第4章  『正しいこと、の連鎖』⑦

「選択肢?」


「ええ」


 俺が聞き返すと高橋はフーっと煙を吹き出す。また、花とスパイスが混じったような妖艶なにおいが漂う。


「あなた、洗脳の方法って知ってる?」


 そう聞かれて眉間にシワがよるのがわかった。


「……恐怖とか苦痛とかを与えて、相手を思い通りにコントロールするんでしょ」


「違うわ」


 はっきり否定されて、思わずカッとなる。


「違わないでしょ。何なんです、さっきから」


「あなたの言ってるのは、洗脳じゃない。それはただの脅迫」


 脅迫? ……そう言われてみれば、確かにそうだ。だが、洗脳も脅迫も大した違いなどないのではないか。何かしらの理由があって、相手の言うことを聞かされる。状態としては同じじゃないか。


「……どう違うんですか」


「そうねえ」


 高橋は俺の方を向き、そしてバカにしたように目を細める。


「例えば、あんたに彼女がいるとするわね」


「はい?」


「もう何年も付き合ってて、あんたはそろそろ彼女に飽きてきてる。でも、長い付き合いなだけに簡単に別れ話もできない。それに、彼女はあんたにゾッコンで、簡単に別れてくれそうもないわけ。どう、イメージできた?」


「……何の話ですか」


 言いながらも、俺にはよくイメージできた。過去に似たような状況だったこともある。


「そんなある日、彼女からウキウキで電話がかかってきた。出てみたら、叫びださんばかりの喜びっぷりよ。一体何があったのかしら」


「知らないですよ、そんなの」


「赤ちゃんができました、って」


 思わず息を呑んだ。


 ……いや、架空の話だ。だが、別れたい相手から本当にそんな電話がかかってきたら、俺はゾッとするに違いない。


「そして彼女は、あなたに結婚を要求した。さあ、どうする?」


「どうするって……そりゃ……」


「ふふ、青くなっちゃって。かわいいわね。……まあ、それで実際どうするにせよ、このときあんたは“脅迫”されていると感じるはずよ。もちろん、やることやって赤ん坊までこさえておいて、それで脅迫だなんて虫がよすぎるわよ。でも、こういう話の方が男はピンと来るかなと思って」


 ……なるほど、確かに、ピンとはくる。


「じゃあ、洗脳はどうなんですか」


 バツの悪さを感じつつ言った。


「洗脳は、そうね……例えばあんたに、尊敬している先輩がいたとする。その先輩は強面で、実際ケンカもすごく強くて、頼りがいがあって、揉め事を収めてもらったこともある。それでいて性格もよくて、悩みを口にすれば、まるで自分のことのように聞いてくれる。カッコいいし優しいしで、あんたは要するに、その先輩に憧れていた」


「はあ」


「でも、そんないい人なわけだから、先輩を慕う人間は大勢いた。あんただけじゃない、たくさんの仲間が彼のことを好いていた。先輩は要するに、仲間の皆に優しかったということね」


「……それで?」


「そんなある日、あなたはちょっとしたことで先輩を怒らせてしまった。……内容はなんだっていいわ。あんたはすぐに謝って、それで先輩も許してくれたけど、でも、そのことがキッカケで先輩は、あんたと明らかに距離を取るようになった。あんたは気が気じゃないわよね。でも実際、電話しても出てくれないし、訪ねていってもそっけない態度を取られてしまう。もう謝罪は済んでるし、もうこうなったらあんたにはどうしようもないわよね。あんたは、先輩はもう俺のことは嫌いなんだと思い、強烈な自己嫌悪に陥る」


「……」


「そんなある日、先輩の方から電話がかかってきた。出てみたら、少し会えないかと言われるわけ。当然、喜び勇んで向かうわよね。でも、待ち合わせ場所に行ったら、先輩はなぜか暗い顔をしている。どうしたんだろうと思っていると、先輩は、実は困ったことになってると言うわけ」


「なんですか」


「あんたの知らない先輩の知り合いが、先輩の悪口を広めていて、それによって先輩の人間関係がおかしくなり始めていると。もちろん悪口の内容は事実無根。先輩は身に覚えのない悪い噂を流されて、困っている」


「……」


 高橋は一体何の話をしているのか。だが、なぜか引き込まれる。というより、俺は感情移入し始めていた。先輩の悪口を流したやつに、怒りを覚える。いったい、どこのどいつだ。


「先輩はそして、その犯人の名前を言った。あんたも知ってるやつよ。共通の知り合いも多いし、どこでどんな仕事をしてるかも知ってる」


「……なるほど」


「そして先輩はポロリと言うの」


「……なんですか」


「あいつさえいなければな……って」


「……」


「さあ、あんたならどうする?」


「……どうするって」


 思わずツバを飲み込んだ。その状況になったら、俺はどうするのだろう。憧れの先輩、恩のある先輩が、困っている。そして、困らせている相手もわかっている。そんなとき、俺はどうするのだろう。


