第3章  『息子にラブレターを』④

 どういうことだ。一体何の話をしているのか。


 あの男はどう考えても、「信頼できそうな男」には見えなかった。それどころか、自己中心的で短絡的で、すぐに問題を起こしそうな男に見えた。


 そもそも本当に信頼できる男なのだとしたら、なぜ社長は彼を辞めさせなければならないのか。


 沈黙が降りた。わけがわからなかった。


「何があったんです?」


 やがて室長が、優しく聞いた。悲しげな表情を浮かべていた社長はやがて、「まあ、話さんわけにはいかんわな」とどこか自嘲的な笑いを漏らし、記憶を探るように天井を見上げる。


「少し前……と言っても、もう3ヶ月前になりますか。あいつの母親が倒れたんですわ。あいつにとって唯一の肉親だ。でも、私らがそれを知ったのは、ほんの2週間前です」


「ほう……それは」


「黙ってたんですな。あいつは母親が倒れたことを知っていて、だけども私たちには言わなかったんです」


「それはまた……どうしてです」


 室長の質問に、社長は天井を見上げたまま辛そうに顔を歪めた。だが、俺たちの視線に気付いたのか、すぐに無理な笑顔を作って見せる。だがそれも長くは続かず、社長はすぐに窓の外に視線を投げる。


「これは本人に聞いたわけじゃないから確かではないが……まあ、言えなかった、ということなんでしょうな」


「言えなかった」


「ええ……情けない話なんだが、3ヶ月前といえば、ちょうど納品した部品に規格ミスが見つかって、工場全体で急遽再生産をしてた時期なんですわ。猫の手も借りたいくらいの忙しさだった。あいつは現場の責任者だから、言えなかったんでしょう。母親の容態が、急を要するほどではなかった、ということもあった。だからあいつは、母親のことは自分の胸にしまって、現場の誰よりも必死になって仕事をしたんです」


「ははあ……そんなことが」


 さっきの巨体の男が、病気の母のことを考えながらも、歯を食いしばって仕事をしている場面を俺は想像した。もちろん知るはずのないあの男の母の顔は、すぐに俺の母の顔に変わった。布団の中で苦しげに歪むその表情に、胃が嫌な感じで収縮する。


 俺にはできるだろうか。親が倒れたとして、それを自分の内に留めたまま、普段通りに仕事ができるか?


「……でもそうすると、なぜ社長は今、お母様のことをご存知なんですか」


 室長が聞いて、確かにと思う。途中で気が変わって、告白したということなのだろうか。


「2週間前、ウチで雇っているベトナム人が、こっそり教えてくれたんですわ。班長――あいつのことですが、ときどき現場を抜けて電話をしてるんだと。何度か事情を聞いたらしいんだが、気にするなと言って教えてくれない。そういう期間がしばらく続いていたんだが、そいつはどうしても気になって、電話を持って現場を離れるあいつの後をつけた。そしたら、工場の裏で電話をしているあいつが、一人で頭を抱えてたっていうんだよ。何かあったに違いない、心配だからこうして言いに来たって」


「なるほど、そういう訳だったんですね。それで社長は、彼には?」


「ええ、あいつを呼んで確かめましたよ。最初は頑なに何も言わなかったんだが、何かその表情を見てたら心配になってきてね、しつこく聞いたんです。そしたらね……まあ、あいつはあいつで黙ってるのが辛かったんだろうなあ。最後には、母親の具合が悪いんだということを教えてくれた。……聞けば、倒れたのはもう随分前なんだと言うじゃないですか。……あのときは、目の前が真っ暗になりましたな。自分が情けなくて情けなくて……とにかく一度実家に戻るように言いました。仕事はいいから母親に会ってこいと」


「なるほど」


「とにかくこっちのことは気にせず、親子水入らずでゆっくりしてこいと、そう言った。あいつの田舎は愛知県の片田舎でね、うまい地酒もある山奥です。3日とか4日とかじゃなく、ひと月くらいは休んだって構わないと思ってました。……ただね、現実問題、あいつが抜けた分は誰かが埋めにゃならんでしょうが。小さな工場だし、あいつは現場の要だからね。で、それは私がやりゃいいと。責任を感じていたんでしょうな。あいつが話をできなかったのは、私のせいだと思ってたから」


 そう言った直後、社長は笑いだした。楽しくて笑っている、という感じではなかった。もっと何というか、自分を嘲るような笑い方。俺と室長は思わず顔を見合わせる。


「それがどうですか。張り切って働いたら、今度は私が倒れてしまいました。大したことないのに、皆が大騒ぎしてしまった。それが愛知にいるあいつの耳にも入りましてね……飛んで帰って来やがった……自分がいなけりゃ会社がダメになる、そんなことを言って」


 笑い声はやがて小さくなり、驚いたことに、徐々に嗚咽に変わっていった。


「……私はね、消えたいと思うくらいに、自分が情けないですわ。あいつに、病身の母と一緒にいさせることすらできない……この苦しさが、わかりますか」


「……」


 そして社長は、顔を上げた。真っ赤な目で俺たち二人を見て、覚悟のこもった口調で言った。


「私はね、あいつを開放してやりたいんですわ。そのために、新しい人間を見つけなきゃならん。あいつが安心して出ていけるような新人を」





 病院を出た俺たちは、葛西駅に向かって歩き始めた。


「難しい状況ですね」


 道すがら俺が言うと、「そうだねえ」と室長も同意する。


「でも、どうして社長は、退職にこだわるんですかね。別に、しばらく休暇を取らせるなり休職させるなりすればいいのに。それでお母さんが元気になったら、戻ってくればいいじゃないですか」


それは病室にいるときから感じていた違和感だった。そもそも社長の態度は、イチ社員に対するものには思えないほど、重かった。会社が大変だからという理由であの男が母親のことを言い出せなかったのだとしても、嗚咽するほど責任を感じるものだろうか。


 黙って考えている俺を、いつの間にか室長が横目で見ていた。


「……なんですか」


「いや、私も同じことを思ったよ。ただ――」


「ただ?」


「何か理由があるんだろう。私たちにはわからない理由が」


「そりゃ……そうかもしれませんけど」


 室長の言葉を聞いて、俺は奇妙な感覚に襲われた。何か、怒りのようなものを感じたのだ。


 室長はそんな毒にも薬にもならない言葉で、この話を終わりにする気なのだろうか。


 そして、そんな風に考えている自分に少し驚いた。別に、いいじゃねえかそれで。病院まで呼び出されようが、目の前で泣かれようが、これはあくまでビジネスの関係だ。わざわざ面倒くさい話に首を突っ込む必要はない。以前の俺なら、そう考えて終わりだっただろう。


「まあ、とりあえず行ってみようよ」


「……は?」


 所長はそう言って、帰り際に社長からもらった名刺を取り出した。それをまるで太陽に透かすように掲げ、ブツブツと何かを言っている。


「ねえ君、地図読めるタイプ? この住所、ここから近いのかなあ」


「え……今から行くんですか。中澤工業に?」


 俺の言葉を無視して、室長は道を走るタクシーに向かって手を上げた。

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