第3章 『息子にラブレターを』⑤
病院の近くで拾ったタクシーで、環七通りを新川方面へと進む。緩やかな高架を登り、カーブしながら降りた先の信号を左折すると、下町感が一気に強くなった。
一言で言えば「住宅地」なのだろうが、低層のアパートや古びた平屋などの合間に、個人経営の畳店、院の字が旧字体で書かれた個人病院、軒先でコロッケを販売している肉屋などがある。生活に必要なものが、ゴチャッとひとまとめになっているような、そんな雰囲気だ。
中澤工業はそんな下町の一角にあった。
ケヤキ並木に沿った小砂利敷きの空き地。その片隅にサビの浮いた看板があり、「中澤工業」と社名がある。その下には「ジムショムコウ」と、どこか戦時中を思わせる独特のカタカナフォントで書かれた案内がある。運転手は勝手知ったる様子で砂利の空き地に車両を乗り入れると、ぐるりとUターンするようにして停車する。
「着いたよ」
「運転手さん、この会社知ってます?」
金を用意しながら室長が聞くが、運転席より工事現場が似合いそうな無愛想な運転手は、面倒くさそうに首を振った。
「こんな工場はいっぱいあるんでね。いちいち知っちゃないですわ」
領収書を受け取って、車外に出る。タクシーはすぐにいま来た道を戻っていった。きっと葛西駅に戻るのだろう。
自分の足で砂利敷きの地面に降りると、なんとなく息苦しさを覚えた。4月の割に最近は気温が高く、鋭い日光に焼かれた地面から、愚痴のような熱気がのぼってくる。地域柄なのか、工場というイメージからなのか、空気が埃っぽい気がして、俺は思わず口元に手をやって咳払いをする。
「いいねえ、この感じ。嫌いじゃないなあ」
俺と違い、室長は妙に嬉しそうな顔で言うと、歩き始める。
「ジムショムコウ」の横にある矢印の先、十五メートルほど奥まった場所に、中澤工業の社屋があった。カビのような黒い汚れが浮き出たブロック塀、その向こうに公民館のようにも見える小ぢんまりとした平屋建てが見えている。
そしてそのさらに向こうに、アパート3階建てくらいの高さの四角い建物がある。こちらはそれなりの大きさだ。見た感じからすると、例の検査機器の部品を作る製造工場なのだろう。
病院で会った社長の話からすると、中澤工業は小規模な会社だ。中小企業というより、零細企業と言ったほうがいいかもしれない。確か社員が3人、事務員が2人、それからベトナムからの研修生たち。研修生の人数が不明だが、こういうケースの場合、多くても5人程度だろう。つまり社長を入れて10人程度の組織ということになる。
歩きにくい砂利敷きの空き地を進みながら、おいおい、と思う。営業三部じゃあるまいし、なぜ俺がこんな小さな、こんな寂れた雰囲気の会社に来なきゃならない。
営業一部が担当するのは、社員が1000人2000人いるのが当たり前の大企業だ。1万人以上の組織も珍しくない。いったいこの案件で、室長はいくらの契約を取るつもりなのだろうか。組織規模で考えれば10万から20万がやっと、取れても1ヶ月掲載で50〜60万が限度だろう。
あるいは、と思う。見た目も含めて同期の島田に似た室長だ。もしかしたらあいつのように、しがない町工場から何百万もの契約を勝ち取るつもりなのかもしれない。
なんとなく横目で室長の顔を伺うが、何が嬉しいのか、子供のように目を輝かせながらキョロキョロしている。この人に営業などできるのだろうか。
俺の視線に気づいた室長が、「ん? どしたの」と聞いてくる。
「いや、なんか嬉しそうだなーと思って」
「いやね、僕、こういう雰囲気好きなんだよねえ。ピカピカのオフィスなんかより、ずっと味があると思わない?」
室長の言う通り、間近に見た事務所は確かに「味のある」ものだった。びっくりするくらい、くたびれている。戦争映画とかで見る住宅セットの方がいくらかモダンに見えるほどだ。
古いせいか緑色っぽくなったガラス窓に、白く「中澤工業」の文字が吹き付けられている。ものものしい明朝体の文字。古い不動産屋みたいだと思う。なんとなく恐ろしいというか、ヤクザの事務所みたいな雰囲気がある。太陽光が反射して中の様子はよく見えないが、それがまた怖い。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、「ごめんくださーい」と室長が元気に扉を開け、中に入っていく。
