず視線を落とす。


「……あの?」


 店員に促されて顔を上げる。


「あ、ああ、大丈夫です」


「お飲み物、いかがしましょうか」


「……じゃあ生2つで。あ、ビールでいいですか?」


 俺が言うと、正木は「ああ、はい」と小さく頷く。


 店員が手元のiPadで入力を終え、離れていく。すると、また気まずさが戻ってきた。


 この店を見つけたのは偶然だ。咄嗟に周囲を探して、目に入った一番近い店に正木を誘った。六本木と溜池山王駅の間、あまり飲食店の多くない界隈にぽつんとある地下のワインバル。


 それなりに広い店だが、人気があるのだろう、席はほとんど埋まっている。


 俺の突然の誘いに、正木は戸惑った表情を浮かべつつも、「わかりました」と言った。俺が咄嗟に付け加えた、「もう少し取材させてもらいたくて」という言葉に納得したのかもしれない。


「……村本さん、おいくつなんですか」


 やがて、沈黙を破って正木が言った。


「あ……ええと……26の年です。正木さんは?」


「今年28です」


 ということは、2つ上か。


 そこに店員が生ビールのジョッキを2つ運んできて、それを狭いテーブルに置きながら、「お食事、どうされますか?」と聞く。チラリと正木を覗うと、「任せます」と言うので、チーズの盛り合わせやアヒージョなどつまみを適当に頼む。


「じゃ……お疲れ様です」


 店員が去った後、おずおずとグラスを傾けると、正木も困ったような顔をして「あ、どうも」とそれに倣った。騒がしい声の中でグラスの触れ合う音が一瞬響き、すぐに飲み込まれる。沈黙の気まずさを避けるように、俺達はそれぞれゆっくりとビールを飲んだ。


 一体俺は、何をしているのか。


 顔の前に迫る黄金色の液体に視線を落としながら考える。だが、その答えがどうであれ、現実にはもう、正木は俺の前に座っている。


 こうなることを全く予想していなかったといえば嘘になる。俺は多分、何かを確かめたくて正木をつけた。いや、もっとはっきり言えば、正木と話をするために総武線ではなく銀座線に乗ったのだ。


「あの、正木さん」


 ジョッキをテーブルに置き、言った。


「……はい」


 そして俺はあらためて、正木の表情が昼間とはまるで違うことに気付いた。


 正木は笑顔ではなかった。どこかぼんやりとした、抜け殻のような表情。


 ……いやそれは、高橋の話からの連想なのかもしれない。一日たっぷり働いた営業マンなら、誰だってこんな顔になるものだ。正木はあのBAND JAPANの営業マンで、社長からも期待されている人間だ。それに応えるためにも、一生懸命働いているのだろう。


 仕事モードの昼間と、そこから解放された今で、表情が違うのは当たり前だ。


 ……だが、そう都合のいいロジックを紡ぎだす俺の理性を、何かが引き止める。


 何か。


 何かとは、何だ。


 <採用ってのは、人間の話だろ?>


 <求人広告を売ることが自分の仕事なんて、私は考えたことなんてない>


 頭の中に、ふっと記憶が蘇る。


 俺はツバを飲み込んだ。そして、言った。


「取材したいというのは本当です。でも私は、仕事の内容や一日の流れじゃなくて、あなた自身の本当の気持ちを聞きたいと思っています」


「……」


 俺の言葉は聞こえていたはずだが、正木の表情は変わらなかった。まるで俺がそこに座っていないように、遠くを見るような目でぼんやりとこちらを見ている。


 再び沈黙が降りた。


 これまで以上に気まずい沈黙だった。客の笑い声が響く店の一角、そこだけ照明が落とされたような気分だ。


 やがて、胸のあたりがジワジワと黒ずんでいくのがわかった。


 そりゃそうだ。立場が逆なら、俺も同じ顔をしただろう。いや、黙ってここまでつきあってくれただけ正木は人がいい。俺なら、一度しか顔を合わせていない求人業者が後をつけてきていたとわかった時点で怒るだろう。下手をすれば、警察に突き出されたっておかしくない状況だ。


