第2章  『ギンガムチェックの神様』⑥

 社長の動きが固まった。そしてゆっくりと保科を見る。いや、それは俺にしても同じだった。


「……保科さん?」


 聞き間違いかもしれない。いや、そうであって欲しい。


「……何だ君は。何がバカだというんだ」


 社長が呻くように言った。保科は肩をすくめ、だが特に躊躇する様子もなく、こう言い放った。


「こいつが今した話だよ。社長さん、あんな話に納得したんですか?」


「ちょっと……あんた一体何を……」


 思わずそう言う俺を、保科ではなく社長が手を上げて制した。社長は目を剥き、歯を食いしばった顔は、怒りのためか赤くなっている。


「この人は……この人は採用単価を下げるって言ったんだぞ。掲載料金も割安になるって……それのどこがバカなんだ」


 声がおかしい。何かをせき止めているような、喉の奥に落ちていくような声。


 もうやめた方がいい、そう思って保科を止めようとしたが、間に合わなかった。保科はそんな社長を前に、まるで1たす1の答えを言うような気軽さで、言った。


「うーん、それがバカだとわからないところ、かな」


「何だと!」


 社長が叫んで立ち上がる。


「何だその態度は! 何なんだお前は! ずっと自分は関係ないみたいな顔しやがって、やっと口を開いたと思ったらそれか! お前……俺が、俺がどんな思いで商売やってるかわかってるのか! バイトは入ってもすぐ辞めるし、店もまとも回らない。だから売上も上がらないし、それでも高い金を払って求人を出し続けているんだぞ! お前、採用ってものを真剣に考えているのか!」


 そこまでを一気に吐き出した社長は、肩で息をし、そして鬼の形相にも泣き顔にも見える表情で保科を睨みつけた。


 俺は怖くなった。保科は一体何を考えている。客のこんな顔を商談の場で見たことなどこれまでに一度もない。いや、商談の場だけじゃない。俺はこんなにも感情をむき出しにした人間を見たことがあっただろうか。


 嫌な空気だった。社長の痛みが漏れ出しているような、重苦しく、悲痛な空気。もともと小柄な社長だが、威勢よく怒っていた時に比べ一回り小さく見える。


 俺は保科を見た。奇妙なことだが、助けを求めるような気持ちだった。社長をこうさせたのはこいつなのに、なぜかどこかで、保科ならどうにかしてくれるような気もするのだ。


 保科はしばらく静かに社長を見つめていた。その表情はフラットだ。嫌になるくらい、フラットだ。


「採用を真剣に考えているのか……か」


 保科は独り言のように言い、そして、微かに俯いて小さな溜息を漏らすと、上目遣いに社長を見据えた。


「その言葉、そのまま返しますよ、社長」


「な……」


 絶句する俺と社長を前に、保科は続ける。


「だってそうでしょ。採用の打ち合わせなのに、なんでデータだとか金だとか、そういう話ばっかりなんだよ。採用ってのは、人間の話だろ? だったらもっと、人間の話しようぜ」


 ……ドキリとした。


 人間の話。


 社長も同じだったのかもしれない。怒りのあまり見開かれていた目が、ゆっくりと机に降りていく。だが、怒りがおさまったわけではない。当然だ。


「お、お前に何がわかる……お前みたいなガキに……」


 すると保科は何を思ったのか自分のリュックをガサガサと漁り始めた。そして中から赤い表紙の単行本を一冊取り出すと、それをどんとテーブルに置く。


 見るからに古い本だ。タイトルは……『美食の本懐』。著者名はアーロン・ウッドワードとなっている。赤い表紙に、何も乗っていない皿を持つコックのイラストが書かれている。


「これは……」


 社長は目を丸くして呟くと、その本に手を伸ばした。


「保科さん……何ですかこの本?」


「……四十年くらい前に発売された、ある美食家のエッセイ集だよ」


「美食家?」


「そう。でも、別にうまい店を紹介してる本じゃない。食べるとはどういうことか、いや、幸せとは何なのかって妙に漠然とした話を延々と語ってる。……そうですよね、社長」


「どうしてこれを……」


 社長は信じられない、という顔で本を手に取り、保科に言った。


「10年くらい前、ある人が社長の作ったバーガーを食べて、その時の感想をブログに書いて残してたんだよ。その人はバーガーのうまさに感動して、それを作った当時の社長に声をかけた。どうしてこんなバーガーが作れるのか、どんな工夫をしているのか、モチベーションは何なのか。そんな質問に対して、社長は答えた。ウッドワードの『美食の本懐』が原点だということ。食べることを通じて人を幸せにしたい、幸せは食から生まれるってことを教えたい。その触媒としてうまいバーガーを作ることが、自分の使命なんだって」


