第3章 『息子にラブレターを』③
「……え?」
意外な発言に、思わず室長と顔を見合わせた。人の良さが滲み出ているような社長だ。社員を辞めさせないよう頑張ることはあっても、辞めさせたいなどという言葉が出てくるとは思わなかった。
「ええと……それは、御社の社員さんを、ですか」
室長が確かめるように聞くと、社長は頷いた。
「そうです。あいつにはどうしても、辞めてもらわにゃならん」
怒りなのか悲しみなのか、微かに潤んだ小さな丸い目が、布団の上を見つめている。その表情にはある種の覚悟が見えた。何があったのかはわからないが、社長は本気で言っている。それがよくわかった。
「あの、そのお話、もう少し詳しく話していただくことは――」
室長が言いかけた時だった。
俺の正面10メートルくらい先、つまり先ほど俺たちが入ってきたこの大部屋の扉が、勢いよく開けられたのだ。
扉を開けたのは、医者でも看護婦でもなかった。かといって患者にはとても見えない、海外のラガーマンのようなガタイをした作業服姿の男だった。
その男は、明らかに敵意を込めた目で室内をぐるりと見回すと、まっすぐ一直線上にいる俺に視線を留めると、大きく目を見開いて、ズカズカと大股でこちらに近づいてきた。
「うわ、ちょ、何……」
思わず腰を浮かせたが、壁際にいる俺に逃げ場などない。男はあっという間に目の前まで来ると、巨大な体で覆いかぶさるようにして顔を近づけてくる。
「おい……なんなんだ、あんたら」
男は予想以上に大きかった。身長は恐らく180センチ以上、体重も100キロを越えているかもしれない。空手をやっている同級生が、組手の相手としては縦に長い奴より横に長い奴の方が怖いと言っていたが、縦にも横にも長いこんな男は一番嫌だろう。
「いや……あの……え?」
あんたら、と言いつつなぜか男は俺に向かって言った。なんなんだと言われても……いや、ていうかそっちこそなんなんだよ。いきなりこんな……
頭の中で思うが、あまりの迫力に言葉が出ない。
「ウチの社長に何の用だ。こんな所まで押しかけてきやがって」
……ウチの社長? そう思ったときに、横から声がした。
「おい、やめろ! この人らは違うんだ」
中澤社長だった。小さな目がいっぱいに見開かれている。
だが、男は社長を横目でチラリと見ただけで、すぐに俺を睨みつけ、言う。
「違うわけあるか。知り合いでもねえ奴が見舞いになんかくるかよ」
丸坊主に無精髭、ニキビの跡、ドスの利いた声。まさに体育会系と言うか、プロレスラーだと言われても信じる。
「見慣れないやつが来てるって言うから飛んできたんだ。商談、だと抜かしたそうじゃねえか。こんな病人つかまえて、何が商談だこの野郎」
その言葉に、そうかと思う。受付にいた女性だ。あの神経質そうなスタッフがきっとこの男に言ったのだ。あの人が室長を変人だと思ったのは間違いない。というか、実際、変人なのだ。病院の受付で「面会ではなく商談だ」と言い張る人がまともなわけがない。
これはまずいことになった、と思う。
「いや……あのですね……」
俺は両手を体の前に出し、「まあまあ」という体勢になる。何とも情けないが、こんな男を前に虚勢を張れるほど、俺は揉め事に慣れていない。何より、俺たちがここに営業に来ているのは間違いない事実なのだ。もっとも、俺だって好きで来たわけじゃない。この頭のおかしい室長に無理やり連れられて……
「ああ、こりゃどうも!」
室長が元気に言い、俺と男の間に、尻をねじ込むようにして入ってきた。
「ご挨拶が遅れました。わたくし、こういう者です」
室長が躊躇なく頭を下げ、まるで男に対して頭突きをするような形になった。男は「わっ」と言って体を引き、室長が高々と差し出した名刺越しに、なぜか俺を見つめる。その顔には、なんなんだよこいつ、と書いてある。
いや、だから、俺に聞かれてもわからねえって。
苦笑いを浮かべ、自分でもどういう意味なのかよくわからない会釈をして見せると、男はわけがわからないという顔で名刺を受け取った。
「アドテック……なんだよ、何の会社だよ」
男が言うと、室長ではなく社長が答えた。
「俺が呼んだんだ。無礼な態度をとるんじゃない」
男はチッと舌打ちをする。
「呼んだって……だから一体何しに来たんだよこいつらは」
「この人らは、求人の業者さんだ」
それを聞いた瞬間、男の顔色が変わった。
「……求人?」
絞り出すような声。その顔に浮かぶのは怒りというより、驚きだ。
「どういうことだよ」
男の言葉に、社長は視線を逸らし、窓の外を見る。
「わかっとるだろ」
沈黙が降りた。だが、それも長くは続かなかった。
「……ざけんなよ」
男が呻くように言った。
「ふざけんじゃねえよ! ……馬鹿野郎、俺は辞めねえぞ……絶対に辞めねえからな!」
男の叫び声が部屋中に響き渡った。
◆
「すみませんな、みっともとないとこ見せて」
男が部屋を飛び出していった後、社長が言った。
「いえいえ、とんでもない」
室長は言い、よいしょ、と言いながら俺の隣の椅子に戻った。
「あいつは気が短くてね。いつもああなんだ」
社長が扉の方を見ながら言い、それに俺たちも倣う。引き戸は既に閉じられて、さっきまでの喧騒が嘘のようにひっそりとしている。
「彼……御社の?」
出ていくあの男の姿を見るような口調で、室長が聞いた。社長は頷いて、「困ったやつです」と呟く。俺たちを気遣ってか、一瞬笑顔を浮かべて見せたが、それもすぐに強張って、辛そうに視線を逸らしてしまう。
「彼ですか。辞めてもらわなきゃいけない社員さんというのは」
室長の言葉に、ハッとする。
そうだ。俺たちはそういう話をしていたのだ。
室長の質問に社長は答えなかった。だが、裏表のない人なのだろう、その無言が肯定を示していることが、よくわかった。
だが、改めて考えてみれば、当然だという気もした。あんなに感情的な人間を雇っていたい経営者などいない。ただでさえ不祥事にはうるさい時代だ。1人の社員の起こしたトラブルが、会社の存続に関わることだってある。
――トラブル。
頭に浮かんだその言葉に、ピンと来た。
ここに来てすぐ、室長は「トラブっている」と言っていた。その「トラブル」とは、社長とあの男との話なのかもしれない。俺たちAAと揉めたわけではなく、中澤工業の中でのトラブル。そう考えれば、社長の俺たちに対する態度にも納得がいく。
微かに安堵を覚える一方で、厄介だなとも思う。あの男は「絶対に辞めないぞ」と宣言して出ていった。すごい剣幕だった。社長があの男を辞めさせたがっていることを、あの男自身も知っているのではないか。俺もHR事業者だ。日本の法律のもとでは、正社員の解雇が決して簡単ではないことも知っている。
どうやってあの男を納得させるのか。どうやって「自ら会社を去るように」仕向けるのか。
そんなことを考えている俺の耳に、室長の意外な言葉が入ってきた。
「それにしても、信頼できそうな男でしたな」
驚いたのは社長も同じだったらしい。目を丸くして室長を見つめた。
だが、やがてふっと微笑むと、嬉しそうに言った。
「わかりますか」
「ええ、そりゃあもう」
深く頷く室長を、社長は目を細めて見つめ、そして言った。
「あいつは、中澤工業の、芯になっとる男です」
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