 そうだ。当たり前の反応だ。一体俺は何をやってるんだ。


 保科や室長みたいな頭のおかしい人間のマネをして何になる。だいたい担当営業の高橋だって、この案件をどう扱うかわかったものじゃない。


 「私は“仕事”をするときにしかお金は受け取らない」高橋はそう言っていた。あれはもしかしたら、この案件は受けない、ということなのかもしれない。


 自嘲的な笑いが漏れた。


「……なんて、すみません。変なこと言いましたね。忘れてください」


 さっさと一杯飲んでお開きにしよう、そう思いながらジョッキを持ち上げたとき、その黄金色の液体の向こうで、正木の顔がグニャリと歪んだのが見えた。


「本当の気持ちって……村本さん、なんですかそれ」


 俺はそのまま、ジョッキを静かに下ろした。


 正木の言葉は、内容だけ考えれば、俺の言葉に同調したような台詞に聞くこともできた。


 俺の自嘲に対し、「そうですよ、おかしなこと言わないでくださいよ」と一緒に笑うような。


 判断がつかないまま、それでも俺は実際、正木の本音を聞くためにこんなことをしているのだ、と考え、質問を続ける。


「御社のオフィスでインタビューさせてもらったとき、仕事が楽しいって仰ってましたよね」


「……ええ」


 俺はツバを飲み込み、言った。


「あれって、どの程度本音なんですか?」


「……」


 正木が顔を上げ、俺の方を見た。その目が妙に黒く、大きく見える。俺は自分の顔が引きつっているのを感じた。正木の瞳の中に、何か怒りのようなものを感じたからだ。


「いや……あの、あれだけの収入を得るには、けっこう厳しい働き方をしてるんじゃないかと思いまして」


「……ああ」


 正木が小さくうなずき、「まあ、甘くはないですよね」と答える。


「やっぱり、そうですか」


「ええ。まあでも、そんなの当たり前ですから。保険の営業が始まったら、今よりももっと大変だろうし」


「……保険?」


 俺が言うと、正木はギクリとした顔になって、目を伏せた。


「あの、正木さん。それって社長が言ってた新規事業の件ですか?」


「……」


 俺の頭の中で、いろいろなことが繋がっていく。そうか、そういうことか。


 実店舗を持たないPOが、なぜ1200万円もかけて営業マンを募集する必要があるのか。槙原社長は「新規事業のため」と言った。始めるのが「金融」の事業だとも。そして高橋が言っていたように、生命保険は金融商品なのだ。


 高木生命はつまり、BAND JAPANという健全な「着ぐるみ」をかぶり、ヤクザなイメージのついてしまっている高木生命ではなく、BANDの商品として本来の事業、つまり保険を売り出そうとしているのだ。


「正木さん、教えてください。正木さんはこれから、BAND JAPANで保険を営業するんですか?」


「いや、忘れてください。僕にそれを言う権限はない」


「でも……現職の本音がわからなければ、いい求人にはならない」


「……」


  勢い込んで言った俺に、正木は妙な表情を見せた。目を細め、それからふっと笑みを漏らす。


「村本さんは、僕とは違うんだな」


「……違う?」


「ええ、村本さんは多分、そういうこと考えてもいい人なんだ」


「……どういうことです?」


「だから、なんていうか、自分に自信があるっていうか、いや違うな、自分の信じた道を進む勇気があるというか」


「……」


「僕には、そんなものはない。本音が聞きたいって仰いましたけど、これが僕の本音です。僕は、少しでもリスクのない道を選びたい。金って意味でも、安定性って意味でも、既に成功者のいる道を選ぶのが一番確実じゃないですか。……だから、今後もなくならない商品を、既に実績のある大企業で売るのが一番です。もちろん、それを望んだからといって、誰もが希望通りの就職ができるわけじゃない。そういう意味で、僕は幸運でした。こんなにダメな人間を、BAND JAPAN、いや、高木生命が拾ってくださったんですから」


 俺の頭の中には、今日HR特別室のPCで見たことが思い出されていた。


<正木一重が自殺未遂したって>


<すぐ不登校なってたよ。あれ? 退学したんだっけ>


<今は引きこもりでホームレスみたいだってさ。ショック>


 ふっと正木が視線を上げ、俺をまっすぐに見て、言った。


「こんなダメ人間が、今じゃ年収650万円ですよ。そして先輩たちは実際、1000万円以上を稼いでる。つまり、僕の進んでる道は間違ってないってことじゃないですか」


 気がつくと正木は、笑顔になっていた。昼間見たあの、お面のような笑顔に。

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