室長の後に続いて中に入ると、日光が遮られて視界が一気に暗くなった。一瞬、失明したように周囲が黒く塗りつぶされ、じんわりと少しずつ色を取り戻していく。
中はやはり、古い不動産屋のような雰囲気だった。年季の入った黒い革ソファ、ローテーブルの上にはレース編みの白いクロスがかけられ、これまためっきり見なくなったガラス製の灰皿がドンと置かれている。他、昔ながらの灰色デスクが10セットほどあるが、パソコンが置かれているのはそのうちの2つだけだった。まるで、昭和時代の映画の中にタイムスリップしたような感覚。
「あ、お客さん」
デスクの1つに座って何か書きものをしていた30代後半くらいの女性が顔を上げ、言った。それを聞いて、壁にかけられたカレンダーの前にいた背の低い女性――こちらは60代くらい――が振り返り、「あら」と微笑むと、小走りにこちらにかけてくる。
「いらっしゃいませ。何かお約束でしたでしょうか」
微かに怪訝そうな表情を浮かべつつ、上品な口調で言う。ゆったりとして、柔らかな雰囲気だ。頭は白くなりかけて、着ている制服は古めかしいが、何十年もそのスタイルでやってきたというような説得力がある。
「突然すみません。わたくし、こういう者です」
室長が名刺を掲げるように差し出し、深々と頭を下げる。もはや見慣れた風景だ。普通の人間なら奇妙に思うだろうそんな行動に、その女性は一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに愉快そうに笑った。
「あら、これはご丁寧に」
女性が名刺を受け取ると、室長は顔を上げ、続けた。
「先ほど、社長とお会いしてきました。我々、求人広告をやっておりまして」
求人、という言葉が出た時、女性の顔に安堵とも警戒とも取れる不思議な表情が浮かんだ。「ああ……求人の」そう言って室長の名刺に目を落とす。
「ええ、そうなんです。それで少し、現場の方を取材させていただけないかとやってきた次第で。あの……失礼ですが……」
「あら、ごめんなさい。私、中澤の妻です」
「ああ、やっぱり」
室長は大きく頷いて、それから口元に手を当てて、「あの……ご事情の方は?」と小声で聞く。
室長の言葉に、婦人はやはり、不思議な表情をしたまま、「ええ、わかっております」と頷く。悲しげな笑顔、とでも言えばいいだろうか。中澤婦人はちらりと後ろを振り向くようにして、それから首を傾げるようにして言った。
「ただ、私たちも困ってしまっていて……どうしたものかしらって、考えてはいるんですけど」
「ええ、ええ。そうでしょうなあ」
立ち話もなんですから、と婦人が応接スペースのソファを勧めてくれ、俺たちはそれに甘えた。お茶、入れますから。婦人は微笑んで頭を下げ、事務所の奥に下がっていく。
「キレイな事務所だなあ」
隣に座った室長がポツリと言い、俺は思わずその顔を覗き込む。キレイ? 何を言ってるんだ。見るからにくたびれたボロボロの事務所じゃないか。どこがキレイなんだ。
「ほら、物は年季が入っているが、ピカピカだ。毎日丁寧に掃除されてる証拠だよ」
「……」
そう言われてあらためて事務所内を見回すと、確かに古びた事務所には違いないが、室長の言う通り、不潔な感じはまったくない。むしろ、このソファにしろテーブルにしろ、受付のカウンターにしろ、整理整頓が行き届いており、清潔だ。
「古いこととキレイなことは、矛盾しない。逆に、新しいからと言ってキレイだとも限らない。人間も同じだけどね」
なんとなくいいことを言っているような気もするが、常に呑気な室長から言われてもピンとこない。
「はあ……そういうもんですかね」
「あ、すごいぞ、ジョーダンだよ、ジョーダン」
室長は突然興奮したように言って立ち上がり、入り口からは角度的に見えなかった奥の壁を指差す。
「冗談? なんですか」
その指の示す方を見るが、そこにはバスケットボール選手らしい黒人のポスターが貼ってあるだけだった。
「だから、ジョーダンだよ、ジョーダン。マイケル・ジョーダンって、バスケの神様さ。うわあ、懐かしいなあ」
ああ、何となく聞いたことがある。靴のブランドだと思っていたが、そうか、ジョーダンという選手がいたのか。それにしても、島田にそっくりな体型のこの室長から、スポーツ選手の名前が出てくると変な感じがする。
