第2章  『ギンガムチェックの神様』⑧

 何だ……俺は一体何をやってるんだ。


 ほんの数十分前に戻ってきた道を走りながら自問自答する。はっきりした答えが出る前に、久々に動かす体がすぐに悲鳴を上げ始める。


 営業三部に配属された同期は、靴が二ヶ月でダメになるのだと言っていた。足で稼ぐ営業。泥臭い仕事。そういう話を聞くたびに、俺は内心バカにしていた。なんて非効率なことをやってやがる。営業なら足ではなく頭を使え。同じ時間で高い成果を上げることこそ、営業にとっての「生産性」だ。


 そんな俺が今、走っていた。しかも、理由もよくわからないまま。


 何なんだ。この情報化社会の今、しかも、名だたる大手を相手にする営業一部の俺がなぜ走らなきゃならない。


「クソっ」


 悪態をつきながらも、なぜか俺は走り続けた。記憶の隅に、保科が茂木に対して行っていた「取材」の様子が残っていた。頭のおかしい保科の「取材」。時給を聞くでも、待遇を聞くでもない、まるで芸能人のインタビューのようなパーソナルな話ばかりだった。あんな情報で求人の原稿が作れるはずもない。


 メチャクチャな取材だと、できれば否定したい。だが、なぜかそうし切れない自分がいる。何かが自分の中で引っかかっている。


 こんな気分になるのは初めてかもしれなかった。俺は自分が何を感じているのかはっきりとはわからないまま、新橋駅前を行き交うサラリーマンの間を駆け抜ける。


 4月の午前11時、すぐに額に汗が浮かんでくる。右手に家電量販店。観光客らしきアジア人の団体が、店頭に並べられた目玉商品の前で満面の笑みを浮かべている。あの商品を買うためにわざわざ日本に来たのだろうか。非効率なことしやがって。このネット社会、欲しいものがあるなら通販で買えばいいじゃねえか。


 だが、商品の箱を抱えてガッツポーズをする父親らしき男の顔を見た時に、なぜか突然、保科の言葉が蘇った。


 ――採用ってのは、人間の話だろ?


 ……

 

 気づいたときにはクーティーズバーガーの軒先に立っていた。汗が全身から吹き出してくる。こんなに走ったのはいつ以来だろうか。上がる息を整えながら、扉を押した。既に聞き慣れたガロンガロンという鈴の音。


「しゃ……社長……」


社長はまだ店にいた。さっきと同じ席に座り、難しい顔をしてMacBookに向き合っていた。


「……すみません……あの……」


 何をどう言えばいいのだろう。だいたい俺は何のためにここに戻ってきたのか。顔を上げた社長は俺に気付くと、一瞬驚いた表情をし、だが次の瞬間には、保科と遅刻してきたときに見せたような難しい顔になった。


「何の用ですか。もう御社と話すことはありません」


 社長はぴしゃりとそう言うと、またPCに視線を戻してしまう。先ほど見た、どこかぼんやりした様子はもうなかった。テーブルの上にはまだあの本が置かれたままだったが、その存在を拒絶するように、天板の一番隅に裏返して置いてある。それはそのまま、俺たちAAに対する気持ちだとも感じられた。


 冷静に考えれば、あんな態度をとっておいて、契約がもらえるはずもない。いや、社長の態度は控えめだとさえ言えた。たとえば、これがもしウチの鬼頭部長だったら……。そう考えてゾッとする。


 あんな態度を商談相手がとったとして、鬼頭部長はどんな反応をするだろうか。仮にもう一度商談を再会したいと望むなら、上司を連れてくるなり何らかの補償をするなりしなければダメだろう。もちろん、担当営業の全力の謝罪があった上でだ。