「使命……」


「社長はうまいバーガーを作るために、そしてそれを食べた人たちを幸せにするために頑張った。毎日遅くまで店に残って、新しい商品を開発したり、サイドメニューを考えたりした。おかげでお客さんはどんどん増えた。当然、大勢のスタッフが必要になった。でも、これは俺の想像ですけどね社長、あの頃は採用に困ったりはしてなかったんじゃないですか?」


「………」


 社長は黙っていた。


「誰よりも率先して行動する社長に共感して、あるいはその調理の腕に憧れて、ここで働きたいって人がたくさんいたんじゃないですか?」


「………」


「クーティーズは活気ある店になった。売上もかなり上がったんでしょう。それで店を移転することにした。それまでの店舗の二倍以上の広さだ」


「え……じゃあ昔はここじゃなかったんですか」


 思わず口を挟んだ俺に保科は、「だからそう言ってんじゃん」とバカにしたように応える。


「元々は下北沢にあったんだよ。店の名前も違ってた」


「そうなんですか……でもなんでそんなこと知って……」


「結構な有名店だったみたいで、ネットにいろんな情報が残ってたよ。とにかく――」


 そして保科は社長に向き直り、話を続ける。


「若者や観光客メインの下北と違って、新橋はサラリーマンの町だ。店も大きくなったし、客層も変わるしで、社長はだんだんと経営者としての仕事に追われるようになった。社長自身が厨房に立つ機会は徐々に減っていったんでしょう。結果、経営的には成功。ただ、注文を受けてからパティを焼き始め、一皿一皿時間をかけて丁寧に盛り付けを行うこれまでのメニューだと、回転率という意味では課題があった。そこで社長はより大きな利益を求めて、メニューを一新することにしたんだ。これまでよりもシンプルかつライトなものに。とにかく回転率を重視して、店員も増やすことにした。求人広告を出すようになったのはその頃……つまり移転から半年後だ」


「どうしてそんなことまで……」


「今朝、会社のPCで掲載実績を調べた。初回掲載は今から約2年前。つまり、移転から半年だ」


 そうか、と思う。掲載実績はAAのネットにログインした状態でなければ調べられない。今朝保科がHR特別室――AAのネットが使える環境――に顔を出したのは、その為だったのか。


「やがて社長は、完全に店舗から離れた。その経緯はよくわからないけど、とにかく現場のオペレーションは社員やバイトに任せて、社長業に専念することになったんだ。……それから2年、社長は今採用に困ってて、そして多分、あの時と同じ失敗を繰り返そうとしてる」


 黙ったままだった社長が、保科のその言葉にピクリとし、視線を上げた。


「……お前に何がわかる」


 声が震えていた。保科は肩をすくめる。


「お前に何が――」


 社長が続けて言おうとした時――

「あの……社長」


 突然、低い声がした。


 ふと見ると、先ほど厨房にいたあの大きな体の男が、いつの間にかこちら側に出てきて、社長の後ろに立っていた。大きな体に似合わない、小さな声。


「何だ! 今忙しいんだ」


 社長が今度はその店員を睨みつける。身長差は二十センチほどあるだろう。彼の前では小柄な社長は子どものようにも見える。


「いや……あの……ちょっと相談したいことがあって……」


「うるさい! 後にしろ!」


 社長が声を荒げる。男はその反応に、怯えたように俯いた。


「わかりました……もういいです」


 男はボソリとそう言うと、カウンターではなく店の出口へと向かっていった。扉が開き、ガロンガロンと鈴が鳴る。


「お、おい……どこに行くんだ!」


 呆然として叫ぶ社長を横目に、なぜか隣の保科が、大きなリュックを背負って立ち上がった。


「じゃ、あと頼むわ」


「は? どこ行くんですか」


 俺の言葉を当然のように無視し、保科は小走りに店から出ていってしまった。

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