「……好きなんですか、バスケ」
「うん、好き好き。今でもよくやるし」
は? 今でもよくやるって、その体型で? 思わず笑いそうになったが、初めてHR特別室に行った時、ソファに横になっていた室長がすごいバネで立ち上がったのを俺は思い出した。まあ、そんなことはどうでもいい。
「あれ、ちょっと待って、あれサイン入りなんじゃ……」
室長は立ち上がるだけでは済まず、ふらふらとそのポスターの方に近づいていった。
ああもう、とそれを止めようと俺も椅子から腰を浮かせかけた時、ポスターのある壁のすぐ横の扉が、勢いよく開けられた。
そこに立っていたのは――
巨大な体をした男。俺は目の前が暗くなるのを感じた。
間違えるはずもない。ほんの数十分前に病室で会ったあの男だ。社長が「辞めさせたい」といっていた、あの社員。
俺たちを見つけた男は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに状況を理解したのだろう。今にも爆発しそうな表情をして大股で近づいてくる。その勢いに俺は、尻もちをつくようにソファに押し戻されてしまった。だが室長は反対に、躊躇なく男に向かっていくではないか。
「ああ、これはこれは!」
迷いなく向かってくる室長にさすがの男も立ち止まり、事務所中央あたりで二人は対峙することになった。社員の男より室長は頭一つ分背が小さい。
「どうも、先ほどは!」
快活に言う室長を、男はどこか不気味そうに見下ろし、それでもドスの効いた声で言った。
「こんな所まで来て、どういうつもりだ」
そうだ。その通りだ。この男はさっき、激怒して病室を出ていった。その原因となった人間が会社にまで押しかけてきたとなれば、さらに怒りは大きくなるに違いない。室長が勝手にタクシーを停めてしまったせいもあるが、病室で会ったせいか、この男がここにいるというイメージはなかった。だが、考えてみれば、社長の見舞いを終えた社員は会社に戻るのだ。
だが室長は、ひるまない。
「いやあ、もう少し御社のことを知りたいなと思いまして」
「はっ、俺たちは知ってもらいたかなんてねえよ。いいから帰れ!」
「嫌ですよ、せっかく来たのに」
「誰も呼んでなんてねえんだよ!」
男と室長が言い争っていると、事務員が呼びに行ったのだろう、奥から婦人が顔を出し、驚いた表情で駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっとタカちゃん、何やってるの」
男はチッと舌打ちをすると、自分の胸の高さにある室長の顔を太い指で指し示す。
「こいつら、求人の業者なんだぜ。さっき病院にまで押しかけてきて……」
「知ってるわよ。だって、あの人が呼んだんでしょう?」
「うるせえ! ウチは人は足りてんだ。新人なんて必要ねえんだよ!」
喚く男を困ったように見つめた婦人は、小さく溜息をつくと、室長と男との間に入るように一歩前に出た。
「取材、をするんですよね。私たちはどうご協力すればいいかしら」
「こ、こら! 相手にすんじゃねえよ!」
男はさらに喚くが、婦人は肩越しに振り返り「あなたはちょっと、静かにしてて」とピシャリと言う。
「おい、おっかさん。いいから俺の言う通りに――」
「……おっかさん?」
室長がきょとんとした顔で聞き返す。
「う、うるせえな。とにかくいい加減にしねえと警察を呼ぶぞ!」
「タカちゃん、いい加減になさい」
婦人が再度言うと、男は不満げに、だが黙った。それを見た婦人はあらためて俺たちに向き直り、「ごめんなさいね」と頭を下げる。
「ほんと口が悪いんだから……でもね、こう見えて本当は優しい子なんですよ。職場でも頼りにされててね」
「ええ、社長もそう仰っておりました」
室長が言うと、男は一瞬驚いた顔をして、それから居心地悪そうにぷいっと視線を逸した。
「それで、どういたしましょうか」
「そうですね、もしよろしければ、彼に職場を案内してもらえないかと」
「え……タカちゃんに」
婦人が驚いて答える。
「ええ、タカちゃんに」
室長がニコニコしながら頷いた。
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