第2章  『ギンガムチェックの神様』⑦

 クーティーズバーガーの厨房にいた大きな体の男が店を出ていき、それを追うように保科が去っていった後。社長の怒りは嘘のように消え、ただ呆然とした表情でテーブルを見つめていた。


 「じゃ、あと頼むわ」そう言って出ていった保科。


 めちゃくちゃだ。まともな大人とは思えない。だが、この店に入る前と今とでは、保科に対する印象が変わったような感じがする。どう変わったのか、そう聞かれてもよくわからない。あの小柄なキャップの男は、間違いなく頭がおかしい。おかしいが………しかし。


 気づくと社長は、テーブルの上に置きっぱなしだった『美食の本懐』に手を伸ばし、静かにその表紙を開いた。黄ばんだページ、途中で千切れている赤いしおり紐。ビジネスマン、というより、やはり職人独特の節だった社長の指が、その表面を優しく撫でていく。


 その顔に浮かぶのは、もう感情とも呼べないような何かだ。笑っているようでもあり、泣いているようでもあり、そして何も感じていないようにも見える。


 居たたまれなかった。黙って本のページをめくる社長を見ているのも、あるいは、その社長に見つめられるのも、嫌だった。だが、その理由がよくわからない。


 俺は正体不明の不快感に襲われていた。今すぐにここを出たい。こんな、何かが「剥き出し」になったような場所には、もういたくない。


「あの……じゃあ、また連絡しますから」


 一方的に言って席を立った。


 滞在時間は三十分程度だっただろう。だが、店を出た途端、長い夢から醒めたような感覚があった。


 スーツを着たサラリーマン、みっしりと連なった飲食店。新橋の町は、三十分前と何も変わっていない。その「日常」に早く戻りたいと、俺は慌てて足を踏み出した。



 HR特別室に戻ると、向かって左側のミーティングスペースに保科が座っていた。キャップを取り、それを左の指でクルクルと回している。途端に怒りが沸き起こった。


「ちょっと保科さん!」


 だが次の言葉が出る前に、俺は思わず口をつぐんだ。保科の向かい側に、見覚えのある男が座っていたからだ。


「あ……あなたは……」


 それは間違いなく、さっきの店、クーティーズバーガーで見たあの大男だった。汚れた調理服。ポマードのようなもので固められた黒髪。髭。その風貌に似合わぬおどおどした態度。


「来客中なんだ、静かにしろよ」


 振り返った保科が、左手で弄んでいたキャップをかぶりつつ言う。その向かいで、大男が上目遣いに俺を見、小さく会釈する。


「……あの……先ほどはすみませんでした」


「え……あ、いえ」


 状況が飲み込めない。保科はともかく、なぜこの男がここにいるのだ。いや、いま思えば確かに、保科はこの男を追って店を出たような感じだった。だが、一体何のために? そして、なぜ二人してここに来るんだ。


「あの、保科さん。どうしてこの人がここに……」


「取材してんの。つうかさ、そんなとこで突っ立ってられると気が散る。座るかどっか行くかして」


 そう言われて、わけも分からず俺も腰を下ろすことになった。……いや、ちょっと待て。取材?


 俺が混乱する横で、保科は向かいの男に話しかける。


「じゃ、茂木さん。あらためて聞かせてください。どうしてさっき、店を飛び出したりしたんです?」


 男の名は茂木と言うらしい。まるで警察官に取り調べを受けているように、落ち着かない様子で視線を動かす。


「それは……」


 茂木が口ごもる。確かにこの人はなぜ店を飛び出したのだろう。社長の驚きようからすると、あれは予定外の出来事だったに違いない。もしかしたら茂木自身も、自分がなぜ飛び出したのかわからないのかもしれない。


「茂木さん、これは採用のための取材だよ。あなたが話してくれないと、原稿なんて書きようがない」


 原稿……。やはり保科は制作マンなのだ。だが、社長にあんな態度を取った以上、掲載依頼などもらえるはずがないではないか。原稿制作も、そのための取材も、無駄でしかない。


 保科の言葉に、しばらく黙っていた茂木はやがて、意を決したように顔を上げた。


「もうダメだな、と思ったんです」


「ダメって?」


 保科が先を促す。いつの間にか手元にノートを広げ、メモを取り始めていた。


「俺……ほぼ創業時からのメンバーなんです。下北の店ができて三ヶ月後くらいに入ったんで、もう10年以上になるんですけど」


「下北のOPEN3ヶ月後っていうと、2006年の秋頃か」


 保科が即座に返す。


「そうですね。それくらいです。次の年の4月に正社員になって、そこからは一応ずっと、頑張ってきたんですけど。でも、もうダメだなって。ダメっていうか、あんな社長、もう見ていたくないっていうか」