 答えははっきりしている気がした。俺はその相手に、先輩の変な噂を流すのを止めろと言うだろう。場合によっては、手が出ることもあるかもしれない。


 ……だが、俺がそれをするのは、正義感からなのだろうか。もちろんそれもあるだろう。優しい先輩を、嘘の噂で苦しめるなんて許せない。だが、それだけではない。俺は先輩との関係を修復したいと考えている。自分のミスで一度できてしまった溝を、今回の「成果」で取り戻したいと思っている。


 黙ってそういうことを考えている俺を、高橋は目を細めて見つめた。そして、怪しい笑みを浮かべて言った。


「ね? これが洗脳」


「……え?」


「実際には選択肢を奪われているのに、それに気づかない。あんたはきっと、その相手を排除しに行くでしょう。あくまで自分が選択したのだと思いながら」


「……」


 脅迫と洗脳の違い。高橋の例え話は、悔しいがわかりやすかった。


「……じゃあ、BAND JAPANの正木さんは、会社に“洗脳”されてるってことですか」


 もともとはそういう話だった。俺はあの終始笑顔の男を思い出しながら言う。


 高橋は「私にはそう見えたわ」と頷き、続ける。


「……というより、それがブラック企業の基本的な方法論なのよ。社員に対して、法律的にも、倫理的にも、あるいは常識的にもおかしい働き方をさせるためには、脅迫じゃダメ。脅迫したって、相手は萎縮し、やがてそのプレッシャーに耐えられなくなって逃げてしまうか、あるいは壊れてしまう。前者ならいわゆる“ブッチ”、後者は鬱病とか自殺とかね。でも、会社としてはそれじゃ困るのよ。働かせ続けることが目的なんだもの。文句を言わず働き続けてくれるロボットみたいな子を作らなければならない」


 言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。脅迫で相手をコントロールするというのは、会社にとってもリスクということか。だから、“自分が選択したのだと思わせる”やり方、つまり洗脳を選ぶ。


「……じゃあ、その導入研修っていうのは、洗脳をするための研修ってことなんですか」


「より正確に言えば、洗脳の下地を作るのが最初の目的ね」


「下地?」


「さっきの僕ちゃんの話で言えば、仲の良かった先輩と溝ができたくだり、ね。あの状況を、言わば人為的に作り出すの」


「何をするんです?」


「人格否定」


「……はい?」


「何か適当な理由をでっちあげて、お前はひどいやつだと否定するの。お前はダメだ、お前みたいな人間がいるだけで周りが迷惑する、お前には何の価値もない。そんな言葉や態度を、執拗に投げつける。そしてこのフェーズで重要なのは、情報の遮断。だから、山奥にポツンと建ってるホテルなんか最適よね。スマホや携帯を取り上げればなおよしね。……情報が与えられない中、何度も何度も否定の言葉を受け続けると、自分は本当に価値のない人間なんだと思い始める。あんたが、先輩は俺のことが嫌いなんだと自己嫌悪に陥った、あれと同じ」


「……それで、どうするんですか」


「糸を垂らす」


「糸?」


「一度徹底的に自己否定してしまった人は、どうにか救われようと手を伸ばす。そこに何かしらの糸が垂れてきたら、誰がどういう目的でそれを垂らしたかなんて考えず、無心で掴んでしまうでしょうね。自分を否定した本人からの糸ならなおさらよ。あんたが、先輩からの久々の電話に、喜び勇んで応えたように」


 ゴクリ、と喉が鳴った。


 なんなのだ、この話。


「思い出して? 社長室での出来事。槙原社長と正木さんの会話」


 高橋に言われ、俺は記憶を探る。そして思い出した。「ほんとダメな奴だったもんなあ?」と言う槇原社長の言葉に、「仰る通りです! ほんとクズのような人間で……でも、変わることができました!」と正木は答えたのだ。


「今は価値がないかもしれないが、キミは変わることができる。そのやり方は私たちが教えてあげよう。そう言われたら、否定されまくって拠り所を失った人は喜んで従うでしょうね。それに……ほら、僕ちゃんの調べた情報」


「あ……」


 そうだ。野球。正木は野球の試合で怪我をして、それで……


「彼は既に、人格否定された状態だった。そこに、どういう伝手なのかはわからないけど、BAND JAPAN、いや、高木生命が現れて、糸を垂らした。……楽だったんでしょうね、会社としては。自分たちがお膳立てするまでもなく、彼は救いを求めていたわけだから。そして彼は会社に忠実なロボットになった」


 頭が痛くなってきた。記憶の中のあの笑顔が、途端にグロテスクなものに見えてくる。


「……そうだとして、どうするんですか」


 俺は言った。


「何が?」


 高橋がタバコを吸いながら首を傾げる。


「契約ですよ。1200万円とかっていう、すごい見積もり出して来てたじゃないですか。あれ……受けるんですか」


 受けるに決まってる。頭の中でそう聞こえた。どこに、こんなすごい契約を捨てる企業がある。1200万円だぞ? 当たり前じゃねえか。


 だが一方で、正木の人生はどうなるのだ、と思った。あんな不自然な笑顔を浮かべたまま、この先何十年もあの会社で働くのか?


 俺のどっちつかずな感情を読み取ったのかどうか、高橋は数秒俺を見つめた後、言った。


「私は“仕事”をするときにしかお金は受け取らない。それだけよ」

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