 ……謝罪か。


 普通に考えれば、まず俺がすべきはそれだ。だが、心のどこかで、俺はいま社長に、そうではない別の何かを伝えなければならないのではないか、という気もした。


 ……しかし、それが何なのかがわからない。頭の中で、保科の言葉やHR特別室で見た茂木の悲しそうな顔が浮かぶ。


 黙っている俺に、社長が溜息混じりに顔を上げた。


「なんなんだね、一体。もう話すことなどないと言っているだろ? こっちはね、忙しいんだ。人手が足りないし……社員もどっか行っちまうし……」


 社長は自嘲的な表情を浮かべ、iPhoneを持ち上げてみせる。


「それに、バイトもドタキャンだよ、店のグループラインで一方的に報告して終わり、ときた。……見てみろ、ランチ時間間際なのに店員が一人もいない」


 社長はそう言って自嘲的に笑った。唯一の社員というのは茂木のことだろうか。


「まったく……誰一人頼りにならない。俺は一人でこの店を守らなきゃならない」


「社長……あの……そうですよね」


 何か言わなければと、適当な相槌を打った。すると社長はカッと目を見開いた。


「何がそうですよね、だ! あんたなんかに俺の気持ちがわかってたまるか! 会社に雇われて、ぬくぬく営業してりゃいいだけなんだからな! 採用ができようができまいが、あんたの懐は何も痛まない。だけどな、俺にとっちゃ、死活問題なんだよ! 採用できないことが、こんなに……こんなに……」


 そして社長はまたうなだれ、頭を抱えるようにしながらこめかみを強く揉んだ。


 社長は明らかにおかしかった。情緒不安定というか、人が狂う過程に立ち会っているような感じがする。そのキッカケを作ったのは俺たちなのかもしれない。だが、目を見開いてこめかみを激しく揉む社長を見ていると、何をそこまで苦しんでいるのかと違和感を覚える。


 ……たかが採用の話じゃないか。死活問題って……どうしてそこまで……


 その時、背後でガロンガロンと鈴の音がした。ハッとして振り返る。


 茂木と保科だった。緊張した面持ちの茂木と、いつも通り無表情の保科。やがて保科が茂木の大きな背をすっと押すと、茂木は頷いて、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


 俺の横を過ぎ、そして社長の前へ。視線を落としていた社長が、その気配にゆっくりと顔を上げる。


「……茂木、どこ行ってやがった。もうランチまで時間が――」


「社長、いや、店長」


 言葉を遮るようにして茂木が言う。


「俺と勝負してください」


 その言葉に、社長は眉間にしわを寄せ、口をぽかんとあける。いや、俺も同じ気持ちだった。この人、一体何を言い出すのか。


「……お前、なにわけのわからないことを言ってんだ。いいから早く開店準備を――」


「受けてくれなきゃ、この場で辞めます」


「な……」


 驚く社長を残し、茂木は店の奥へと歩いていく。そしてそのまま、カウンターの向こう、つまり厨房に入っていってしまった。呆然とその背中を目で追っていた社長に、保科が声をかけた。


「審査員は俺たち、やりますから」


 保科の細い腕が俺の肩口に置かれ、「な?」と言う。


「どっちのバーガーがうまいか、知りたいよな」


「え?」


「バーガーの神様がご健在かどうか、確かめないと」


 保科の言葉に、俺より社長が反応した。


「神様……バーガーの……」


「おかしな話でしょ。でも、茂木さんがそう言うもんだから。社長は、いや、店長はバーガーの神様だったんだって。そうまで言われちゃ、確かめたくなるじゃないですか」


「……」


 厨房の中に入った茂木は既に、調理のための準備を始めていた。その表情には、確かに覚悟の色が見て取れた。茂木は本当に、社長がこの勝負を断ったら辞める気なのだろうか。


 先ほどHR特別室で見た、茂木の思い詰めた顔が浮かんだ。


 微かに、納得感があった。あの人がいま対峙しているのは、職場としてのこの店ではないのだ。そうではなくて、10年以上にもわたってこの店につきあってきた、自分自身というものと対峙しているのだ。


「社長のハンバーガー、食べてみたいです。この勝負、受けてください」


 気付いた時には、俺もそう言っていた。

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