 社長の話が出て、なぜかドキリとした。ほんの10分か15分ほど前、魂が抜けたような顔で、保科の置いていった単行本を眺めていた社長の姿が思い出される。俺が店を出た後、社長はどうしただろうか。


「前の社長はどんなだったんです? 今とは違ってたわけでしょ」


「そりゃあもう」


 保科の言葉に、茂木は大きく頷く。


「なんていうか、24時間ハンバーガーのことしか考えてないって感じの人でした。毎日のように新メニューを開発しては、俺たちに試食させるんです。テキトーな意見を言うと怒られてね」


「怒られる?」


 思わず俺が口を挟むと、茂木は「ええ」とどこか照れたように笑う。


「うまい、とか、いい感じ、とか、そういうのじゃ納得しないんです。社長、これを食べてお前は何を考えた、少しでも幸せを感じたか、みたいな聞き方をするんですよ」


「幸せを」


「そうです。幸せは食から生まれる……ってのが社長の口癖で。……ほら、さっき保科さんが持ってきてたあの本、『美食の本懐』でしたっけ。あれの受け売りらしいんですけど。とにかくあの頃の社長は、バーガーを通じて人を幸せにするってことに全力を傾けてる感じでしたね。誰よりも早く店に来て、誰よりも遅く帰ってましたし、オーダーが溜まって大忙しなのに、ちょっとでもバーガーを残した客がいると店の外まで追っかけてって話を聞いたり」


「そりゃすごい」


 保科がふっと鼻を鳴らす。


「そうやっていろんな人からいろんな意見を聞いて、どんどん新しいメニューを開発してました。その数は何百種類だと思いますよ。素材とかにもすごくこだわってて、バンズの新しい仕入先を探すためだけに2週間店を閉めたこともありました」


「なんか……バーガーづくりに取り憑かれてるって感じですね」


 思わず言うと、茂木は頷く。


「ええ、まさに。……でも、俺はそんな社長が好きでした。俺だけじゃない、他の社員やバイトたちも皆そうだったと思います。社長がハンバーガーのことしか考えてないから組織体制とか待遇とか、そんなの全然整ってなかったし、給料だって安かったですよ。バンズの件で2週間店を閉じたときなんか、俺達の給料まで半分になるところだったんですから。……でも、それを不満になんて思わなかった。むしろ、社長がバーガーのことだけ考えていられるように、皆でフォローしようって言い合って」


「どうしてそんな風に思ったんですか」


 保科が聞く。茂木は昔を懐かしむように天井を見上げ、ポツリと言った。


「社長の作るバーガー、本当にうまかったんですよね」


「なるほど」


 保科はニヤリと笑い、深く頷いた。妙に楽しそうな様子で、ノートに何事かを書き込んでいく。


 いや、何が「なるほど」なんだ。俺にはまったくピンと来なかった。


 社長の作るバーガーがうまいと、なんで給料が減ってもいいと思うんだ。俺なら絶対にゴメンだ。どうして社長の道楽に社員がつきあわなきゃならない――


「ちなみに、茂木さん以外の社員さんは?」


 保科が言うと、茂木は悲しげに視線を落とした。


「辞めましたよ。店をリニューアルオープンしてから、少しずつ」


 リニューアルオープンというのは、さっき保科が店で話していた移転のことだろうか。下北から新橋へ。二倍以上の広さの物件に引っ越したんだと言っていた。おそらくそれでオペレーションが変わったのだろう。それに不満を持った社員たちが辞めていった。


 そういう話は、小中規模のクライアントを多く抱える営業三部や二部の人間からよく聞いていた。特に飲食店というのは、立地や客層のちょっとした変化で売上が大きく変わる。


 儲かっていたからといって、そのビジネスモデルがどこでも通用するかと言えばそうではない。同じ地区内でも、通りを一本移動しただけでガクリと売上が落ちた、という話もあるくらいだ。


「大きな物件に移動したことで、オペレーションが大変になったんだ。それでしんどくなって辞めていった。そうでしょ?」


 思わず言った。俺だって天下のAA、それもエリート揃いである「営業一部」の人間だ。まだ3年目の若手には違いないが、大手企業をいくつも担当してきたプライドはある。


 しかし保科は「はあ?」という顔をした。


「社員たちが辞めたのは、店が移転したせいじゃねえよ」


「え?」


「メニュー刷新がキッカケだ。そうでしょ? 茂木さん」


 保科がそう言うと、茂木は深く頷いた。


「そうです。その通りです」


「移転当初は、皆あんなにやる気だったのに?」


「え……ええ、そうです。移転に伴ってはバイトが数名辞めた程度で、社員は全員残ってました。状況が変わったのはメニューが変わった後です」


 茂木が少し戸惑ったように言う。


「ちょっと保科さん、なんでそんなことまで知ってるんですか」


 だが保科は俺の言葉を完全に無視し、「具体的には、何が変わったんです?」と茂木を促す。


「そうですね……それまでとは違って、効率とスピードが重視されて、そして何より、社長がいなくても作れるような簡単なレシピになりました。確かに回転率は上がったんです。客単価も200〜300円くらい下げたんで、新規の客もかなり増えましたし。でも、反対にスタッフのモチベーションはどんどん下がるばかりで……それで気づいたら一人、また一人と辞めていって」


「社長はそのことを知ってたわけでしょ。つまり、社員たちがどんどん辞めていってること。彼はその間、何してたんです?」


 茂木の顔が暗くなる。


「店長……いや、すみません。以前は社長が店長をやってましたからそう呼んでたんです。……社長はその頃にはもう、社長業っていうんですか、そういうのに夢中になってて、現場にはほとんど顔を出さなくなってました。何とかコンサルタントとか、横文字の肩書の人たちとつきあうようになって、データとか生産性とか、そういう話ばかりするように……。そもそもメニュー刷新の件も、社員には何の相談もなく社長が決めたんです。多分、そういう外の人たちの入れ知恵だと思うんですけど。とにかく、なんというか、社長は変わってしまったんです。辞めていった社員のことも、あいつらは新しいシステムに対応できない古いタイプの人間だったんだ、って言って」


「なるほど……でも、茂木さんは残った。なぜです?」


「別に……俺しかいなかった、っていうだけのことです。正直、逃げ遅れたって感じですよね。気付いた時には社員は自分しか残っていなくて、だからバイトたちのシフトを増やすんですけど、店を任せられるほどモチベーションのあるバイトなんてなかなか見つからないじゃないですか。……いや、下北時代は自分含めてそういうバイトもいたんですけど……今はもう、1日3時間だけならとか、土日は無理とか、当日ギリギリになっての欠勤とか……そういうのが当たり前で。だから、結局、俺が店に立つしかないんです。別に残りたくて残ってたわけじゃありません」


「……」


「……」


 俺も保科も何も言えなかった。茂木はこういう話を、もしかしたら初めて誰かにしたのかもしれない。だが、吐き出してスッキリした、という感じには見えなかった。どちらかと言えば、話す前より苦しそうですらある。その顔は、まるで先ほど店で見た社長のようだ。そんな人に、どんな言葉をかけられる。


 沈黙を破ったのは、茂木だった。


「さっきも言いましたけど、社長の作るバーガーは本当にうまかったんです。なんじゃないかって、社員たちの間ではよく言い合ってました。でももう、社長はあの頃の社長じゃない。バーガーの神様は、もうあの力をなくしちまったんでしょう」


 保科は目を細めてそれを聞いていた。そしてちらりと壁掛け時計を確認し、言った。


「よし、茂木さん。確かめに行こう」


「……」


 茂木は黙って保科を見返した。数秒間、二人は見つめ合った。やがて茂木がふっと笑みを浮かべ、頷いた。


「そうですね。そうしましょう」


 いや、ちょっと待て。一体何の話をしてるんだ。


 状況についていけず二人の顔を交互に見つめる俺に、保科がおかしなことを言った。


「今すぐ店に戻るぞ」


「……は? なんでですか」


 店というのは恐らく、ほんの30分ほど前までいたあの店、クーティーズバーガーのことだろう。だが、なぜ? 今からあそこに行って何をしようというのか。


 呆気にとられていると、なぜか嬉しそうな顔をした保科が俺を見た。


「よし営業マン、速攻ダッシュして社長を引き留めとけ」


「は?」


「早くしないと社長、どっか行っちゃうかもしれないじゃん」


「い、いや……ちょっと待ってくださいよ、さっきから何を言ってるんです。どうして社長を――」


 思わず言い返す俺に、保科はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「だから、神様のつくる“幸せ”を、食いに行こうって言ってんだよ」

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